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関ヶ原の戦いで敗れた外様武将側の武士のその後?
isokenの回答
- isoken
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戦国時代から江戸初期に到る過程は、完全なる実力重視の時代です。 即ち関ヶ原で敗戦した結果責任を問われたのはほぼ大名当人のみ、その配下は謂わば一時的に失業した状態に過ぎませんし、しかも明らかに戦闘・統率能力を認められた武将は戦後引く手あまたの状況にありました。 その例は多過ぎてその全てを列記出来ませんが、例えば「槍の勘兵衛」として高名な渡辺勘兵衛、関ヶ原の際西軍についた増田長盛の武将として郡山城を任せられますが、敗戦後城に押し寄せた東軍に対して毅然とした態度を取った事で株が高騰、多くの大名家からの誘いを受けますが結局藤堂高虎に仕え、この際増田家時代の4000石からに2万石の破格の待遇で迎えられます。 もっとも彼はその後主人の高虎と大喧嘩をして、出奔し再び浪人となってしまいますが。 >その後、武士の身分を失った人たちもいたのでしょうか? 自ら進んで大名家に仕える事を止めた例は多い様ですが、その後士農工商の固定化に依り多くは庄屋階級に編入されたみたいですね。
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