- ベストアンサー
「無」について。
学校の授業で「無」について調べることになったのですが、本を読んでも内容が良く分かりません。 なんでもいいんで教えてください!!
- guitar1995
- お礼率85% (6/7)
- 物理学
- 回答数5
- ありがとう数7
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>学校の授業で 中学校でしょうか、高校でしょうか? どうゆうレベルで聞かれているのかによって 答えもだいぶ違ってきますが。 中学生くらいと想定して・・・・ 学校で、物質はアトムという粒子のあつまりで できているという説が2000年くらい前の 古代ギリシャから言われて、今現在の物理学で 言うと、物質は原子という粒子でできている とう考えにつながっている・・・ なんてことを教わったと思います。 粒子って、球体ですよね。 サッカーボールでも野球のボールでも、 丸いものを並べると、どんな並べ方しても 必ず隙間ができます。 サッカーボールの隙間なら、卓球のボールでも 入れればいいのでしょうが、それが究極の粒子、 つまり、それ以上小さいものはないという、アトム なら、その隙間に入るような小さいものは存在しない ということになります。 つまり「無」なんです。 本当にそんな「無」の状態が存在するのか、 いまだに解明されていませんが。
その他の回答 (4)
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
それでは、あなたは「有」についてご存知ですか? それをはっきり知らずに、それと対比すべき「無」を、理解することなど できようはずがありません。 日常的実感(素朴唯物論=認識とは独立して外的実体がある)では、 「有」を排除したものが「無」です。 しかし「有」の実態を探求すると、それは無とオーバーラップするもの である事が分かります。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめ込む と存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体 の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完 (相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもの で、根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します。 実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対に よってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、 「存在するのは現在」と考えますが、空間の遅延作用において、 真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみ であり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として 時空的広がりは発生しているのです。 無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補としての 「時空仮説性」。 「相補」というのは、絶対時空を否定し、認識体との相対においてしか 時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が現象表面的 に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的存在性は生じる とする不確定性原理といったものを伴う時空、ということです。 「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の 収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸 となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速 (過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿 となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって相補的 不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的 存在(=非光速)を幻出しているのです。 相対性理論の四次元時空の式において、時間項はマイナスになっており、 そのために空間軸と時間軸の等距離点に、“ゼロの面”ができます。 それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下の領域 (未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として 生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、 存在は派生していると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。
お礼
最初の文を読んで、「確かにそうだな」と思いました。 また、調べれば調べるほどおもしろいものであることが分かりました。 ありがとうございます!!
- isa-98
- ベストアンサー率23% (205/859)
ちゃんと記載してあってもまるで読めない事もあります。 無からトンネル効果で有になる。これが負のド・ジッターです。 無とはあくまで無であり、有を包括しません。 3次元に2次元は存在出来ません。ペンの高さがあり、これが図形を認知させています。 3次元では計算でもって他次元を知る(推測する事)は可能ですが、 視覚でもってこれを認知する事は出来ません。 何も無いとは、物質(バリオン)が無いと言っているのです。 そこには空間は有り、座標も存在します。 太陽系内には重力子が満ち溢れ、太陽風が絶えず吹き荒れています。 アインシュタインの唱える重力波であれば、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%8A%9B%E6%B3%A2_(%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E8%AB%96) 宇宙のどこにも完全な真空が見出せないとなります。 量子論的真空では常に対消滅が起きています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A9%BA この世に無い物を視覚で認知する事は適わない。
お礼
やっぱり「無」は難しいですね。 ありがとうございます!!
- sanori
- ベストアンサー率48% (5664/11798)
こんにちは。 物理学のカテゴリで質問しているということは、物理学か理科の授業の課題ですか。 物理学において(=本当の世界において)真空は「完全な無」ではありません。 だから、完全ではない「無」から宇宙が誕生することができました。 http://www.icepp.s.u-tokyo.ac.jp/docs/kouen_satou.pdf しかし、先生は、そんな答えを望んでいないはずです。 「なんでもいいん」で、各自が調べた本に書いてあったことを書けばいいんです。 物理ではなく哲学でもいいです。 そして、皆で一緒に「無」について議論する、というような授業になるんじゃないでしょうか。
お礼
議論とゆうよりは発表ですね。 協力ありがとうございます!!
関連するQ&A
- 無は物理学であり得るの?
この世界の始まりは無だったと 「物理学と神」という集英社新書の本に書いてありました。 しかし、そこに書かれている「無」にはエネルギーや反物質が充満していたりして、完全な「無」ではないと思いました。 空間も時間もエネルギーも何もない「無」、完全な無というものは考えられないのでしょうか? そのような無から何かの存在が生じるのは科学的におかしいでしょうか? 私は素人ですが、もし推薦図書があれば教えてください。
- ベストアンサー
- 物理学
- 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。
私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 無は何処からやって来るのか
無は人の心から生まれるのである。 無は願望である。 無を願う心が無を生むのである。 色即是空空即是色。 これもまた同類である。 ただの願望に過ぎないのである。 いや無ではなく空であるなどと言い逃れよーとしても無駄である。 無を願う人の心が無を生み、空を生むのである。 なぜ人は無を願うのか。 あらゆるものが無であってほしいと願うのであろーか。 それとも自分だけが無であってほしいと願うのであろーか。 あるいは自分は無ではないが苦しんでいる間だけ無でありたいと願うのであろーか。 しかし有が無になることも、無が有になることも出来ないのである。 それは宇宙の法則が許さないからである。 無を願う人の心が無を生むのであれば、無を願う心がなければ無は生まれないのである。 無を願う心の中以外に無は何処にも存在し得ないのである。 無は願望である。 およそこのよーに結論して十分ではなかろーか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 《無に還元する》の《無》とは 何でしょう?
(あ) 一般的にも 《無》とは 何ですか? (い) 《無に還元する》というときそれは 何のことですか? (う) 還元するのは 誰がそうするのですか? (え) いづれ還元されるようになるときのことを捉えて このいま還元するというようなことを ほかの実験結果などに照らし合わせて 推測するということですか? (お) そうして 特に問い求めたいこととして: 無に還元するのは 《無に還元する》という認識そのものをも無に還元するのですか? (か) すべてを無に還元するのは 誰であって もし人間がそうするのなら そのとき《無に還元している》という認識やその主体である人間 これらをも無に還元するのですか? (き)=(あ)(い) 無とは何ですか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 「無」って何ですか?
ビックバンの前は無だったとかどうとかよく聞きますけど、その「無」ってどういう状態なんですか? 例えば、色は白ですか?黒ですか?それとも無なので何色でもないのですか? 時間もなかったみたいなことを言われてますが何の知識もない自分には正直、はっ?となりました(笑) 無とは何ですか?無の存在があるとするなら、もうそれは無ではないような気がします。だって科学で認識できる何かがあるから「無」が知られているんですよね。もちろん無が絶対あるわけではないと思いますが………
- ベストアンサー
- 天文学・宇宙科学
- 無を超えた無は存在するのか?
宇宙ってもしかしたら元から無いのでは? ではなくて 宇宙がもし本当に存在しなかったなら 完全無になるのですよね 宇宙も惑星も地球も人類も、生物も物体も空気も 水も火も動物、虫 微生物 菌 風も色も音も心も思念 妄想 記憶、重力 空間 次元とかもう何もかもこのありとあらゆるものが無くなったら無を超えた無になるのでしょうか? でもこれら全てのものが完全消滅して無を超えた無なんて不可能なんですよね 普通の無とは全てが無になった状態ですが 無を超えた無とは全てが無くなってもその全てを存在出来た元の土台となるもうひとつの無という定義ですがそれすら追跡する追随を許さない無を超えた無があるのか?またはどうすれば実現するのか を知りたいです。 私は今無を、超えた無は存在するのか? を突如ひらめいたので質問しましたが 私だけでは分からないので皆さんこの質問に興味が湧いた方ご意見ご感想ご教授等あればよろしくお願いいたします。
- 締切済み
- 超常現象
- 「無」が怖いですか?
「無」が怖くないというのは 良いことですか?悪いことですか? 「無」が怖くない人に宗教は不必要ですか? また、「無」に対する恐怖心の深層心理を説明してください。 お願いします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 捨ててこそ、無の境地である。
ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓ 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。 http://okwave.jp/qa/q8527407.html 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。 すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。 その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。 そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。 これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。 仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。 全く哲学になっていなかった。 自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。 さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 絶対的な無について
(qa3867782『無は存在しますか?』 に関連して、焦点を絞り込んで質問し直すことにしたが、絞り込まれたものは以下の問題に集約されると思われる。) ≪(唯物論者について)彼らは、 「死んだら無になるんだ。…あぁ恐ろしい」 と言うのです。ここには、無になるなら恐ろしいも何も無い筈ではないかという疑問の他に、それ以前にその無は有り得ないんじゃないか、という考えがあるのです。 彼らの言う「無」とは、何でしょうか? 何かの事象に付帯する状態の表現としての無でしょうか? 私にはそれは、意識の完全な無、つまり絶対無であると思われるのです。 つまりこういう事です。意識の有無は客体から見れば、或る意識に付帯する状態としての有無と言え、それは有る。 しかし、主体的意識にとっては、それは絶対無ではないか。 客体の捉えたものが真なのか。 主体の世界が真なのか。 主体の目線から考えるなら、形而上学的な絶対無について考えるしかない、そんな風に思われるのです。≫ 絶対無があるという事になれば、「死んだら無になる」は可能となる。 絶対無が無いなら、「死んだら無になる」事が出来ない。というより意識の無限が論証されてしまう。 それとも、やはり客体の視点しか存在しないのか? 「自分のことは自分が一番分かる」のか。 「他人が見てしか分からない事がある」のか。 そこで質問内容は結局2点以下に絞り切れなかった。 客体が見る事象であるところの意識の状態の有無しか存在しないのか? 主体的意識があるとして、それの無は絶対無であるが、絶対無は有るのか? いろいろ込み入って参りましたが、付き合って下さる方、どうかよろしくお願いします。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
お礼
自分は中学三年生なので分かりさすくて良かったです。 ありがとうございます!!