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関ヶ原の戦いで敗れた外様武将側の武士のその後?

関ヶ原の戦いで敗れた武将側の武士は、 その後、武士の身分を失った人たちもいたのでしょうか? 外様大名になれなかった武将の配下の武士たちが、 どのような末路をたどったのかが、気になります。

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  • shin1417
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回答No.2

現代のサラリーマンと同じですよ。 会社が潰れたら、別の会社(再就職先)を探す。 たいてい、どっかの藩に再仕官したようです。 まぁ、当然、どこからも採用してもらえなかった人間も存在したでしょうが。 その場合は、武士を続けたくても続けられないわけで。 日本の将棋が西洋のチェスと大きく違い難しいのは、相手から取った駒を今度は自分の駒として利用出来るところ。 日本の戦は、大将の首を取ったら終わりなんですよ。 なんかよっぽど恨みを買っていたような場合を除いて、配下の武将はお咎め無しです。 それに武士は主君に何があっても忠誠を尽くせ!というような思想は江戸時代になってからです。 それまでは、一度主従関係を結んでも、下の人間が上の人間を見限ったら、とっとと他の武将のところへ鞍替えする、というような事は当たり前のように起きてましたから。

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その他の回答 (1)

  • isoken
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回答No.1

戦国時代から江戸初期に到る過程は、完全なる実力重視の時代です。 即ち関ヶ原で敗戦した結果責任を問われたのはほぼ大名当人のみ、その配下は謂わば一時的に失業した状態に過ぎませんし、しかも明らかに戦闘・統率能力を認められた武将は戦後引く手あまたの状況にありました。 その例は多過ぎてその全てを列記出来ませんが、例えば「槍の勘兵衛」として高名な渡辺勘兵衛、関ヶ原の際西軍についた増田長盛の武将として郡山城を任せられますが、敗戦後城に押し寄せた東軍に対して毅然とした態度を取った事で株が高騰、多くの大名家からの誘いを受けますが結局藤堂高虎に仕え、この際増田家時代の4000石からに2万石の破格の待遇で迎えられます。 もっとも彼はその後主人の高虎と大喧嘩をして、出奔し再び浪人となってしまいますが。 >その後、武士の身分を失った人たちもいたのでしょうか? 自ら進んで大名家に仕える事を止めた例は多い様ですが、その後士農工商の固定化に依り多くは庄屋階級に編入されたみたいですね。

Japaneta
質問者

お礼

自ら進んで大名家に仕える事を止めた例は多い様ですが、その後士農工商の固定化に依り多くは庄屋階級に編入されたみたいですね。 勉強になりました。 ありがとうございました。

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