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源義仲と征夷大将軍について

征夷大将軍という職について教えてください。 これは蝦夷討伐を命じられた坂上田村麻呂による『遠征将軍』という職と、もうひとつ鎌倉幕府以降の『幕府の主宰者』という二種類にわけられるのですが、 じゃあその間の源義仲が征夷大将軍になったときには、いったいどういう意味での征夷大将軍だったのでしょうか? 詳しいことをご存知の方は、教えてください。 お願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • junt
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回答No.5

 まず源義仲が京に入った時の全国の勢力地図ですが、西には京を追われた平氏がおり、坂東には頼朝の十万騎が、そして奥州には藤原秀衡が17万騎を持って独立国の様相を体していました。頼朝は、義仲が京に入っても、奥州を警戒して直接手出しをせず、外交だけで対抗していたのです。    寿永二年11月下旬に義仲は、法皇を捕らえてクーデターに成功します(法皇寺御所焼討ち)。それまで、貴族の下人でしかなかった武士が御所に踏み込むなど古今に類のない横暴だったのです。義仲は『自分は、王にもなれる。誰でも大納言にでも中納言にでもできる』みたいなことを言いますが 軍師の大夫房覚明にー公卿は、藤原氏がなるもので、清和源氏ではなれませぬーとたしなめられると諦め、その代わりに法皇に強要して従4位下に上ります。鎌倉の頼朝が従5位下兵衛佐(ひょうえのすけ)ですから義仲は頼朝を凌ぎ、源氏一統の中で最高位を得たということになります。  しかし鎌倉の頼朝は、義仲が法皇寺焼討ちするに及び期が熟したと見て範頼・義経に義仲追討の命を出しました。 2・300騎しかない義仲は、西国の平氏と同盟を結び、これに対抗しようと考えますが、末端の兵士のいざこざで平氏は京に兵隊をよこさないことになります。頼朝との戦いで負けは確実となり、義仲は『都を捨てて北陸に落ちる』ことを考えます。しかし、義仲以上に慌て、パニックに陥ったのが後白河法皇とその側近です。義仲は法皇を一緒に北陸に連れていくかもしれないし、もっと悪くすれば、やけになって殺してしまうこともあり得ると考えたのです。    『義仲をなだめよう。やけを起こさせてはいけない』というのが法皇のこの時期の懸命の思索でした。そのためには、義仲に幻覚を持たせること。それも、とびっきり甘い幻覚をです。そして出されたのが三つの院宣です。 一.平氏との同盟を固めるために法皇からも使いを出す。 一.奥州藤原氏にも17万騎をこぞって京へ上り、義仲を助  けよと使いを出す 一.征夷大将軍にしてやる  この三番目こそが義仲が最も望んでいたいたことだったのです。義仲は木曾で生まれ育った学問もない田舎者です。そんな義仲でも、かねてこの故実があることを聞き、その宣下を望んでいたのですが、院では、源氏にそれを与えた前例が無いという理由で拒絶し続けていたのです。征夷大将軍というのは平安初期に坂上田村麿がそれに任じられたのが最初で、次いで天慶(てんぎょう)三年藤原忠文がそれに任じられて以来245年、その職は、一度も存在したためしがないのです。  此の度、義仲がそれに宣下されるとあれば、源氏では最初の征夷大将軍です(以後この職は源氏の独占となり源頼朝、足利尊氏、徳川家康と続いてゆきます)。この官職に就けば名目上は全国の武士に対して動員権を持つことになります。(もっとも現実には、誰も動員されて来ないことは義仲も院も知っています)また、法皇は、この死を覚悟した義仲のために『旭将軍』という通称も一緒に与えています。  これこそが、朝廷が、時勢時勢に乗って来る権勢家を骨を抜く、奥の手であり、公家の間では、『位打ち』という隠語で呼ばれるものなのです。かつて、平家がこれに引っかかり、後には、義経や戦国期の武士までもかかり、義経が頼朝に殺されなければならなかったのもこのためです。(これに引っかからなかったのは、頼朝や家康ぐらいだったのではないでしょうか?)

genkurou
質問者

お礼

ご教授いただきありがとうございます。 とても詳しく説明してくださったので、興味ぶかく拝読させていただきました。 こうして全体像をつかんでみると、やはり頼朝はとてもうまく兵を動かしていたのだと分かりますね。もう少し義仲についても詳しいことを学びたいと思います。じつは私が読んだ本は、義仲英雄論についての史話でしたので、みなさんが回答してくださったこととはいささか違う解釈をしているものでした。 そのあたりもまだ謎ですので、回答くださったことを念頭に調べていきたいと思います。ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.4

直接の答えではないのですが・・・・ 府というのは本来中国の制度で三公、つまり政府のトップ3(もちろんその上に皇帝がいますが)の役所のことです。他の役人は政府から任命されるのですが府に属する役人の任免権はその府の長にありました。 この三公(三司ともいう)の府と同じように府をひらく権限を持っていたのが王、大将軍などです。これらは皇帝よりは下、三公よりは上の身分でしたので(ただし常設ではなかった)やはり府を開く権限がありました。それぞれ、王府、大将軍府ですが、特に後者のことを幕府と呼んでいました。大将軍は軍事の職なので、文字通り戦場でテントはって府を開く、ということなんでしょうかね。 日本では古いところで「倭の五王」、とくに倭王武が大将軍・開府儀同三司を自称しています。 というわけで大将軍は軍事のトップなので武家の棟梁にふさわしい地位なわけです。 ただし「東国の王」というニュアンスではこれでいいのですが、源氏長者と征夷大将軍はイコールではありません。この辺の地位の変遷についてはたとえば講談社現代新書「源氏と日本国王」(岡野友彦 著)が面白いです。

genkurou
質問者

お礼

ご教授いただきありがとうございます。 幕府について色々と教えていただきありがとうございます。また、面白い本も教えていただきましたので、時間があればぜひ読んでみたいと思います。 幕府についても、もう少し詳しく学ばなくてはなりませんね。ありがとうございました。

noname#113260
noname#113260
回答No.3

本来「征夷大将軍」という呼称は東国の夷(えびす)を平定するために任命されたものですが、本来の意味とは異なり、武士の棟梁の意味で任じられたのが、源義仲といえます。 彼以降、室町時代までは源氏に限らず任じられてますから、武士たちを治める役割と考えたらどうでしょうか。 有名なのは建武期の征夷大将軍:王塔宮護良親王で、彼は武士を統率する為にこの称号を足利尊氏と争って手に入れたと言われております。 源氏以外で征夷大将軍に任じられたのは正平年間の宗良親王を最後に、その後は形式的には源氏が就くものとなり、その後明治の前夜には仁和寺宮嘉彰親王が「征討大将軍」として朝敵(徳川氏)を討つために任じられたのが最後ではないかと思います。 話を戻すと「**大将軍」というのは武士を率いる大将であり、義仲はその最初と考えてよいでしょう。

genkurou
質問者

お礼

ご教授いただきありがとうございます。 夷をえびすと読むのは初めて知りました。浅学で恥ずかしい限りです。 また、実際には征夷大将軍の位がずいぶんと色々な人のもとにあったのも、驚きです。 もっと歴史を学ばなくてはなりませんね。ありがとうございました。

noname#174420
noname#174420
回答No.2

sikou-sakugoさんが既にある程度指摘されているのであまり付け加えることはないのですが、念のため。 源頼朝の征夷大将軍職を、幕府の主宰者と結びつけて考えるのはあまり正しくありません。 幕府とは、教科書的には征夷大将軍をトップとする武家の政権ということになりますが、本来は将軍の陣営を差す用語です。鎌倉幕府、正確には鎌倉の武家政権の成立については、1192年以前とする諸説があります。 1180年:侍所設置とする説(武士の統率機関の成立)。 1183年:寿永2年10月宣旨によるとする説(東国の荘園などの支配権を与えられる) 1184年:公文所・問注所設置に求める説(鎌倉幕府の主要組織の成立) 1185年:守護地頭の設置に求める説(武家による諸国の警察権把握) 1190年:頼朝の右近衛大将就任とする説(朝廷の武官として上位の地位を認められる) さて義仲の征夷大将軍ですが、これは平家を追い落として入京した後、後白河法皇の院政を停止して頼朝の弟範頼・義経軍の東国からの上京を目前にしての就任(ちなみに自分で任命)であることが考えうヒントになります。つまり「征夷」の「夷」は、東北の蝦夷ではなく、東国を本拠とする頼朝だったのです。 以上のことから、義仲が征夷大将軍になったのは、幕府を開くためではなく、東国の頼朝の勢力と戦うための名義であったということがいえます。

genkurou
質問者

お礼

ご教授いただきありがとうございます。 鎌倉時代の始まりというのはけっこう曖昧らしいですね。1190年が1192年に継いで有力な考え方だと読みました。 また義仲の征夷大将軍説なのですが、義仲は後白河法皇に色々と謀られ、征夷大将軍につくときも書状に印を押してもらっても、数日は任命してもらえなかったと読みました。このことがあったので、いまいち征夷大将軍という地位を早く手に入れたがった意味がよくわからなかったのです。 le_marcheさんは専門家のようですので、できればこのあたりも教えていただけますでしょうか? よろしければ、よろしくお願いいたします。

回答No.1

簡略にお話しさせていただきます。 本来“征夷大将軍”は、文字のごとく夷(えみし)、つまり“異民族”を征伐(国家に従わせるために武力で攻撃する)する軍隊の最高指揮官でした。 勝手な解釈ですが、朝廷が“木曾義仲”を征夷大将軍に任じたのは、田舎者で乱暴な義仲のご機嫌取りと、“源氏を束ねよ”の意味があったかに思います。 源頼朝は“源氏の棟梁”の意義を認め、自ら鎌倉に幕府を開いた時にここを東国における“異民族(アイヌなど)”への防衛拠点と言う事にコジツケて任じてもらったのではないでしょうか。 本当の狙いは、“源氏の棟梁=征夷大将軍”という図式を定着させる事にあったと思います。 これが狙い通り、鎌倉~室町~戦国と経るうちに定着したのでしょう。 このため、徳川家康は朝廷から“征夷大将軍”を与えてもらうのに、系図やなんかをイジリ回し、あちこちワイロを使ってやっとこさ“源氏”と朝廷から認めてもらって“征夷大将軍”になれたと言う話もあります。 徳川氏は源氏の系統ではなかったという事ですね。 以上は随分勝手な解釈ですので、他に論ずる方も多いと思います。テキトーにご判断下さいね。

genkurou
質問者

お礼

ご教授いただきありがとうございます。 徳川家がまさか『征夷大将軍』という地位を手に入れるのにそこまでしていたとは知りませんでした!面白いです! それと頼朝の東国防衛ですが、実際に頼朝は東日本の基盤は築き上げたのに、西日本の政治基盤はゆるんでいましたよね。なるほど~と思いました。色々と教えていただき、ありがとうございました。

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