本能の範囲とは?マズローの欲求5段階説とは?

このQ&Aのポイント
  • マズローの欲求5段階説には、基本的欲求、安全の欲求、社会的欲求、尊厳の欲求、自己実現の欲求の5つがある。
  • 返報性のルールとは、何かをもらった場合にはお返しをするというルールであり、物や譲歩、好意などをもらった際には返報しなければならない。
  • 一貫性の圧力とは、一度意見を述べるとその意見に固執したくなる圧力であり、毎回異なる意見を持つと周囲からの信頼を失う可能性がある。
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人の本能の範囲

私が聞いた限りでは、マズローの欲求5段階説は   1.基本的欲求  (食欲、睡眠欲など)   2.安全の欲求  (危険から遠ざかりたい)   3.社会的欲求  (みんなと一緒にいたい)   4.尊厳の欲求  (周囲の人から尊敬されたい)   5.自己実現の欲求(自分の最高の力を出したい) みたいな感じでした。 たぶんこれはみんな本能なのだろうと思っています。 疑問は次の返報性のルールや一貫性の圧力などが本能的なのか、 学習の結果なのかです。 影響力の武器という本に書いてあったことで、誰かから何かをもらうと、 こちらもお返しをしないといけないという気持がする、という返報性の ルールというのがありました。 もらうものは、物だったり譲歩だったり好意だったりするようです。 また、一貫性ということで、一度意見を言ってしまうと、その決定に 固執したくなる圧力がかかる、ということがありました。 「毎回言うことが違っている」などと思われるのやイヤなようです。 この返報性も一貫性もよく分かりますが、疑問なのはこの返報性や 一貫性の圧力は本能なのか学習の結果なのかが分かりません。 たとえば「尊厳の欲求」はたぶん本能的なんだろうと思いますが、 誰かから恩や好意を受けたとき、こちらも恩や好意を返さないと、 周囲からバカにされそうなので、「尊厳の欲求」が満たされなくなる ので恩や好意を返そうとする、というような、本能を満たすための 手段としてそう感じるのでしょうか、 それとも、恩や好意を返そうとすること自体、あるいは自分の言ったこと に責任を持つといったこと自体が本能として組み込まれているのでしょうか。

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noname#134565
noname#134565
回答No.1

仲間同士協力行動をもつ動物は結構いますよね。 人間もそのひとつです。 これは動物のはなしですが、恩を売っておけばあとで返してくれますよね。 恩をうけたのに返さなかった個体は困っても助けてもらえず死んだり、配偶相手が見つからず子孫を残せなかったりします。 そうすると、恩をちゃんと返す個体の遺伝子がより多く残るので、協力行動が当然となるような個体が多い社会ができたのだという考え方をきいたことがあります。 尊厳の欲求は、仲間から虐められたり敵にすぐ狙われたりしないような強い個体になりたいという感覚が抽象化されたものだと考えられますから、返礼との関係は直接的な一対一のものではないと思われます。 もっともマズローの階層は、結局一から五にかけて、同じ欲求の抽象度が上がっていくもので、みなもとはどれも同じのように思います。

pollux0375
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど、進化の過程で、人に組み込まれる本能も徐々に進化している という感じですね。 5つに分類しただけで、実際には本能はたくさんあるということでしょうか。 ≪もっともマズローの階層は、結局一から五にかけて、同じ欲求の抽象度が 上がっていくもので、みなもとはどれも同じのように思います。≫ なるほど、ものすごく納得してしまいました。すべての本能は人類が生存・ 繁栄するためという気がしてきました。 とても参考になりました。ありがとうございました。

pollux0375
質問者

補足

犬にも愛情を与えれば愛情を返してくれる、という話を聞いたことを 思い出しました。

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回答No.2

「本能」という言葉、概念が何を言っているのかが、疑問視されているのが、多くの傾向のようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD 「本能の語が用いられなくなった理由のひとつは、これが説明的な概念としてはあまり役に立たなかったためである。特定の心理や行動を本能だと述べても、その行動の神経的・生理的・環境的原因(至近的原因:これらが伝統的な心理学の研究対象であった)について何かを説明していることにはならない。またアメリカの科学史家カール・デグラーによれば、1920年代から30年代にかけてアメリカの人類学と心理学の文献からこの語が急速に消えた。」 「この語は歴史的に様々な意味で用いられており混乱を招く。」 「マズローの欲求段階説」は、低次の欲求が満たされると、次のより高次の欲求が現れるということのようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 W1の欲求が満たされるとW2の欲求が現れ、W2の欲求が満たされるとW3の欲求が現れ、W3の欲求が満たされるとW4の欲求が現れ、(以下同様) そうした現れ方をするメカニズムがあるということを「本能」と呼ぶことにすると、研究者が何かの研究の結果新しく理論を出したと感じて次の課題に向かうのも「本能」になります。 T1 誰かから恩や好意を受けたとき、こちらも恩や好意を返さないと【周囲からバカにされそうなので】「尊厳の欲求」が満たされなくなるので恩や好意を返そうとする T2 誰かから恩や好意を受けたとき、その人に好意や親しみを感じる T3 誰かから恩や好意を受けたとき、自分も他人に優しい行動をとるようになる T4 誰かから恩や好意を受けたとき、いらだちや憤りが静まる T5 誰かから否定、拒絶、非難されとき、その人に敵意を感じる T6 誰かから否定、拒絶、非難されとき、いらだちや憤りを感じる T7 誰かから否定、拒絶、非難されとき、世の中を恨み、秋葉原で事件を起こす こういう類を、本能である/本能ではなく学習(or学習不足)の結果であるとみなしても、その先、何か有効な知識や理論を構築する上で、それが有効でないと意味ないと思えます。  ~~~~ 「マズローの欲求段階説」は、人間性心理学や動機づけの理論を進展させたと評価されているが、個人的見解あるいはごく限られた事例に基づいた人生哲学に過ぎず、普遍的な科学根拠や実証性を欠いているのではないかという疑問も呈されている。例えば、欠乏欲求が満たされていても、成長欲求の満足を求めず生活の安定を求める労働者の例がある。 人によってそのときの反応や行動は違い、全員が同じには決してならないです。 本能と言っても、そうした仕組みが組み込まれていると言ったにしても、状況に対応して単純に結果を決めるようなことにはなりません。 その人の遺伝的要素も、胎生期、幼児期の経験も、成人後の経験も、たまたまの状況も複雑に絡み合っています。 基本的欲求(食欲、睡眠欲など)、安全の欲求(危険から遠ざかりたい)でも、食事時間がずらすことも、1,2食抜くことも、危険な場所にいくことも、おっかない絶叫マシンにも人は乗ろうとします。 そうした意味では、発達、成長、学習、経験の要素、意欲や自制のコントロールは必ず混じっています。 「本能」の定義にもよりますが、組み込まれていると思っても、思わなくても、それが人間や行動、感情など理解する上で重要とは思えません

pollux0375
質問者

お礼

丁寧な説明、ありがとうございます。 なるほど、本能という言葉は定義があいまいなため使われなくなって しまったのですね。 私がイメージした「本能」(「本能的」)は、通常の場合はほとんどの人が 同じ感情・行動を示すという意味に勝手に解釈して質問をしました。 たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんは、誰にも教えられなくてもお母さん のおっぱいの飲み方を知っている、おなかがすくとそのことを周囲に知らせ るために泣く、あるいは泣き方を知っているという感じで、ほとんどの人に 共通なものが本能だろうと勝手に解釈して質問をしていました。 私は素人なのですが、「人が何故そう感じるのか」、をいろいろ考えていたら、 感情の根本の部分がどこなのかが非常に気になってこういう質問になりました。 本能という言葉があまり使われなくなっていたんですね。 知りませんでした。ありがとうございました。

pollux0375
質問者

補足

下のお礼の補足です。 たとえば 「誰かから好意を受けたとき、その人に好意や親しみを感じる」 このことが(私が勝手に考えた)「本能」ではないとすると、何故その人に好意を 感じるのだろう? と追及したくなるのですが、「本能」だとすると、それ以上 追及することには意味がないと感じたので、切り分けたくてこの質問になりました。

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