昔、征夷大将軍は源氏の血を引いてないとなれないの?

このQ&Aのポイント
  • 源氏の血を引いていなければ征夷大将軍には成れないというイメージがあるが、実際はどうだったのか疑問に思っている。
  • 1192年に源頼朝によって鎌倉幕府が開府され、その後も征夷大将軍が源氏から選ばれていたが、それ以前の最初の征夷大将軍は坂上田村麻呂だった。
  • かつての征夷大将軍には源氏の血を引いていなくてもなれた可能性がある、そんな疑問を持っている。
回答を見る
  • ベストアンサー

昔、征夷大将軍は源氏の血を引いてないとなれない?

タイトルが変な風になってもうてすみません。 知りたいことは、タイトルどおり、自分の勝手な話で申し訳ないですが、インタかどっかで知ったことがあるんですが、昔、征夷大将軍に成るには、源氏の血を引いていなければ成れへんっちゅう事をどっかで聞いた事があるんです。ただ、其れはうろ覚え・聞いただけの事、なので確かではないんですけど・・・。 1192年(1185年?)に源頼朝によって初めて、鎌倉に幕府が開府された。せやから征夷大将軍は源氏の血を引いてへんと成れへん、そういうイメージが強いんです。 けんどもっと昔に遡れば、元々は今の北海道、即ち蝦夷を討伐っちゅうか、征伐?する為に設けらたもので、その最初の征夷大将軍には「坂上田村麻呂」が選ばれた。 つまり、別に源氏の血を引いてへんでも、なれたんちゃうかなぁ~・・・と、勝手な思い込みなんですが・・・ 実際はどうやったんでしょうかね? ホンマにそう言う決まり事があったんでしょうか? 是非、知ってる方、居られれば教えてください。

noname#134250
noname#134250
  • 歴史
  • 回答数7
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#177363
noname#177363
回答No.3

そういう俗説が以前は、まことしやかに信じられていた時代もあったようです。 実際はそんなことはないようです。 恐らく幕府としての将軍は鎌倉の源氏、室町の足利氏が将軍になったため、そういう誤解がいつの頃か流布したのでしょう。徳川家が当時そう主張していたかどうかは知りませんが、源氏の血を引いているという系図をねつ造したとも言われています。

noname#134250
質問者

お礼

回答有難うございます。 という事は、悪まで逸れは昔に流れていた噂で実際はそんな事あらへんと言う事ですかね。 自分はその噂を聞いてずっとそうやと思っっとったんで、今聞いて成る程っちゅう感じです。

その他の回答 (6)

回答No.7
noname#134250
質問者

お礼

回答有難うございました。 坂上田村麻呂に関しては、大体皆さんが解るとおり、自分はそういう噂、又は話をどっかで聞きました。最初に幕府を開いたのは源頼朝。だから征夷大将軍は源氏の血を引いてなければなれへん。 けんど、翌々考えれば最初の征夷大将軍は別に源氏の祖でもなければ血縁関係でもなんでもない全くの他人の坂上田村麻呂と言う人が選ばれた。だから別に源氏の血を引いてなくても成れたんちゃうかと言う個人的な考えです。

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.6

>昔、征夷大将軍は源氏の血を引いてないとなれない? これは、鎌倉幕府・室町幕府と続いた将軍家の正統性を得たい為に、後世の各実力者が考えた政治的ショーなんですわ。 百姓でも、先祖は源氏すなわち鎌倉将軍家・室町将軍家と先祖が繋がっている。 だから、ワシでも将軍になっても良いやんか! 秀吉の考えですね。足利義昭と養子縁組までして源氏の血筋に拘っていました。 足利義昭から、拒否されましたがね。 家康にしても、先祖は乞食坊主ですが松平郷の有力者と婚姻関係を結んで松平家を乗っ取り。 家康の代になって、色々と公家・神官・僧侶の伝を頼って「源氏系統が絶えた徳川家」を発見! 徳川家康の誕生です。 が、家康は余程源氏に拘りがあったようですね。 足利尊氏の傍系である喜連川(古河公方)家に対しては、幕客として「国勝手」を認めています。 他の藩が、幕府から領地安堵の朱印状を貰う事で幕府配下になっています。 が、この喜連川藩には領地安殿朱印状はありません。あくまで、幕府の客分扱いです。 江戸屋敷も、各藩は幕府から与えられますが、喜連川藩は幕府の臣下でないので「自分で購入する必要」がありました。 歴代藩主を「御所さま」と、徳川幕府が呼んでいます。^^; 足利尊氏直系子孫である阿波公方家と、大きな違いですね。 こちらは、阿波蜂須賀家の家臣扱いでした。 では、信長は? この時代、源氏も平家も同様な思想がありました。 平家と源氏が、交代で世を治めるという思想ですね。 「足利(源氏)家の次は、平家が収める番だ」との事で、信長は「僕ちゃんは、平家だ」と公言しています。

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.5

おっと, #4 の「征荻」は大間違い. 草冠のない「征狄」です.

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.4

本題については他の回答者の通りで, 特に #2 で言われるように鎌倉時代には藤原氏や皇族の「征夷大将軍」がいました. ただ, その時代にはすでに北条氏が執権・連署として実権を握っており, 征夷大将軍はその北条氏の実権の裏書にすぎず, 「長じて北条氏に対抗するようになると京に送り返す」というのがパターンとなっています. 余談ですが「征夷大将軍」は本来「(今でいう) 東北の太平洋側を制圧する」ための職です. 同じ東北でも日本海側は「征荻大将軍」.

  • yamato94
  • ベストアンサー率33% (1/3)
回答No.2

源氏しか将軍になれないというのは俗説です。 実際には鎌倉時代、藤原家や皇族が将軍になっています。 豊臣秀吉が百姓の子だったからなれなかったというのも違います。 秀吉は将軍よりも上の地位である関白を目指し、実現しただけです。

  • toteccorp
  • ベストアンサー率18% (752/4134)
回答No.1

天皇の血を引いてないとなれないのではないでしょうか。 秀吉は足軽だったためなれなかった。 家康は家系図を誤魔化した。

関連するQ&A

  • 源義仲と征夷大将軍について

    征夷大将軍という職について教えてください。 これは蝦夷討伐を命じられた坂上田村麻呂による『遠征将軍』という職と、もうひとつ鎌倉幕府以降の『幕府の主宰者』という二種類にわけられるのですが、 じゃあその間の源義仲が征夷大将軍になったときには、いったいどういう意味での征夷大将軍だったのでしょうか? 詳しいことをご存知の方は、教えてください。 お願いいたします。

  • 征夷大将軍

    日本で1番始めに征夷大将軍になり幕府を作ったのは 坂上田村麻呂でしょうか?

  • 征夷大将軍の違い

    坂上田村麻呂は征夷大将軍になったのに幕府を開けませんでした 源頼朝は征夷大将軍となって幕府を開きました この違いは何でしょうか?

  • 歴代の「征夷大将軍」を教えて!

    日本史で「征夷大将軍」ってありましたよね。確か初代は、東北の征伐を命じられた坂上田村麻呂だったと記憶してます、その後多少意味あいは変わったと思いますが、源頼朝とかの他にだれがその地位についたか教えてください。

  • 坂上田村麻呂

    794年に坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられたのになぜ幕府をひらかなっかたのでしょうか?征夷大将軍なら幕府は開けますよね?

  • 清水寺で、鎮めている霊

    清水の舞台から飛び降りるで有名な京都の清水寺で、 鎮めている霊は、 実は、あの征夷大将軍の坂上田村麻呂が、 つれてきて、殺害したエミシの頭領だと、 歴史うんちくが大好きな友人が、飲み会で豪語していました。 これは、というのは本当でしょうか? 本当だとしたら、なぜ、エミシの頭領が鎮められているのでしょうか?

  • 源氏とは?

     真田太平記を読んで、その中に豊臣秀吉は源氏ではないので征夷大将軍にはなれなかったとありました。 源氏ではないというのは、源平時代の源氏の子孫ではなかった?もしくは源氏側ではなかったという事でしょうか? 誰か教えてください。

  • 坂上田村麻呂の蝦夷征討について教えてください。

    このほど坂上田村麻呂公の墓所とされる場所が京都の山科区で特定されましたが、この記事を踏まえて学生の頃の教科書を読み返していたところ、素朴な疑問が浮かんできました。 それは、「坂上田村麻呂はどうしてわざわざ蝦夷くんだりに武装して、しかも征夷大将軍などと国家の威信をかけて出撃したんだろう。。。」と。 予想1:防人制度に反対する東国民が騒ぎを起こし、租税を里長に納めなくなり、さらに反政府運動まで起こし、そのデモを鎮圧するため?(阿弓流為はデモの先導者?) 予想2:律令制度を確立していくにつれて国家財政が貧窮したために、あらたな租税確保のため「税務署員」として蝦夷征討へ出かけていった? 予想3:663年の白村江以来警備が手薄になってきたので、東国で鼻息の荒い阿弓流為一団を大和朝廷に組み入れ、そのまま防人に据えようとした? 坂上田村麻呂公の蝦夷征討をさかのぼること約100数十年前、やはり阿倍比羅夫公という将軍が蝦夷を征伐しています。 その東征の理由は、その後の阿倍比羅夫公の政治的な立場をみれば、おそらく白村江の戦いの出兵要員やその敗戦による北九州防衛強化のため、傭兵を調達する目的で東征したと考えるのが自然な気がします。 しかしながら坂上田村麻呂公については、その相関関係がいまひとつわかりません。お詳しい方がおられましたら何卒ご教授賜れれば幸いでございます。

  • 徳川家康は「源氏長者」として何をしたのか。

    慶長8年(1603年)2月12日、家康は征夷大将軍、右大臣、源氏長者、淳和奨学両院別当に任命されています。 Wiki「源氏長者」によれば、 「源氏長者は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。」そうです。 質問です。 1.源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利をもつのだそうですが、徳川将軍家は具体的にどんな祭祀をしたのですか。 2.また、「源氏一族全体の氏長者」ということは、源氏一族は、源平時代以降、結束が固かったのですか。そうであれば、関ヶ原合戦で源氏一族は、団結したのですか。 3.「源氏長者」ってのは実際のところ、名前だけのものであったのであれば、家康はなぜ源氏長者の任命に従ったのですか。 よろしくお願いいたします。

  • 征夷大将軍

    征夷大将軍という地位は、田村麻呂から江戸時代に入るまで変わりませんが、本来の目的ではなくなっているのに、なぜその名が変わらなかったのでしょうか。ご高見をお願いします。