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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:輪廻と業の説は 無用ではないか)

輪廻と業の説は無用か

このQ&Aのポイント
  • 輪廻転生は同じDNAを持つ人がいなければあり得ない誤謬である
  • 意志行為が原因で縁を引き寄せ、一生涯を超えてはたらくことはあり得ない
  • 因果応報の説は人間の生まれてから死ぬまでの現実性を持つか

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noname#156094
noname#156094
回答No.36

還相についてですが・・・ 自らが受け取ったものを他者に振り向ける救済の行為か、或いは、そこにおいて生じる結果そのものを指すのか はたまた、そのどちらでも無い、作用を及ぼす働きが生じたという慈悲の具現化を指すのかどうか 或いはそれら全体を意味する事も可能性としてありましょう。 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 主観的な範囲に留まる内容などは、否定的論法により一蹴されてしまうものと思われます。 また、下手な客観性といったものを持ち出せば、愚かだと決めつけられてしまうでしょう。 還相の利の面の純粋さを得る事、守る事は容易ではない感じがいたします。 私個人においての還相の行果として確かめられうるものは「祈り」です。 仏から頂いたものでありながらも、自らの能動的な慈悲心の発露としても感じ取れるものです。 この点については、ブラジェロンヌ様も既にご承知の事と存じます。 でなければ、私に書くようにとはおっしゃられなかったでしょう。 ついでながら、私が仏様にたいして逃れ得ぬ非というものを感じているものも、また還相の中にあります。 それは、受け止めているものの大きさに比しての行いというものを、常に小さく感じているからでもあります。 それでも尚、祈っている時には救われます。 信仰という主観の中に納まるものでありながらも、自らがおかれている現実の広がりを変えうる力を得られたと思い込む事ができるからです。 やはり私は弱いのでしょう。 でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 そんなところです。 あとは先生にお任せいたします。 それではお元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ここまでおつきあいいただきまして ありがとうございます。  さて 話が――と言いますか こころがと言うべきでしょうか――噛み合わさって なかなかたのしい対話でありました。どこかボケとツッコミの漫才でもあったでしょうか。  そうですね。わたしはいつも撞かれた鐘として響いて来ていましたが 相手のほうからも鳴り響いてくる音を聞くのは 正直なところしばらくぶりでした。  ★ 還相についてですが・・・  ☆ たしかにいわゆる教学においてむつかしい教理があるように聞いております。詳しくは覚えていないという体たらくですが ぎゃくにわたしは勝手に解釈して積極的に《人間的交通への踏み出しあるいは対話の姿勢》という意味で使っています。  ★★ (回答No.29) ~~~~~~~~~  悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。  ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この姿勢もしくは心構え だけでじゅうぶんという捉え方です。おそらくこの意味での還相は 述懐しておられるように すなわち:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし  その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というこの《祈り》にも通じているものと思われます。  そこで問題点のひとつは:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。  そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにつきましては わたしの筆の力が及びませんで 誰かから引いて来ることになります。  ▲ (パウロ:コリント後書 13:7) ~~~~  わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽物の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ま 上から目線でもあるのですが そういう役割をになう人びともいるということではないでしょうか。  ★ 人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問  ☆ をもってみづからの身をつつしみつつ――同時にそのようにしつつも―― 勇み足を辞さないボケを演じる人間もいてもいいのではないでしょうか。さもなければ 仏性がやどるという命題は撤回していただきたい。  《疑問》は 身をつつしむためのものでしょう。つつましやかであることと 相手と場合によっては・またはそのときの社会の情況によってはバカを演じることとは 両立すると胸を張って考えます。それに大きく言っても 末法なんでしょ?  これだけ鐘の音が鳴り響いてきたのであるなら わたしはバカから足を洗って さらに利口ぶりを発揮しなければならないでしょう。決定的なことをのべます。  祈りは あくまでひとの目から隠れて――つつましいというのは 身を包み思いは胸に包み込むという意味ですから――おこなうものであると同時に 祈りのことを口に出すときというのは よっぽどの時だけです。ひとつの最後のことばになりがちなところがあります。  これを言いかえると・そして逆にいぢわるく捉えるならば 祈りを口にするというのは 《還相》のための言い訳にしか過ぎなくなると考えるのです。還相のためのアリバイづくりにしか過ぎません。  自信や確信がないのであれば 信仰を持つ意味がありません。というよりは 自信があやふやなときに それでも信じるというわが存在の動態があるのならば 大いに他流試合をいどむのが ふつうの社会生活なのではないでしょうか。  いまは そういう時代でしょう。  捨て台詞のごとくなったとしても 天の岩屋戸籠りは ふるいと申し上げておきましょう。  底抜けの脳天気よりにて。

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noname#117439
noname#117439
回答No.24

私の回答内容は、輪廻説は定説をはねのける再検証が必要ではないか?です。 過去世、現世、来世、全ては世を問うており字ずらの通りならその全てはある。 ここで困難なのは歴史として過去世は証明されており、自らが屍で無いならば、生きて現世を実感している。(筈である?)実質的に屍のごとくふるまう方もいます。さらに始末に負えないのは、未来は保障されていない。したがって来世は無いかもしれない。このように遠からず地球上から生命全てが滅亡する前提で論議をもちかける人もいます。 過去生、現生、来生に関して言えば個人的な事柄です。 現在を生きる私はこのようであり、過去はこうであった、未来はかようであろう。 そんな話です。 過去に表された文献の類は「世」と「生」が混同され明白な分別の付いていないマジギレ哲学である。 そこは再考の余地があるでしょう。 「世」と「生」とは「私と誰かさん」すなわち関係であり輪廻のみに代表して考察するべきではないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。まだあとにつづく投稿内容を見ていませんが ここだけで判断すると   ○ けっきょく 輪廻は 無用ですか? 無用ではなく 有用ですか?  ☆ と問わねばならないように思います。  ○ 定説の再検証の成功を俟って そのとき初めて 輪廻という思想について 有用・無用を決める。  ☆ こういうことでしょうか。  ★ 「世」と「生」とは「私と誰かさん」すなわち関係であり輪廻のみに代表して考察するべきではないでしょう。  ☆ 《世》と言う場合には 《わたし》がその過去世や未来世にいるかどうかを問わずに過去時と未来時を持ち出しているのみと受け取っているのですが ちがいましょうか?  言いかえると 《生》の場合には 《わたし》がいたということになるでしょうか? そうすると輪廻はあるという見解になります。  そこのところ さらに明らかになればよいと思います。

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  • AXIS_
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回答No.23

>☆ これは 《縁:間接的な原因》のことです。  ○ 業の仮説による因果応報説に従うなら めぐみさんは   ・ 自己の為した悪としての行為(業)を因(直接的な原因)として   ・ 加害者による拉致という行為を縁(間接的な原因)に招きつつ   ・ 拉致されるという果(このばあい 悪の結果)を得た。  ○ これらの因縁果の流れは 自業自得である。  ☆ となります。  ◇「他者によって報いを受ける」という表現に、「自分が為した結果として」という意味が含まれています。そうでなければ「報い」と言う言葉ではなく、「被害」を受けると表現するでしょう。「報い」は「報い」ですので。 >☆ という方面のことにかんして 《行為》ではなく《結果として招いた状態》を言う場合もある。  ◇「浅いか深いか」についてはともかくとして、「結果を招いたときの状態を言うのでしょう。」と自分で言っているように、「行為」を意味するものではないということです。従って、(2)は成り立たなくなりました。 >☆ これがつねに成り立つとは限らないと言っています。  ◇どこで言っていますか?(1)においてはそうではないという主張ですね。 >☆ DNA が同じであることと《わたし》が同じであることとそしてアイデンティティの一貫性 これら三つは 同じことでしょうから。  ◇一卵性双生児の人はおなじ《わたし》なんですか?アイデンティティーの一貫性があるとは言えないですね。 >☆ 果てさて どういう場合にあり得ますか? 仮に違うDNAを持っていたとしても、アイデンティティーが同じで[あれば]同じ人格を持つ生まれ変わりであると言えます。つまり何らかの方法でDNAが違っていても、アイデンティティーが同じであると確認出来た時、同じ人格を持つ生まれ変わりであると言えます。あくまで可能性としての例として挙げています。「同じDNAを持っていても、全く同じアイデンティティーを持っているということにはならないと言っています。」の文章の対比として使っており、DNAとアイデンティティーの問題は関係ないという「例」としてあげていることに留意してください。 >☆ これも分かりません。こちらについては 《パーソナリティ》のまちがいではないですか?  いいえ、自己同一性 という意味でのアイデンティティーで良いですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ◇「他者によって報いを受ける」という表現に、「自分が為した結果として」という意味が含まれています。  ☆ たぶんですが ブディズムの側から訂正があればそれに従わねばならないでしょうが たぶん 拉致行為を犯すその他者は いわば触媒として作用している。つまり それが《縁》の役割だと考えます。  ですから  ○ 自分の為した行為を因として 他者の行為を縁とし 自分の犯した因によって 自業自得の果を得る。  ☆ のだと思います。言いかえると 表現のもんだいにわたしはこだわったというところです。  ★ ◇「浅いか深いか」についてはともかくとして、「結果を招いたときの状態を言うのでしょう。」と自分で言っているように、「行為」を意味するものではないということです。・・・   ☆ これは詭弁です。その《状態》をまねいたのは 因となった《行為=業》です。状態だけを別とするのはおかしいと言っています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~   >☆ これがつねに成り立つとは限らないと言っています。  ◇どこで言っていますか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 次のように表現を訂正します。  ○ これがつねに成り立つとは限らないと言おうとしています。というのも 《パーソナリティ》に限っては 明らかに《わたし》の自己同一性とは 別次元のこととし得るから。  ☆ と言おうとしたのでした。  ★ ◇一卵性双生児の人はおなじ《わたし》なんですか? アイデンティティーの一貫性があるとは言えないですね。  ☆ これも舌足らずだと言えばそうですが 《生まれ変わり》の問題としては 一卵性双生児については DNA が同じでも例外として扱いうるという前提を持って話していました。  ★ 仮に違うDNAを持っていたとしても、アイデンティティーが同じで[あれば]同じ人格を持つ生まれ変わりであると言えます。つまり何らかの方法でDNAが違っていても、アイデンティティーが同じであると確認出来た時、同じ人格を持つ生まれ変わりであると言えます。  ☆ これは納得が行かないですね。自己同一性というとき《自己》は 《わたし》と自称するその本人です。同じ《わたし》という言葉を使っていたとしても 自称する人は それぞれ互いに違っています。一卵性双生児の場合にしても そうです。  言いかえると このように自称ということでその話し手が違うならば とうぜん表現の主体が違います。主体ないし存在が違っていながら 自己同一性が同じになるということは わたしには考えられません。《可能性として》もです。論証以前のことと思いますが そうすると ここで見解の相違という点で一致して 対話は断ちきれますか?  アイデンティティは 同じひとりの《わたし》に一個のみです。複数の人間にまたがるということは考えられません。  なおもし一卵性双生児について 輪廻を除外して業の思想のみで考えればどうか。この問いを取り上げてみるなら たぶんこうでしょう。やはり話し手として存在(主体)が違う。これが 決定的な区別の基準になると考えます。たとえ二人のあいだで因と縁とそして果についてどこかで共にその行為に与かっているとしても そのこんがらがりにもかかわらず 人格は別だと考えられますから 業をも互いに異にする。こう考えます。  ううーん。どうでしょう。

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noname#156094
noname#156094
回答No.22

後ろから先生の大きな声が聞こえましたので・・・ >人びとはゴータマの涅槃説を超えよ! あわ・あわ・あわ・・・ ご、ごめんなさい 私はどうすればいいのでしょう? ついに先生を怒らせてしまったようです。 (立派な引用文ばかりでいじめると、こ~ゆう結果になりやすい) ちょっと一休みという感じでお話します。 ずーと前の事ですが、読売新聞の記事でこんなのが載っていました。 海外の取材で、インドのアジャンター石窟の写真と共に、記者の感想文が書いてありました。 仏教徒でもない一般人の記者の感想文です。 石窟内の彫刻や絵画の写真を撮ってから、見晴らしのいい所で休んでいたそうです。 その時に、心の中に自然と浮かんできた事があったそうです。 自分の今までの人生のすべてが、静かに、何のわだかまりもなく次々に思い浮かんできて見えたそうです。 そして、これからの自分の人生も、こうなのだろうと自然と見えたのだそうです。 すべてが透明で、静かに見えたのが本当に不思議だった、とありました。 始めての体験で、正直な感想文として書かれていました。 こんな事って、ある程度は誰にでもあるのでしょう。 行った場所が場所だけに、余計だったのかもしれませんね。 自分の人生を思いがけずに感慨深く見てしまったという事なんでしょうけれども・・・ 自分とは何なのか・・? この問いかけは誰にでもありますね。 でも答えを見つける事のできた人はいたのでしょうか。 せめて教わって、こうなのだろうと信じる以外にないのかもしれません。 お釈迦様って、自分を尋ね歩いた人だったようにも思います。 ☆またお釈迦様か、こら!いい加減にしろ! てな先生の声が聞こえてきそうなので、この辺で逃げます。 スタコラサッサ・・・さようなら。 先生お元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 先生ですか わたしは。――こんばんは へたのすけさん。ご回答をありがとうございます。  ★ お釈迦様って、自分を尋ね歩いた人だったようにも思います。  ☆ ぢゃあ まださとりに到っていないということですか?  ★ 自分とは何なのか・・?  ☆ 《わたし》と自称する存在のことです。  そんなことよりは――つまり 過去や未来を持って来て 現在のつじつまを合わせるというよりは―― この現在がむしろすべてとして 人びととの交通に入らなければ 仏性はウソです。  バラモンには勝ったと思って あとはその優位さを宣伝しつづけた。というところではないでしょうか。  そうでなければ 涅槃に入ったというのであれば だから社会において何をしたいのか。社会の仕組みをどうしたいのか。人びととの人間的交通とは どういとなめばよいか。その実践論もしくは 実践そのものに進んだはずです。末法と言っとけば まだまだ面子は保てる。といったずるがしこい人間だったのでは?  そうでなければ この人間の生は 一回きりなのだとはっきり主張したことでしょう。まわりくどいことばっかり言って 人びとを飽きさせなかったかも知れませんが それはただ一時の気休めです。あとは がちがちの道徳のみです。規範化をしてしまってどうしようもない道徳だけのように思えます。  縁起共生の空観は 生かせます。  ほかの思想は それを理知的に実践すると 肩がこるだけのように思います。  どうでしょう? 事態の進展をのぞみます。

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noname#135843
noname#135843
回答No.21

 こんばんは、お世話になっております。Hidocchiでございます。 > (1)生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  一卵性双生児の場合ですと、DNAが一緒となります。そして一般的に、二卵性の人達に比し、体型だけでなく、性格も似ていることがよく知られています(養子等で別個に、離れ離れになっていても、でございます)。では、このような方達が、どのような輪廻転生によって生まれてきたのでしょうか。いろんな説明が可能かもしれませんが、明確な論証は困難かと推察されます。  また、釈尊におかれます“輪廻”でございますが、以下スッタニパータ(中村元 訳)から引用しております。 [輪廻について] 519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、”輪廻”を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。 638 この傷害・険道・”輪廻”(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。 729 この状態から他の状態へと、くり返し生死”輪廻”に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。  以上から、経験世界とも、また非経験世界とも、両方に解せられます。 [「因果応報」、「善因善果」、「悪因悪果」について]  これらには、直接の記述はは見られませんでした。そこで以下の解釈が最もふさわしいものかと考えております。 「善因善果とは、善い思いが幸せを生み出すと言う事。」  (ソース:Wikipedia ”因果の道理”) > (2)業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  決まった結果の(生涯を通して一貫性を保った“結果”についての)説明は、困難なものと察せられます。つまり、“偶然性”のようなものは否定できないものと考えております。 > (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?  いいえ、否定致します。 > (4)言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  ケースバイケースかと存じます。自分で責任のとれる(判断可能な)範疇での結果につきましては、“自業自得”といえるかもしれません。  ですが、その因果関係の実証・反証が、不可能なものにつきましては、言えないと考えております。例えば、もしAさんなる人が、Bさんなる人に肉体的障害を受けたとします。そこで、Aさんの前世・日頃の行い等(この日頃の行いは、Bさんとは一切無関係な場合です)について“問題あり”とされたとしますと、過失相殺されてしまい、Aさん(もしくはその親族)には何の保障・賠償もされないということになりかねません。もちろん、Aさんに関しまして、Bさんに対するそれ相当の“問題あり”と実証された場合は別でございます。もしかような実証・反証不可能な“自業自得”論がまかり通ってしまいますと、公明正大な裁判(判断すらも)は不可能となってしまいます。 > (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?   人を励ます等、善意のものであれば、“方便”としまして、認めてもいいと思っております。ですが、人を裁く等の場合におきましては、実証・反証不可能な場合での使用は、禁忌かと考えております。  ご参考になれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 一卵性双生児の場合ですと、DNAが一緒となります。・・・   ☆ DNA を取り上げるなら この一卵性双生児についても触れておかねばならない。ただし生まれ変わりと見ることはむつかしい。  ★ 釈尊におかれます“輪廻”でございますが、・・・〔* たぶん その輪廻を超えたところの境地は〕経験世界とも、また非経験世界とも、両方に解せられます。  ☆ 経験世界なら いわゆる修行の結果と見ることができます。非経験世界であるならば どうか?  ▲ (スッタニパータ 519 ) 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、”輪廻”を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。  ▲ (同 638 ) この傷害・険道・”輪廻”(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。  ☆ 《完全な者 / 渡りおわって彼岸に達し》からすると 《非経験の世界》をも視野に入れていた。もしくは 実際に非経験の世界を指し示している。のでしょうか?  わたしは分かりません。  そして この表現には 或る種の違和感を感じます。ブッダという割りにはという意味です。たとえば  ▲ 一切の悪を斥け  ☆ いったい何のためにそういうことをするのか? あるいはそういうふうな境地にならねばならないのか? です。もしブッダならわたしから見れば 現象としては悪もある(あるいは 毒麦を引っこ抜かずにそのまま放っておく)情況の中にあると思いますし 思弁的にはおよび相手との言語外のコミュニケーションにおいては そのような悪の部分での《交感》も感化するには必要だと考えます。  《汚れなく》って言っても 人間が人間であるあいだにそんなふうな状態になる必要があるのかと思います。《執著がなくて》と言っても 相手との交通においては その相手と生命存在どうしとして向き合うというかたちでの《執着》はあったほうがよいと思ったりします。  同じような主題ですが 《こだわることのない人》と言っても 生活共同の場(社会)において何らかの仕事をするわけですから 仕事をしつつも何らこだわることもない。こう言ってもらわないと 何だか《執着やら汚れやら》を無理にでもむやみやたらに失くそうとしているというように映ります。  ▲ 「善因善果とは、善い思いが幸せを生み出すと言う事。」   ☆ ほかにも次のような記述がありました。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  自因自果とは、自分の受けとっている幸福、不幸とは、自分の思いが具現化しているものに他ならないということである。  あくまで「因果」とは 「恐れ」や「害意」の思いを無くし、「慈しみ」「感謝」の思いを勧めていこうとする思想なのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いったいどういうことかと いぶかしみます。因果応報なんて言っていないのでしょうかね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > (4)言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  ケースバイケースかと存じます。自分で責任のとれる(判断可能な)範疇での結果につきましては、“自業自得”といえるかもしれません。  ・・・  もしかような実証・反証不可能な“自業自得”論がまかり通ってしまいますと、公明正大な裁判(判断すらも)は不可能となってしまいます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ けっきょく定まりません。か それとも そもそも無用であると見るかだと受け取ります。  ★ 人を励ます等、善意のものであれば、“方便”としまして、認めてもいいと思っております。  ☆ ということは 原則はすでに 業の思想は意味がないということにほかなりません。無意味だけれども 方便として使うことはあると言っているのですから。    どうも後味がわるいようにも感じています。すっきりしているのに さとりの境地にあっては 過去世や未来世が分かるようになるとか そこに神通力をも含ませて けっきょく輪廻も業の展開も 残しておこうという動きがあるように見えます。《一切の悪を斥ける》ことのないブッダの境地が 反面ではもろに 示されているようにも映ります。  ありがとうございました。

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noname#154561
noname#154561
回答No.20

私は哲学者でもなければレアな知識を披露する哲学の好事家でもない。 設問への回答に際して背景となる考察を述べてみた。 未だ理論確立段階の技術だが、分子・更に原子の配列の再配置という技術は近く実験段階 レベルになる。 生命の設計図、というよりレシピと言った方がニュアンスが近い DNA分子だが、これを使ってクローンを造っても性格が異なるばかりか肉体的にも 完璧に同じにならない。 仮に、肉体の分子配列を全て完全にコピーして再配列(映画や小説では物質転送機やら 蝿と合体やら、いくらでもそういうアイデアはあった。)して、物質的に再生したら、 それは転生と言えるのか?という疑問も含みつつ、オリジナルが消滅していなければ? いずれにせよ生成したその瞬間、もはやオリジナルと存在位置が違うことで存在は 別なものに分岐したことになり同一ではない。視覚的情報処理が異なるからだ。 更に、人間を単純にハードウェアとソフトウェアに分割してモデル化するのはいささか 乱暴かも知れないが、現実にコンピュータは人間の思考のモデルとして開発されたもの であり、現在の無限に広がるネット空間をみれば、人間の意識存在とは根本的に異なる、 という考えは少し時代遅れになりつつある。 0Sもアプリケーションソフトも単体で脳内に識別されているわけではないが、特定の 思考パターンの時に特異的に選択されるニューロン回路のルートは多数確認されている。 コンピュータもLSI上の顕微的回路は、オン・オフを条件選択するスイッチ回路で 瞬間瞬間、「ある特定の働きをする回路」を形成しては、違う回路に変化するのが 現在のコンピュータの構造の原理だと考えて差し支えない。(下らない技術史論や 語彙の解釈論などは却下する(笑)) 現時点で明確に再構築できていないが、コンピュータとは異なる仕組みで、この プログラムが汎用論理回路を都度、特定の目的に合わせて変化させる仕組み、ええと ノイマン式って言うんだっけ? 要は、この仕組みが人間のニューロン回路でも 近い仕組みがある以上、DNA、ニューロン、記憶物質など ハードウェアに属するもの だけを見ても、心だの魂だのゴーストだのが動作しているプラットフォームについて 述べているだけに過ぎないと思う。 現実に「人生」という処理動作を行うハードウェアたる肉体は当然、器質として存在 するが、ついついそれ自体が実体と混同されてしまいがち。 それは汎用の構造であり、生い立ちという唯一性からユニークにならざるを得ない (知覚できる範囲では、という狭い意味だけど)人間の特異性(それを人格、と呼ぶと また誰かに何か言われそう・・・別に動植物も含めていいんだけど)の主体とは、寧ろ、 情報処理装置の仕組みの中での働き方や変化する具合から考えて、ソフトウェアだと 考えることはそんなに荒唐無稽な暴論ではない。 とすると。 ソフトウェアは動作していないコードの状態では、召喚されていない魔法の竜が 「書き込まれた」宝石のように生きても死んでもいない状態とも言える。 更に言えば、ソフトウェアには、OSに依存している「他所のコード」も含まれている。 一般細胞にもミトコンドリアなる気色悪い器官がもれなく入ってるが、精神や人格を 構成する巨大な情報処理構造体=その人、というプログラムにもきっと多数 含まれているのだと推測できる。 勿論、情報処理の構造論としてだが。 コンピュータの進化が逆に意識や思考に関する興味深いヒントを多数与えてくれたことも 注目すべき点がある。 その一つに特定のCPUのアーキテクチャで構成された専用プログラムが、汎用OSの 進化に合わせ動作する機種を限定しなくなった事は、他人の脳に意識を移植することが 論理的に全く不可能ではないらしい示唆にもなっている。 勿論、分子配列が完全に同一でないニューロン回路に入れようとすれば、そのように 動作する回路に育てる時間と技術的困難の克服が必要になるだろうけれど、元より脳の 反復によって特定の回路が形成される仕組みから考えて、かなり元と近い形に人格を 再構成できるだろうことは想像に難くない。 大切なのは、元と完全同一かどうかではなくて常に再編される情報処理の構造・要素群が 精神やら魂の実体らしい、という仮設だ。 すると、とんでもないことが推測できるのだ。 コピー出来るは、部分的に他人だは、成長もすれば崩壊もする、他人というソフトと 干渉し合って構造的な改変から合成まで起こるということは、人格が絶対的なものでは なく、明瞭な輪郭を持っている「個」ではないらしい、ということである。 極論すれば、そもそも「自分」など存在していないらしいということだ。(続くかも?)

bragelonne
質問者

お礼

 カディアワークスさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  すると、とんでもないことが推測できるのだ。  コピー出来るは、部分的に他人だは、成長もすれば崩壊もする、他人というソフトと  干渉し合って構造的な改変から合成まで起こるということは、人格が絶対的なものでは  なく、明瞭な輪郭を持っている「個」ではないらしい、ということである。  極論すれば、そもそも「自分」など存在していないらしいということだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん ひとつだけ コンピューターと人間との違いがある。あるいは《わたし》の掛け替えのなさについて その証拠がある。  《コピーした》なら どこから誰がどういうふうにコピーしたか これを知ることが出来るということ。この知識の有無で 人間にはひとりという独立主観があたえられている。コンピューターにもその同じ知識が備えられるとすれば それは人間が備えようとして出来たことだと思われる。  人格が《絶対的なもの》かどうかは 微妙である。けれども 一人ひとりの掛け替えのなさは 絶対的であるかも知れない。  ★ 極論すれば、そもそも「自分」など存在していないらしいということだ。  ☆ ということは 人間が一人ひとりそれぞれおのれの意志行為として 認識しそう判断した結果を言っている。その介在が欠けているということはない。その《すでに自分らしさといったことがない》ということの受け容れやそう同じ文句で発言してみるということじたい これが 一人ひとりとして個人であること・自分であることを裏書きしている。

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回答No.19

 ANo.17です。    落としざしで、許せよと頭で暖簾を分けて入るのは人の仕草ですね。  許さぬとは、笑止。  ∞÷なんとかをいったのはぶらじぇろんぬ氏。  一を聞いて全てを知る、万能に誓い聖者であろう。  どこに今までの投稿にどんな矛盾があろうか。何を付加すべきか。  同じ事を繰り返しているだけではないか。    要するに何とか頭の先っぽで概念遊びをするのをやめれば、ひと事言えば全部分るはずです。

bragelonne
質問者

お礼

 いまの情況では――なお投稿をもらいましたが―― ゆるせを そのまま受け容れるわけにはまいらぬ。用事が何であるかにかかわらない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ∞÷なんとかをいったのはぶらじぇろんぬ氏。  一を聞いて全てを知る、万能に近い聖者であろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶんこの《聖者・聖人》を持ち出すのは 輪廻や業の彼岸を想定することに連動しているのでしょう。哲学は それにも定義を要求します。  ★ どこに今までの投稿にどんな矛盾があろうか。何を付加すべきか。 / 同じ事を繰り返しているだけではないか。  ☆ これは 最初の応答でこたえた。  ★ 要するに何とか頭の先っぽで概念遊びをするのをやめれば、ひと事言えば全部分るはずです。  ☆ 《概念遊び》も定義が必要。さもなければ ただのレッテル貼りでしかない。  ☆☆(No.18補足欄&お礼欄) ~~~~~~~  〔さらにこれには 前段がありますが その回答No.18をあたってもらえるとさいわいです。〕  ここで ひとつのことが分かりました。  クリアさんの論法(あえて)では 輪廻にしろ業による因果応報にしろその実際の因と縁と果の流れというものは分からないのだとまづ言います。分かる場合もあれば 分からない場合もある。  これは じつは 前提としてこの上のエレミヤの提示している現実把握とそう違わないと考えます。  《預言者や占い師》の言うことが種明かしをしてくれるかと言えば そうではないと言っています。つまり分からない。  しかるにそのあとが 問題です。筋道がふたつに分かれます。  エレミヤはそこで ゆえに《無根拠を頼れ》と言います。《わたし(主)に祈り求めるなら》というのは 相手が霊だということです。何が何だか何も分からない相手だという意味です。つまり 無根拠です。  クリアさんは ブッダの涅槃の世界にしろ《かの存在》の・かの高みより世界をおもむろに見るところにしろ そこでは霊たちのやすらかに憩う〔予定〕調和の世界があるのだと。だから これに信頼しなさい。とうったえているわけです。  非思考の場にとどまれと言うのと 宇宙大の調和をしっかりと見よ 見てそれに従えと言うのと 二つに分かれるでしょう。  きわめて単純に言って 後者は 輪廻と六道輪廻を断ち切った平安・あるいは因果応報の摂理のもとに必ずひとはその行為においてしかるべく報われるのだという安心と調和がある。というわけなのだと考えます。  エレミヤの見ている(また説いている)世界は 言ってみれば《脳天気》を基礎としています。輪廻転生といった流転から自由であり これはまったく自由であり 因果応報の摂理からも自由だと言おうとしています。あるいは 善悪の因果律も何するものぞと 善悪の彼岸に一足飛びで行ってしまっています。    こういった対照を持つことができるのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.18

生きているあいだにおいて 善行ゆえに善き結果が得られるといった考え方は 決して無いとも言えないと思います。どうでしょう?」というご質問をお礼の中でいただきましたので、気になっておりましたので、書き込みを再度致します。 聖書を初めから終わりまで読んでおりませんし、神学を学んだわけではございませんので、あるいは聖書のどこかに良いことをすればよい結果が期待できますという主旨の文章があるのかもしれませんが、私はまだ発見しておりません。 そこでどうしてもクリスチャンとしての体験からしかお話を展開することができません。私はあるとき全てを失うかもしれないがイエスキリストに従ってゆこうと決意した時から体のどこを切ってもクリスチャンとなりましたので、たとえば聖書が「偽りをしない」と読めれば、何か偽りと感じることを実行するのは躊躇されます。また「汝、自分を愛するように隣人を愛せよ」と述べられれば、自分はとてもできないけれとそのように努力しましょうという気持ちになります。つまり聖書の基準に従いたいというのがクリスチャンとしての私の立場ですので、何か良いことを行うという場合でも、その結果なにかよいことを期待して実行するとかは第一義的にはございません。逆に偽善的だなと感じるような場面でもかなり厚顔無恥にいわゆる「良いこと」行ってしまう場合があります。できればもっともっと厚顔無恥になれればよいのだがと思います。 ただbragelonneさんの言われていることは結果としてそのようになるのではないかと感じております。聖書はいたるところでよい行いをするように勧めておりますので、クリスチャンの多くは悪いことを行うに躊躇し、できればよいことのみ行いたいと願っているはずです。しかしそれでも聖書は「私は道であり真理である、だれも私を通して出なければ神を見ることができない」とのべておりまして、良い行いにより神を見出すことができるとは述べていません。 また聖書の別の個所では「私はあなたに計画を持っている、それは禍ではなく、将来と希望と平安を当たる計画である」。つまりクリスチャンであるならば将来と希望と平安が得られますと述べています。それはイエスキリストを受け入れるならばと言う意味になります。あくまでもイエスキリストが中心となります。聖書の教義や文言が直接あなたをハッピーな世界に連れてきてくれるわけはなく、そこに示されているイエスにぶつかるということが重要です。その結果良いことをした結果と同じように良いことが私の生涯に入り込んできたというのが私の体験です。 クリスチャンになるときに全てを失うと思いましたが、結果はまるで逆でその100倍もの価値あることが精神的にもこの世的にも私のところに帰ってきたというのが実際の体験です。あなたが手を離すとその離した空っぽの手に想像以上のものを握らせていただいたというのが私にとりよい行いをした結果ではなく、イエスキリストを受け入れた結果でした。 bragelonneさんは私と方向が同じなので、すでに上記のような回答を心の中ではもっているのではないかと存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 しかるにそのあとが 問題です。筋道がふたつに分かれます。  エレミヤはそこで ゆえに《無根拠を頼れ》と言います。《わたし(主)に祈り求めるなら》というのは 相手が霊だということです。何が何だか何も分からない相手だという意味です。つまり 無根拠です。  クリアさんは ブッダの涅槃の世界にしろ《かの存在》の・かの高みより世界をおもむろに見るところにしろ そこでは霊たちのやすらかに憩う〔予定〕調和の世界があるのだと。だから これに信頼しなさい。とうったえているわけです。  非思考の場にとどまれと言うのと 宇宙大の調和をしっかりと見よ 見てそれに従えと言うのと 二つに分かれるでしょう。  きわめて単純に言って 後者は 輪廻と六道輪廻を断ち切った平安・あるいは因果応報の摂理のもとに必ずひとはその行為においてしかるべく報われるのだという安心と調和がある。というわけなのだと考えます。  エレミヤの見ている(また説いている)世界は 言ってみれば《脳天気》を基礎としています。輪廻転生といった流転から自由であり これはまったく自由であり 因果応報の摂理からも自由だと言おうとしています。あるいは 善悪の因果律も何するものぞと 善悪の彼岸に一足飛びで行ってしまっています。    こういった対照を持つことができるのではないでしょうか?  こころみにでしたので 荒削りのままです。  シンシナティさん 添削をお願いします。

bragelonne
質問者

補足

 シンシナティさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  かんたんなやり取りで終わるかと思いきや 難航しております。  ☆☆ 生きているあいだにおいて 善行ゆえに善き結果が得られるといった考え方は 決して無いとも言えないと思います。どうでしょう?」  ★ 私はまだ発見しておりません。  ★ ただbragelonneさんの言われていることは結果としてそのようになるのではないかと感じております。  ☆ この《結果としてあたかも善因善果のようになる》の内容説明は つぎですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また聖書の別の個所では    「私はあなたに計画を持っている、それは禍ではなく、将来と希望と    平安を当たる計画である」。  つまりクリスチャンであるならば将来と希望と平安が得られますと述べています。  それはイエスキリストを受け入れるならばと言う意味になります。  あくまでもイエスキリストが中心となります。  聖書の教義や文言が直接あなたをハッピーな世界に連れてきてくれるわけはなく、そこに示されているイエスにぶつかるということが重要です。  その結果良いことをした結果と同じように良いことが私の生涯に入り込んできたというのが私の体験です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 聖句をくわしく参照しておきます。  ▲ (エレミヤ書 29:1-) ~~~~~~~~~   1:以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。   4:「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。   5:家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。   6:妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。   7:わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。   8:イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。   9:彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。   10:主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。   ≫ 11:わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。   それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 ≪   12:そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。   13:わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、   14:わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ バビロン捕囚といった特殊な情況また悲惨な境遇での出来事のようですが ここでも因果応報の論理を超えた非思考の場(つまり 信仰)の言ってみれば論理ならぬ論理を指し示しているとも思えます。  ▲ 12:そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。  ☆ このような条件の提示は 条件闘争でも何でもないことを意味すると思います。条件を示されているという格好ですが その相手すらじつは見えない相手であることを物語ると思います。  ここで ひとつのことが分かりました。  クリアさんの論法(あえて)では 輪廻にしろ業による因果応報にしろその実際の因と縁と果の流れというものは分からないのだとまづ言います。分かる場合もあれば 分からない場合もある。  これは じつは 前提としてこの上のエレミヤの提示している現実把握とそう違わないと考えます。  《預言者や占い師》の言うことが種明かしをしてくれるかと言えば そうではないと言っています。つまり分からない。

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回答No.17

 ANo.15です。ブランジェロンヌさん。  なされているコメントを私が、きちんと理解できているかどうか、これもどうも分りませんが、大筋は私の登校についてご賢察いただいておられるかとも存じます。  まぁご回答のどなたかが仰せのように、ジャニュニャでない、単なる論理操作の知的判断ではないことでしょうね。  まぁいうなれば、ご回答の多くの方のお教えをそうだ、とわかるということなんでしょうね。  そこには論理説明も討論も無用なんでしょうね。  ANo.16でお釈迦様のお役目、この世へのお役目のお話がありますが、そと通りでしょうね。  このご回答でも、ブランジェロンヌさんのご質問は全部答えてくれているんですよ。  お役目でおいでになっている、お釈迦様みたいな方は取り留めない輪廻のぐるぐる鎖を超えているんだそうですね。  egoやその他の捉われがあると、自己都合でまた来なければならない。そんな繰り返しが輪廻転生だって言うのだそうです。  無論それって、創造者がしているに過ぎないそうですが。  まぁ皆さんの素晴らしいご回答や、私の拙い投稿を何度も繰り返してもしょうがないですからね。  ごめんなさいね、ブランジェロンヌさん。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ごめんなさいね、ブランジェロンヌさん。  ☆ ゆるしません。

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noname#156094
noname#156094
回答No.16

気になったので戻ってきました・・・ >だって 二度と生まれて来ないことを望む人は いないでしょう。輪廻があるのならば でしょうかね?う~ん・・・ 涅槃の解釈もありますが・・・ またまた、余計なお話を少しだけ お釈迦様が涅槃に入る直前の事ですが、静かに横になったままの状態で深い禅定に入ったそうです。 浅い禅定から最も深い禅定にまで行って、また浅い禅定に戻ってきて、さらに一段階深い禅定に行ったところで涅槃に入ったといわれています。 それぞれの禅定の境地には、相応の世界があるとされていますから お釈迦様は最後の確認をされたのでしょう。 三界の全ての有情にたいして、説き残した事はなかったのか、或いは自分がいなくなっても大丈夫かどうかの確認であったかもしれません。 正に大慈悲心ですね。 それほどまでに、悟りを得た聖者としての自負心があったともいえると思います。 涅槃の解釈もいろいろありますが(この辺もきりがない・・・) お釈迦様は、輪廻を解脱していたので、生きながら既に涅槃の状態に入っていたと見られています。 肉体という拠り所を持ちながらの涅槃の境地です。 入寂後は、肉体の無い、拠り所を持たない完全な涅槃の境地とされています。 その境地においては、二度と生まれて来ないともされています。 輪廻の実相に無知な私達の場合には、十二因縁という形で輪廻を繰り返すと見られています。 その中の「識」と言われる箇所は、「受胎の一念」と解釈されています。 人間として再び生を受けたい、という心です。 この心も自然なものであり、自然な欲でもありますね。 人間として、この世に生れて苦しみながらも生きてゆく事が尊いようにも思えるのですが お釈迦様はその上の苦しみのない世界をお示しになられた、という事なのでしょう。 大乗になると、涅槃に入れる身でありながら、涅槃に入らずに人の救済に尽くすという生き方が説かれてきますが これも元々は、お釈迦様の生き方に習ったものでしょう。 輪廻や業の詳細な分析は唯識あたりにお任せするとしても 一般人の私達が、輪廻について論じる時には必要最小限といっては失礼になりますが、お釈迦様が輪廻を解脱したという事実を踏まえた上でなされるべきもののように思われます。 あ~あ、またしゃべり過ぎてしまいました。 お粗末かもしれませんね・・・ では失礼いたします。

bragelonne
質問者

お礼

 へたのすけさん ご回答をありがとうございます。  さっそくですが もしゴータマくんの主張を先に吟味せよというおおせに従うならば ただちに借問します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  お釈迦様は、輪廻を解脱していたので、生きながら既に涅槃の状態に入っていたと見られています。  肉体という拠り所を持ちながらの涅槃の境地です。  入寂後は、肉体の無い、拠り所を持たない完全な涅槃の境地とされています。  その境地においては、二度と生まれて来ないともされています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という事情をそのまま踏まえるとしますと 問いはこうです。  【問い】 ではそのお釈迦様は 人びとがどのようであることを望むか?   こころみに答えを用意しましょう。  【答え一】 まったく自分と同じ生き方かつ涅槃のあり方であるようにと望む。  【答え二】 すでに生前に輪廻を解脱することを望む。ただし入滅後は さら       になお一般の人びとは二度も三度も生まれ変わることを望む。  【答え三】 一般の人間が 輪廻から解脱するのは 無理だ。せいぜいわたし       のおしえをまなぶようにしなさい。気休めにはなるであろう。  ☆ もし【答え一】であれば ゴータマくんは じんるいが みな肉体の無い完全な涅槃の境地に到ることを望むということですが それでよろしいでしょうか? じんるいは地球上から 肉体としてはいなくなるが さとりの境地としては みな最高の状態にあるようになる。ということでよろしいか?  じっさいにお釈迦様に尋ねてみなければ分かりませんか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・その中の「識」と言われる箇所は、「受胎の一念」と解釈されています。  人間として再び生を受けたい、という心です。  この心も自然なものであり、自然な欲でもありますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という《人間の生》の解釈もひとつのそれですね。そのほかにはもう無いというふうな口調に感じられますが その点についても 証明することが要求されるでしょうね。  この人生は 一回きりのものだ。ゆえにとうとい。生まれ変わりたいと言うのも そんなことはどうでもよいと言うのも それぞれである。その多様性を超えて・また善悪を超えて この一回きりの生が 人びと互いに縁起共生しうるようになっている。空観である。  そもそも そうなっている。仏性と言うのではないか。そうでないなら 何のために仏性があるのか。  人びとは ゴータマの涅槃説を超えよ。なぜなら みづからの生についても輪廻を実際のことだと表現することによって 輪廻の克服を人びとに示した。そういう方便を用いた。この仮りのおしえを超えよ。空観である。縁起共生である。  永遠の闇は ブラフマニズムの限界を示すのみ。その同じ筋道において方便を用いてその闇の克服を説かねばならなかった。奴隷の霊を容認することから話を始めねばならなかった。  いまここに生まれて来ているわれわれが なんで闇なものか。何で闇しか見ないのか。光もある。ただこれだけで 奴隷の霊から自由になれる。のではないか。

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回答No.15

 ANo.1のkrya1998です、bragelonneさん。 ANo.1の投稿で自分は、「輪廻と業の説は 無用ではない」という拙い見解を提示申し上げていますので、更に付加することはありません。 しかしbragelonneさんに伝わりにくかったようですので、繰り返しになりますが再度投稿します。  1. 「輪廻と業」ですか、このことは論理演繹で判断を導きだす事項ではないと存じます。 そして所謂る科学の対象となるかどうかは、疑問であります。 つまり物証的証明と確認が可能であるとは、今は思えないという事です。 しかし或いは心理学で間接的な扱いはありうるかと存じます。  2. このことはこのことをいえる人(ANo.1でいっている、知っている人)のいうこと が自分で正しいとするかどうかの問題になると存じます。 それは多分論理演繹の判断や物証証拠からの認識とは異なると存じます。  3. 従いまして、()内が私の所感です。 (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。 (どうともいえないと存じます。ご質問と遺伝子の問題とは関係ないと存じます) (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。 (業が行為を意味するという説明はあまり出会っておりません。カルマというのは大変総合的で包括的なことばで、カルマ・ヨガなんていうと、勤行を自他の解脱の主要な手段とする仏教などもさし、カルマは行為であるが、業という因縁因果を超えたものもありうるという説明は読んだこともあり、私はそうだと存じております。業は一定の力と範囲で働くでしょうが、それが全てではないし、変更や改革ができないものでもないという説明を知っており、その通りだと存じます。) (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか? (上記に説明した通り、現実性を持つ場合もあり、持たない場合もあるという見解です) (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?(このことは答えられません。私もたいへん悲しみと怒りを抱きながら理解にくるしんでいます。でもご回答のどなたかが、イエスさまに、障害の方について説明をもとめたら、イエス様は神の力を示す為だ、といわれて、お癒しになられたとのことですね。では拉致やいろんな悲惨なこと、災害や天災はどうか。このことを答えられているもの私もしりません。私達のラージャのヨガの本部では会長が説明していますが、それは人間の認識などの限界性を宗教的に説明する内容であります。イエス様のように即座に解決してみせることはしておりません)  (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか? (いえ、真の行為者というものをぶらんじぇろんぬさんは、どこまで追究しましたか? そして行為しているforceや機能、或いは機関や場というものを。所詮私達は、見えている日月の光にすぎなく、日月の光も、宇宙の根底的光も反射しない、つまり媒介無しでは見えていませんね。私達ってそんなもので、光そのものではなく、見えている画像でしかないのではないでしょうか。)  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?(勘違いとされるのはちょいとした勘違いだと存じます。無用であるかどうかは、自己という存在(そんなものが存在しているなら)をどう捉えるか、存在との関係ってどうなのか。ということですよね。何が存在しているか。個別の自分っていると思うか。普遍の自分って何だ。ということかも知れません)  つまり、#1で入っていることの繰り返しなんですよ。ご質問のお気持ちも一部、同感しますが私としては知(いわゆるる、ジャニューニャ、ジャイナとかもいいますが、そういう叡智の知ではない)の哲学や科学の問題外のことだと存じます。  単純に信仰でもないのですが。上記のことを私は信仰ではなく、思索や演繹でなく、自分の思いとしているのですが。だから、ご質問のような疑問は凡そ、無意味であるとぞんじております。  ならなんで書いているんでしょうね、この私は。

bragelonne
質問者

お礼

 お答えします。  ★★(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~  あの世と此の世を意識を以って行き来し、且つ、あの魂、この魂は今度はあんな衣装、こんな衣装を身にまとい、出て行ったということをみている存在  そういう存在って、実はあの魂であり、この魂でもある意識存在でしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう存在がいて その存在なら 答えることができる。ただし 一般の人間には無理だ。すなわち  ★★(同上) ですから、疑問符のままずぅっと続いているのが、個々の只只出入りさせられている魂たちの境涯なんでしょうね。    ☆ この趣旨で重ねて回答なすったということでよろしいでしょうか。  でしたら   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  だから、ご質問のような疑問は凡そ、無意味であるとぞんじております。  ならなんで書いているんでしょうね、この私は。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに自問自答をおこなうこと そのことが先決であるでしょう。《なんで書いているか》よりは 《この質問のような疑問は凡そ 無意味である》のは何故か こちらに対する自問自答です。  わづかに 次のようには触れてあります。  ★ 単純に信仰でもないのですが。上記のことを私は信仰ではなく、思索や演繹でなく、自分の思いとしているのですが。  ☆ これでは 意味が取れません。もしくは意味など取れなくてもよい また法治社会としてではなく 人治主義によって人びとは社会をいとなんで行けばよいのだ つまり 最初に出た《存在》のことを知っているおれの言うことを聞け という意味があるのでしょうか?  その言うことを聞いた結果は こうでしょうか?    生まれ変わりということは あると言えばある。   自業自得は そうである場合もあれば そうでない場合もある。   すべては《かの存在》に聞け。   もしくはその存在を知っているおれに聞け。   すなわち ずばり正解はなくてもよいのだ。   ただその存在つまりはおれに人びとがだまってついて来るなら  それでよい。   そういう社会にしようぢゃないか。  でしょうか?  これは 皮肉を通り越して いやみとして問い返しています。どうでしょう?

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  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻転生や因果応報について詳しい方にお聞きします

    私は、輪廻転生や守護霊、因果応報を心から信じています。 今までの人生を振り返ってみると、色々な場面で大きな力(守護霊)に守られていたと感じます。その時は困ったことになったと思っていても、後々考えると、そうなって良かったことが多々ありました。 私は生まれつき身体が弱く、重病ではないけれどパワーが無いのです。ちょっと何かすると、ひどく疲労したり、頭痛がしてきました。高校の体育祭の翌日は完全休養日でした。 そんな体質のせいもあって今では、整体士の仕事をしています。 自分も施術してもらい、整体士という結構ハードな仕事も続けられるようになりました。 でも、もっとパワフルな方は沢山いらっしゃいます。 身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょうか?来世を健康な身体で生きるには、今をどう生きたら良いのでしょうか? また仕事面では、半分ボランティアの気持ちでとにかく患者さんに良くなってほしいと祈るような感じです。 しかし、因果律の法則から見ると患者さん達も何らかの業があって体の故障と言う果を受けているのだと思われます。 患者さんが施術によってその果から解放されるのは、もう十分に学習が済んだと解釈して良いのでしょうか? 長くなりますが、もう一つ。 魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る・・・という事ですが、実際にはどういう風になるのですか? まだ肉体をもって地球上に生まれてくるのでしょうか?それとも他の世界に生まれるのですか?肉体に支配されないのですか? こういう事に詳しい方、よろしくお願いします。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • スピリチュアリズムにおける輪廻転生について

    スピリチュアリズムにおける輪廻転生について 誰もあの世のことは見ていませんので、本から得た知識等で構いません。よろしくお願い致します。 スピリチュアリズムでは、「グループソウルをコップの水に例え、コップの水から1滴がこの世に生まれてきて、いろいろ経験し死んでからその経験をあの世に持ち帰ってコップの中で混ざると。 しかし各1滴である魂の個性は消えないと。 そして足りない部分を埋めるべく、コップの中からまた1滴の魂が生まれ直してくる。」と言います。 上記スピリチュアリズムの考えを前提にした質問ですが、 (1)よく「前世ではこうだった~」とか「足りない部分を埋めるべく生まれ変わり~」とか言いますが、自分自身はあの世で個性を維持し、違う1滴が生まれ直すのならば、自分にイコールと言っていい、この世に生まれ直した魂をあの世から心配はするでしょうが、あの世の自分自身の個性&生活(?)は続く以上、自分そのものは生まれ直していないと考えられます。 その意味でやはりこの世における人生は、1回きりと言えるのではないでしょうか? スウェーデンボルグも、「転生はない。 あの世で転生した魂の例に1回も遭遇しなかった。」と言っています。 (2)そのように自分そのものが転生する訳ではない以上、一体全体新たな1滴たる魂はどこから来るのでしょうか? それは全く新しいエネルギー体に、その時点まで転生したA~Zさんまでの魂の個性の総和がコピーされ、そのNEWコピーが生まれ直して来るのでしょうか?(これは上記質問(1)の、人生は1回きり説を前提にした推定です。)  それともZさんが今回死んであの世に戻ったなら、また最初に戻ってあの世に何万年も滞在したであろうAさんに再び転生の順番が回ってき、生まれて来るのでしょうか?  (3)亡くなった人達が、幽界から霊界に行き、そこから更に神界へ、無限の高みを目指すという流れがある一方で、この世に下ってきて生まれ直す流れもある? グループソウル全体としては、この2つの(ベクトルとしては正反対の)進化を同時進行で行っているのか? という新たな疑問が生じてきます。 (4)グループソウルは幽界でなはく、霊界に存在するという解釈でいいですか?  転生する魂は幽界ではなく霊界から来るのでしょうか?   亡くなって成仏した魂が幽界に行き、更に第2の死とも言うべき幽体をも脱ぎ捨てて霊界に行くといいます。 それは現世の時間で言うと通常30~50年もかかると。 よく前世の記憶があり「私は元どこそこ村の○○だ。 △の理由で死にこの世に生まれ直した」という証言があって、実際調べると確かに30年前にそうした人がいたことが分かるという話を聞きます。  その場合時間的にとても霊界に戻っているとは思えません。 幽界からろくに反省もせずにすぐ生まれ変わったのか? そうなると生まれ変わった個性は似た者としてのコピーではなく、「転生は自分自身説」が有力になります。 そうだとするとスピリチュアリズムの考えに反しませんか?  転生する場合同時代に1人ずつという訳ではなく、複数の魂が同じグループソウルから生まれて来る場合もあることは知識として分かりました。 しかし上記(1)~(4)は、どの本を読んでも、どのHPを読んでも(現時点では)どこにも書いてないです。 「転生だのグループソウルだの、ねぼけたこと言うな!」という方は御遠慮頂き、こうした分野に抵抗がなく「こう書いてあった」とか「私はこう解釈する」という御意見のある方から御回答を頂けましたら幸いです。 よろしくお願い致します。  

このQ&Aのポイント
  • 大手スーパーの社内規定について解説します。友人がテナント店を訪れた結果、元勤務者であるにも関わらず叱責を受ける事態になりました。一体なぜそのような対応がされたのでしょうか?
  • 大手スーパーの社内規定に関する問題が起きました。友人が退職後にテナント店を訪れた際に、厳しい注意を受けることになりました。この件について詳しく解説します。
  • 大手スーパーの社内規定による問題が発生しました。友人が元勤務先のテナント店を訪れ、警備員や店舗責任者から叱責を受けました。退職後の行動について、なぜこのような反応があったのでしょうか?
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