• 締切済み

善・善という人がいて困っています。

善・善という人がいて困っています。 他人をたしなめようとなさる方が、よく  意思は良いものであるというような論旨で物事をかたっているかと思います。 「意思は、善である」と断言するのは問題ではないでしょうか?というのも「アレコレイズム」が、全て善となってしまうからです。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?わかる方お願いいたします。

みんなの回答

回答No.1

「善悪」は方便(立場により、時代により異なる相対的なもの) であり、根拠は“実用性=そうすれば社会がうまく行くから”と いうだけに過ぎません(「過ぎません」と言っても重要ですが)。 1つの物体や行為が、絶対的に善(ないし悪)に属することはなく、 可変的なものです。 物体に本質的な目的(価値性)はありませんが、それゆえエントロピー 増大=淘汰として、常に生物の目的を「生きること」に収斂させます。 それは、個人の意識において、「意志の達成=充足の追及」となります。 つまり「人生を通算した精神的充足量の最大化」のみが、本質的目的です。 それは肉体に付属した感覚器官に基づくものゆえ、短絡的・即物的に なりがちですが、3つの点で、そうではありません; 1.「人生を通算した充足量」を構成する関数は、欲求の強さや達成率 だけでなく、それを感受する上で「認識の深さ」が大きな要因であり、 麻薬的な感覚的快感とは反対の方向性を持つ。 (意味的深さ) 2.「人生を通算した充足量」を目指す上においても、「認識の深さ」 によって人生全体を見通し、短絡的衝動をコントロールする必要がある。 (時間的長さ) 3.分業化や組織化において人が社会性をもつにつれ、自己の生存の 成立に、社会全体の活動が必須となり、真に「利己的」であるには、 社会全体の自己の肉体と同等の自覚化(他我化=愛)が必要となる。 (空間的広がり) こうした「自己の肉体の外における『人生を通算した充足量の最大化』 の要因=社会行動」を自覚的に行なわずに、政治(法規)や経済(お金)、 宗教(善悪)、慣習(正義)など、他律的に行なう時、そこに先入的価値 が生じるのです。 社会性の発達において他律的方法論をとったという事は、自発的な意思 によって生きていない=「精神的充足量の最大化」という真の目的に おいて、人類は退化しているという事です。 いわば善悪の既成概念そのものが、「自律的生=社会生命的自覚化」を 省略して自己チューなまま安易に社会化する社会システムのための、 必要悪です。

noname#131233
質問者

お礼

貴重な回答をありがとうございました。 具体的に わからないことが多いので、愚かな私にいい含むませるというい意味で もうひとこと・ふたこと 誠に恐縮ですが お願いできますでしょうか。できれば補足回答をお願いいたします。わからずやですみません。 ---------------------------------------------- >「1つの物体や行為が、絶対的に善(ないし悪)に属することはなく、 >可変的なものです。」 もし質問者様が時代の先端を走っていらっしゃるという幻想をお持ちであるとすれば、 質問者様が「時代に沿って」全てを決めることが出来る ということと解釈いたしました。間違っているようならご訂正くダサい。 >物体に本質的な目的(価値性)はありませんが、それゆえエントロピー >増大=淘汰として、常に生物の目的を「生きること」に収斂させます。 >それは、個人の意識において、「意志の達成=充足の追及」となります。 >つまり「人生を通算した精神的充足量の最大化」のみが、本質的目的です。 意思の達成=充足の追及というのは、 「社会に沿っている『わたし』のやりたいようにやらせろ」ということであり、善とは相容れないのではないでしょうか? ご存知の範囲でよろしいかと思います。回答をお願いいたします。 以下重ねて >物について・・・ 即物的ではない素晴らしい主張ということですが ?1.「人生を通算した充足量」を構成する関数は、--->(意味的深さ) 精神的充足・意味および認識の深さは関数では表せません。関数で表せないもののインバース・もしくは反対は存在しません。 「上記のそれとは違うもの=何か」という発言しか出来ないのではないでしょうか? それがなにかということについて具体的にご説明願えますでしょうか? ?2.「人生を通算した充足量」--->(時間的長さ) 時間は存在しません。(※注 この主張は私の意見ではございません。) よって時間の長さについてここで書くのは規定違反です。 ?3.分業化や組織化において---社会全体の自覚化(他我化=愛)が必要となる。 >(空間的広がり) 必要論の繰り返しです。質問者である貴方が何かを必要となさっているというのはわかりますが根拠がありません。 それ(他我化)が必要であるであるという主張の根拠をお示しください。 1-3に共通するのは時系列抜きでは測定不能という事象であって、論の根拠とは別の(異質の)問題です。 質問者様の説明では、 『私(質問者様)』=特定個人(私はそう思う・私が社会の中の最善の部分である)と言う共通項以外に善の根拠が見当たりません。 回答者様である貴方は、本当に自分が善であると思っているのでしょうか? 最後の文章=人類は退化しているという事です。 自発は進化、他律は退化と単純化して表現なさっておられるようです。しかし、自分から出発していれば善というのは理解できません・・・ この点が、あたくし個人が、「質問にまで至った原因」といってよいと思います。 >いわば善悪の既成概念そのものが、必要悪です。 質問者様が善悪をのべるのは、そのときそのとき(回答者様にとって存在しない『時』および)状況にあわせてやっているということと理解しました。 そういうのを偽善と呼ぶのではないでしょうか? 会社では他律の愚か者たちに合わせて活動しているが、私は、ほんとうは(ネット上では)自発の善人であるということと どうちがうのでしょうか・・・ よろしければ説明をお願いいたします。

noname#131233
質問者

補足

回答をもう少しまとめていただけると幸いです。支離滅裂とまでは行きませんが、回答になっていないようです。わかる方ということで伺いました。 回答者様も含め、 意思は、善である(たとえば必要悪)ということをおっしゃる方に関し、 その根拠を伺っているのですが?個人的な回答として、根拠はないということでしょうか? 出来れば簡潔にお願いいたします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 善と悪についての問答

    善と悪についての問答   問う人:  善とは何や。 「人の道」:   善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 問う人:   では悪とは何や。 「人の道」:   悪とは善の対極にあるもんや。  つまり悪とは偽ることや、そして物事を捻じ曲げることや。 問う人:   偽るとはどういうことや。 「人の道」:   偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。 偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。 偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。 偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。 問う人:   なぜ偽ることは悪なんや。 「人の道」:   偽ると真理の探究は出来んからや。 問う人:   如何なる場合も偽ることは悪なんか。 「人の道」:   そーや、如何なる場合も偽ることは悪や。 問う人:   最大の悪とは何や。 「人の道」:   最大の偽りや。 問う人:   最大の偽りとは何や。 「人の道」:   神や仏、天国、地獄を語ることや 問う人:   なんで神や仏、天国、地獄を語ることは偽りなんや。 「人の道」:   だから言うたろ。  見えんもんを見えると言うことは偽りや。  聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。  知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。 「人の道」:   どうや、これで善と悪が何かよー分かったろう。 問う人:   はい、よー分かりました。善とは偽りの無いこと、悪とは偽ることや。 「人の道」:   では最大の悪が何かも分かったか。 問う人:   はい、よー分かりました。嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るのが一番悪い。 「人の道」:   皆にも聞く。宗教漬になって嘘八百並べるのが一番悪いちゅーこと、よー分かったな。      

  • 善について 2

    ●わたしは 人間がやることは すべて悪におもえてなりません。  したがって なるべくなんにもしない事が 善かなあ・・・と感じています。  人間のしてることでいいことって 何かありますか?  思い当たる方、教えてください。

  • 絶対的な善???

     以前自分が他人に傷つけられたことを話したら、「人はみな何らかの形で人を傷つけているのだから文句をいうな!自分を絶対的な善だと思うな!」といわれました。  まあ確かにそうかもしれませんが、だからといって人を傷つけることが正当化されるわけではないと思うのですが、みなさんはどう思われますか?  私には泥棒が貧乏人ではなく金持ちから物を盗んで「あいつらはこれぐらい盗まれてもたいしたことはないからいいんだ」と自分の行為を正当化しているのと同様にごまかしの詭弁にしか聞こえないのですが…  それと傷つけられたことを話したことが絶対的な善とどう関係があるのかも分かりません。  私の意見って間違ってるんでしょうか?

  • 悪は 善と同じように存在していますか?

     1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。  2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。  3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。  4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。  5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか?  6. 回答は ふたつに分かれると思います。   6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。     6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。  どうでしょう。  

  • 善と悪

    生まれつき善良な人間は成長していくうち生き苦しくなり悪に染まりやすい気がします。逆に悪で生きてると徐々に改善され善人になる感じがします。 というのも子供の頃暴れん坊が大人になり落ち着いたり、優等生が大人になりすれたりします。 性善説とか性悪説とかありますが人によって生まれつき悪と善がいる気がします。因みに生まれつき悪の方が善人になり生まれつき善が悪人になるような気がします。どう思いますか?

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 善と悪に付いての一考察(いちこうさつ)

    >(国語)こうさつ かう―0【考察】 (三省堂「大辞林 第二版」より) (名)スル 物事を明らかにするために、十分に考えること。 「経済情勢について―する」 >まあ、あれですよねえ、何人の人が救われるかが「善」で  何人の人が苦しみ果てるかが「悪」なんでしょうね・・?  シンプルに問います!  貴方はどう思いますか?、教えて下さい、お願いします! >ドラゴンボール改 DRAGON SOUL Full Song habatakunosa  貴方はドラゴンボールの中の登場人物の誰に当たると思いますか?  その心は?、教えて下さい、お願いします、追加!

  • 絶対的に正しい行為(絶対善)を定義してみた。

    私たちは正しい(正義)と善は何か違うものように感じています。そこで善とは何かを考えてみました。 アメリカのエール大学などの実験で、あまり理性の発達していない生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっていると科学的に証明されています。つまり善なる感情は生まれつき持っている本能的なものであると分かります。理性で考えられた正しい事、規範(信号を守る、税金を納めるなど)ではなく、本能から来る善なる感情は何なのか?と考えました。そこで多くの善なる行為を考えてみてピン!と来たのが「思いやり」だったのです。 例えば浜辺に打ち上げられたクジラを海に返してあげようと頑張っている人たちを見れば、何か暖かいものを感じ「善い人たちだな~」と思います。またカルガモが道路を渡れず困っているのを見て、みんなが車を止めてカルガモを渡してあげるのを見ているとなんだか心が暖かくなります。このような善なる行為を多く考えて、そのすべてに共通しているもの、内包しているものを考えていたら、それは「思いやり」であると気が付いたのです。 これは論理学でいう内包的な定義のやり方です。全ての要素に共通しているもの、内包しているものがその本質なのです。その本質を言葉で表したのが定義と言い、これが厳密的な定義になります。 つまり多くの善なる行為に内包していたのが「思いやりであり、私より公を優先する行為」だったのです。そこで私は善とは「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」であると定義しました。勿論、自分が考えたすべての善なる行為に「思いやり」が内包していただけですから、もしかしたら「思いやり」が内包していない善なる行為があるかもしれません。しかし私が考えた善なる行為の中にはすべて「思いやり」が内包していたのです。 私は哲学はまだ素人であまり自信がありませんので、賢い人たちの意見を聞かせてください。どこか間違っているでしょうか?よろしくお願いします。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。

  • 勝手に物事を決めつける人

    ここ数ヶ月間、「どうせ○○だろう」と勝手に物事を決めつける人に 出会うことが多くなりました。 因みに、総て男性です。 人の話を総てきかないで決めつけられては此方からは何も言えないし、 そういわれることに関して非常に腹だ出しい思いになります。 他人にそういわれてしまう私にも原因があると思いますが、勝手に 物事を決めつける人にはどう対応したら良いのでしょうか?また、 他人に話をさせないで勝手に物事を決めつける人をどう思いますか? 色々お教えいただければ幸いです。 何卒よろしくお願いいたします。