• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:輪廻と業の説は 無用ではないか)

輪廻と業の説は無用か

このQ&Aのポイント
  • 輪廻転生は同じDNAを持つ人がいなければあり得ない誤謬である
  • 意志行為が原因で縁を引き寄せ、一生涯を超えてはたらくことはあり得ない
  • 因果応報の説は人間の生まれてから死ぬまでの現実性を持つか

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#156094
noname#156094
回答No.36

還相についてですが・・・ 自らが受け取ったものを他者に振り向ける救済の行為か、或いは、そこにおいて生じる結果そのものを指すのか はたまた、そのどちらでも無い、作用を及ぼす働きが生じたという慈悲の具現化を指すのかどうか 或いはそれら全体を意味する事も可能性としてありましょう。 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 主観的な範囲に留まる内容などは、否定的論法により一蹴されてしまうものと思われます。 また、下手な客観性といったものを持ち出せば、愚かだと決めつけられてしまうでしょう。 還相の利の面の純粋さを得る事、守る事は容易ではない感じがいたします。 私個人においての還相の行果として確かめられうるものは「祈り」です。 仏から頂いたものでありながらも、自らの能動的な慈悲心の発露としても感じ取れるものです。 この点については、ブラジェロンヌ様も既にご承知の事と存じます。 でなければ、私に書くようにとはおっしゃられなかったでしょう。 ついでながら、私が仏様にたいして逃れ得ぬ非というものを感じているものも、また還相の中にあります。 それは、受け止めているものの大きさに比しての行いというものを、常に小さく感じているからでもあります。 それでも尚、祈っている時には救われます。 信仰という主観の中に納まるものでありながらも、自らがおかれている現実の広がりを変えうる力を得られたと思い込む事ができるからです。 やはり私は弱いのでしょう。 でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 そんなところです。 あとは先生にお任せいたします。 それではお元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ここまでおつきあいいただきまして ありがとうございます。  さて 話が――と言いますか こころがと言うべきでしょうか――噛み合わさって なかなかたのしい対話でありました。どこかボケとツッコミの漫才でもあったでしょうか。  そうですね。わたしはいつも撞かれた鐘として響いて来ていましたが 相手のほうからも鳴り響いてくる音を聞くのは 正直なところしばらくぶりでした。  ★ 還相についてですが・・・  ☆ たしかにいわゆる教学においてむつかしい教理があるように聞いております。詳しくは覚えていないという体たらくですが ぎゃくにわたしは勝手に解釈して積極的に《人間的交通への踏み出しあるいは対話の姿勢》という意味で使っています。  ★★ (回答No.29) ~~~~~~~~~  悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。  ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この姿勢もしくは心構え だけでじゅうぶんという捉え方です。おそらくこの意味での還相は 述懐しておられるように すなわち:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし  その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というこの《祈り》にも通じているものと思われます。  そこで問題点のひとつは:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。  そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにつきましては わたしの筆の力が及びませんで 誰かから引いて来ることになります。  ▲ (パウロ:コリント後書 13:7) ~~~~  わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽物の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ま 上から目線でもあるのですが そういう役割をになう人びともいるということではないでしょうか。  ★ 人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問  ☆ をもってみづからの身をつつしみつつ――同時にそのようにしつつも―― 勇み足を辞さないボケを演じる人間もいてもいいのではないでしょうか。さもなければ 仏性がやどるという命題は撤回していただきたい。  《疑問》は 身をつつしむためのものでしょう。つつましやかであることと 相手と場合によっては・またはそのときの社会の情況によってはバカを演じることとは 両立すると胸を張って考えます。それに大きく言っても 末法なんでしょ?  これだけ鐘の音が鳴り響いてきたのであるなら わたしはバカから足を洗って さらに利口ぶりを発揮しなければならないでしょう。決定的なことをのべます。  祈りは あくまでひとの目から隠れて――つつましいというのは 身を包み思いは胸に包み込むという意味ですから――おこなうものであると同時に 祈りのことを口に出すときというのは よっぽどの時だけです。ひとつの最後のことばになりがちなところがあります。  これを言いかえると・そして逆にいぢわるく捉えるならば 祈りを口にするというのは 《還相》のための言い訳にしか過ぎなくなると考えるのです。還相のためのアリバイづくりにしか過ぎません。  自信や確信がないのであれば 信仰を持つ意味がありません。というよりは 自信があやふやなときに それでも信じるというわが存在の動態があるのならば 大いに他流試合をいどむのが ふつうの社会生活なのではないでしょうか。  いまは そういう時代でしょう。  捨て台詞のごとくなったとしても 天の岩屋戸籠りは ふるいと申し上げておきましょう。  底抜けの脳天気よりにて。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (64)

noname#116897
noname#116897
回答No.45

>わたしは 無用と考える。みなさんは どうですか? このような単純な問いです。  知らないもの同士で多数決でもするおつもりか。  「輪廻と業。それを知るものはいなかった。」  有用? 無用? 知りません。単純に。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてですが 残念ながらよく読みとれません。  ☆☆ わたし(質問者)は 無用と考える。その理由は 趣旨説明にある。  ☆ と言っています。むろん知っている範囲で判断しています。そして みなさんは どうですか? です。  あぁ 《知るものはいない》つまり おまえたちは分かっていると思って論じているようだが 分かってなどいないのだということでしょうか?  なら どう間違って知っていると言っているかを 明らかにしてくれればよいわけです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#116897
noname#116897
回答No.44

>知る人などはいない。ということでしょうか?  いいえ。でも、それは事実であり、現時点での結果なのでしょう。  光を知らない人が、赤の説明を聞いても、赤を知ることはできません。  でも、有用か無用かだけなら知ることができるかもしれない。  しかし、それは光を知る人に直接聞かなければならないと言うことです。  輪廻と業を知る人がいるかどうか私は知りません。  今までは一人もいませんでした。  そういうことです。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。余計にむつかしくなりました。  わたしは 無用と考える。みなさんは どうですか? このような単純な問いです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.43

>業とは仏教の基本的概念である梵:karman を意訳したもの。 >サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。  ではなぜ 行為 と 業 を使い分けているのか? >☆ 《別にする》だけでは なりませんね。No.23お礼欄では 次のように書いています。  それぞれのかかわりを論じるのと、それぞれを理解するのは別の話です。 >☆ 投げ遣りですか?  自分で理解する力をつけましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。ご投稿をありがとうございます。  ☆☆ (No.40お礼欄) ~~~~~~~   ★ あとは自分で好きなように考えよう。   ☆ 投げ遣りですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは その文の意味を問うただけのものです。それを こんどは どういうわけか 回答全体が投げ遣りの傾向を帯びて来ましたね。  ☆☆ (No.40お礼欄) ~~~~~~~~   ★ 因 と 縁 と 果 は別にして考えましょう。実際、ここでも別にして論じていますね。   ☆ 《別にする》だけでは なりませんね。No.23お礼欄では 次のように書いています。    ○ 自分の為した行為を因として 他者の行為を縁とし 自分の     犯した因によって 自業自得の果を得る。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対して 次の応答のみがあります。  ★ それぞれのかかわりを論じるのと、それぞれを理解するのは別の話です。  ☆ だからどうなのか。それを言わずにです。  ★ ではなぜ 行為 と 業 を使い分けているのか?  ☆ いえいえそういうたぐいの問題ではなく ただ昔は 漢訳を使っていたというだけのことです。漢訳では 《業》と訳していたというだけのことです。最近は 原文から直接に和訳する場合が増えて来ています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#116897
noname#116897
回答No.42

>要するにこたえをうながすための文章を書き込みました。  光を知る人に赤い絨毯は赤い。  光を知らぬ人に赤はない。赤は有用か無用か。真に知る人に聞きたまえ。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 真に知る人に聞きたまえ。  ☆ 知る人などはいない。ということでしょうか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#156094
noname#156094
回答No.41

先生から、またまた他流試合の申し入れが・・・ 落ち武者の余力を奪ってしまおうとは、薄情な・・・ 壇ノ浦の決着ではまだ納得できないらしい・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ 祈りの話しを持ってきて、焦点を少しボカしてしまったのには訳があります。 (これが本当の言い訳というやつ・・・失礼) 終りにしてしまいたいという気持ちも正直ありました。 この辺で先生を煙にまいてしまおうという、ずるさですね。 (また怒られそうだ・・・) 祈りの話の裏側は、裏側としてお話すべきではないものです。 それは、主観客観を含めて、私が持っている信仰の土台を明かすべきではないという気持ちがあるからです。 でも、ほんの少しぐらいはお伝えしなければ失礼に当たるような気がします。 (もったいぶっているか・・・) ・・・・・・・・・・・・・ もう30年近く前の事になります。 祈ったのではなく、祈られたのです。 その時に頂いたものは、今も私の中に生きています。 それは私の人生において決定的なものでした。 初対面の出会いにおいて、求めずして、私の事を祈ってくださった方がいたのです。 そこから拙い信仰がはじまりました。 還相の利の面の純粋さを得る事と守る事・・・と書きましたが そうした体験があったからこそです。 仏の徳の直接の受持という事でもありました。 その内容についてはお話すべきではないように思われます。 直接の世界の内容は、その当事者のみに与えられた真実だからです。 言葉だけでは、祈りの本質的な面を伝えられないとも思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 失礼や悪ふざけの段、ご容赦ください。 お付き合いくださいましてありがとうございました。 また、お会いしたく存じます。 お元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。――お早うございます へたのすけさん。ご回答をありがとうございます。  こういう区切りのつけ方になるのだと思います。  お言葉に甘えた言い方をすれば 前回のかたちでわたしが了解しましたと言ってしまっていれば 確かに《煙に巻かれてしまっていた》ところでしょう。  それにしても 輪廻や業が人びとの話題にのぼることは 現代でもふつうのことなのでしょうか。と愚痴を述べつつ。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.40

>☆ これは詭弁です。その《状態》をまねいたのは 因となった《行為=業》です。  これこそ詭弁ですね。行為=業 ではありません。 >状態だけを別とするのはおかしいと言っています。  因 と 縁 と 果 は別にして考えましょう。実際、ここでも別にして論じていますね。  あとは自分で好きなように考えよう。

bragelonne
質問者

お礼

 アクシスさん ちょっと強引ではないでしょうか。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 行為=業 ではありません。  ☆ No.4のお礼欄で次を引いておきました。  ▲ (ヰキぺ:業) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD  業とは仏教の基本的概念である梵:karman を意訳したもの。  サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。    業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《果報》には 因となる業(行為)に対応した業(行為)が基本的にあたります。そしてその果報としての行為にまつわる状態が生じるはずです。  ですから  ☆☆ 状態だけを別とするのはおかしいと言っています。  ★ 因 と 縁 と 果 は別にして考えましょう。実際、ここでも別にして論じていますね。  ☆ 《別にする》だけでは なりませんね。No.23お礼欄では 次のように書いています。    ○ 自分の為した行為を因として 他者の行為を縁とし 自分の     犯した因によって 自業自得の果を得る。  ★ あとは自分で好きなように考えよう。  ☆ 投げ遣りですか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#116897
noname#116897
回答No.39

>これまでにかなりやり取りを経て来ていますので どうお応えしてよいやら控えてしまいました。  そうでしょうとも。私も同じでした。

bragelonne
質問者

お礼

 あくる朝ですが つづいてです。  無用・有用についてあきらかではないと受け取ったところから その前の段階(無用・有用を決める前の段階)として わるく言えばお茶をにごしたかたちですが 要するにこたえをうながすための文章を書き込みました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#116897
noname#116897
回答No.38

自由 ことに表現の自由は大切なことです。お好きなように。お気のめすままに。 だからこそ、私のようなものさえも回答できる。 輪廻や業の思想についてに限らずです。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★★ (回答No.37) ~~~~~~~~~~~~~  「私は、太平洋戦争で米軍の兵士として、日本兵の自爆の巻き添えにあって硫黄島で死亡して、今は、日本人として教員をしている。」  なんて記載はないものでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おもしろいのですが さすが――文学としておもしろいと思いますが――哲学としては どうでしょうか。その記載ないし記憶をどう哲学として生かすかは いまひとつ分かりませんでした。そういう感想でした。  それと これまでにかなりやり取りを経て来ていますので どうお応えしてよいやら控えてしまいました。つまり 上の物語のおもしろさをどう生かすか わたしはいま鈍くなっているかも知れません。  そんなところでした。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#116897
noname#116897
回答No.37

「私は、太平洋戦争で米軍の兵士として、日本兵の自爆の巻き添えにあって硫黄島で死亡して、今は、日本人として教員をしている。」 なんて記載はないものでしょうか。 この種の記憶がないのに輪廻と業の説を流布する人間の気が知れない。 逆に、記憶があると言う人を否定するなんて事ができる理由は見あたりませんけど。 無用?有用? 私には、そういった記憶はないし。単にそれだけ。それでいい。

bragelonne
質問者

お礼

 地勢ペンさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  個人の主観として内面にいろんなことを思っても ちょうど信教・良心の自由のように 自由なのだと思います。  その上で そのことが言葉で表わされたなら その文章について――特にその判断の妥当性いかんを――考えるというのも 社会における交通というそのおこない自体として ふつうに実行されるものと考えます。  わたしはこれこれこう思う――わたしなら そこのところをあれそれそう思う。・・・こういったやり取りは きわめてふつうに自由におこなってよいのではないでしょうか。この輪廻や業の思想についてに限らずです。  どうでしょう?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#117439
noname#117439
回答No.35

要らぬ事かも知れません。 >無はあくまでも無であった。 そのような無を知り、まずは無をもってこそ人間たらしめる知性は広がる。 そのように薦めたのがお釈迦様です。 それには中途半端で迷信を含む有神論は困惑するでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ブッダの見解については 次のように捉えています。  ★ ~~~~~~~~~~~   >無はあくまでも無であった。  そのような無を知り、まずは無をもってこそ人間たらしめる知性は広がる。  そのように薦めたのがお釈迦様です。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば《無我:アン‐アートマン(非・霊)》というときの《無》は アートマン(我)を否定するという意味だと考えます。  変わり得ないものは無い こういう否定の意味を表わすと。  ですから もし  ★ 何々をもってこそ人間たらしめる知性は広がる。  ☆ というのでしたら それは すでに提出していただいたところの  ★ あるのでもなく ないのでない  ☆ をもってこそ人間たらしめる知性は広がるというかたちを ひとつに考えます。思い浮かべます。  ★ それには中途半端で迷信を含む有神論は困惑するでしょう。  ☆ これは基本的にはありません。なぜなら 《あるのでもなく ないのでもない》という非経験の場は 有神論にとっても同じ非思考の場ですから。  神ないし無い神についての物語が《迷信を含む》かどうかは 物語の出来不出来によるのでしょう。有神論および無神論が 信仰として成立していることと いづれの場合にもその物語の中に迷信を含み得ることとは 分けて捉えるほうがよいと考えます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか

     輪廻とは 輪廻転生として 生まれ変わることであり 業とは 因果応報であり これら両者を合わせて 人生を捉えるとするならば そのときには 次のような疑問は起きないのでしょうか。  いまこの世において もしわたしが 悪なる被害を受けたとするとき そのことも その結果としての被害内容に対応した原因があったということでしょうか。すなわち わたしが いづれかの過去において 悪なる行為をおこなったその報いであるという解釈になるのでしょうか。  つまり 疑問は こうです。いま取り上げている応報(被害)というのは 現世に生まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合であり その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるということですか という問いです。 《輪廻》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB 《業》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD  なお 解脱によって 輪廻の種子を断つことが出来た場合には もう人間などとして生まれ変わるということはないということでしょうか。つまり 言いかえると いま生まれて来ている人は みな 過去において解脱を実現しえなかった者ということなのでしょうか。  単純な疑問が浮かびました。よろしくどうぞ おしえてください。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 輪廻転生について

    仏教を独学で勉強しています。まだ、初心者ですので判り易くご説明いただければと思います。 私の疑問は、輪廻転生を釈尊はどのように考えていたのかということです。 1.否定しないで悟りへの方便として利用したのか。 2.縁起の考えにより、生前の行いの結果転生すると考えたのか。 3.物質からできている肉体は滅びても分子レベルで分解され、再び他  の生物を構成する物質の一部として生まれ変わると考えたのか。 1-3とは全然違う考えなのか。  そもそも、疑問に思ったのは、「業(カルマ)によって、人は転生する事を仏教では、苦であるとする。解脱することによって輪廻転生から開放される。」と解説書に書いてあったからです。  解脱は精神作用だと思うので、輪廻転生が物理的現象であるとするならば、開放されるなんてありえないと思ったのです。

  • 輪廻転生について

    輪廻転生について色々調べましたが人は魂の修行の為輪廻転生しているので使命を持って生まれて来るとか、今世は前世の自分が決め前世の影響がかなり影響しているとか、人は人にしか生まれ変わらないとか、人はほかの動物に生まれ変わる可能性もあるとか、ほかの世界に生まれ変わるとか色々な説があります。自分なりにまとめてみると  ・輪廻転生は魂の修行なのでどんな善人も悪人も人間業を極めるまで人であり続ける。(動物にはならない)  ・今世で果たせなかった使命は来世に持ち越される  ・来世はある程度自分で決められる。 簡単すぎますがこのような結果になりました。ポジティブに考えれば夢をかなえるチャンスは人間界にいる限り永遠にある。ネガティブに考えれば課題がたくさんある。 あくまでも輪廻転生肯定派の意見ですがどう思われますか?あと、まだまだ勉強不足なので何かお知りであれば教えてください。    

  • チベット人たちの業とは?

    チベット陣はとても温和で信仰心の深い民族です。 しかし中国によって宗教は剥奪され寺院などは破壊され、そして何百万人ものチベット人が虐殺されています。 今なお激しい拷問や種族根絶を強制され、またどの国も助けてくれず世界的にもこれほど虐げられている民族はないのではないかというほどです。 しかし因果応報・業やカルマを考えると、チベット人たちは前世で相当な極悪人だったのでしょうか? またチベットという国が持つ業はそれほど重いものなのでしょうか? なぜ温和なチベット人たちがこの世の地獄を味あわなければならないのでしょうか? これも輪廻転生の修行のうちなのでしょうか?

  • 自己同定物理説の検証

    自己同一性の基準を肉体とし、特定の精子と卵子の結合によって「私」が生じたとするのが「物理説」と呼ばれる立場です。 さて 精子のパターンは2の23乗(約840万)で、一回の射精に1~3億ほどの精子が含まれるのですから、ほぼ同一の遺伝情報を持った精子は十数個は含まれているわけです。 ここで、もしその内の一つが、私となった受精卵の精子に替わって受精したとしたら、私のクローンのような者が生まれるわけですが、 さてさて この人物は私なんでしょうか? と考えてみました。皆さんのお考えをお聞かせいただけたら幸いです。 なお、自己同一性の基準に関しては、物理説の他には、心的体験とする立場(心理説)と、誰でもありえたとする立場(自我説=存在論的輪廻転生観/三浦俊彦)があるようです。 追加質問 漫画「火の鳥」の何篇だか思い出せませんが、確かサルタヒコなる人物の転生を描いた部分があったかと思います。 サルタヒコは、様々な時代様々な世界で、しかし同じ様な苦しみに向き合わなければならない、と描かれていたかと思います。 これは多宇宙+心理説の転生観だと思いますが、手塚治虫は何から学んだのでしょうか。インドの因果応報思想でしょうか?読んだこともないのですが、華厳経などの仏教思想でしょうか?

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻転生や因果応報について詳しい方にお聞きします

    私は、輪廻転生や守護霊、因果応報を心から信じています。 今までの人生を振り返ってみると、色々な場面で大きな力(守護霊)に守られていたと感じます。その時は困ったことになったと思っていても、後々考えると、そうなって良かったことが多々ありました。 私は生まれつき身体が弱く、重病ではないけれどパワーが無いのです。ちょっと何かすると、ひどく疲労したり、頭痛がしてきました。高校の体育祭の翌日は完全休養日でした。 そんな体質のせいもあって今では、整体士の仕事をしています。 自分も施術してもらい、整体士という結構ハードな仕事も続けられるようになりました。 でも、もっとパワフルな方は沢山いらっしゃいます。 身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょうか?来世を健康な身体で生きるには、今をどう生きたら良いのでしょうか? また仕事面では、半分ボランティアの気持ちでとにかく患者さんに良くなってほしいと祈るような感じです。 しかし、因果律の法則から見ると患者さん達も何らかの業があって体の故障と言う果を受けているのだと思われます。 患者さんが施術によってその果から解放されるのは、もう十分に学習が済んだと解釈して良いのでしょうか? 長くなりますが、もう一つ。 魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る・・・という事ですが、実際にはどういう風になるのですか? まだ肉体をもって地球上に生まれてくるのでしょうか?それとも他の世界に生まれるのですか?肉体に支配されないのですか? こういう事に詳しい方、よろしくお願いします。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • スピリチュアリズムにおける輪廻転生について

    スピリチュアリズムにおける輪廻転生について 誰もあの世のことは見ていませんので、本から得た知識等で構いません。よろしくお願い致します。 スピリチュアリズムでは、「グループソウルをコップの水に例え、コップの水から1滴がこの世に生まれてきて、いろいろ経験し死んでからその経験をあの世に持ち帰ってコップの中で混ざると。 しかし各1滴である魂の個性は消えないと。 そして足りない部分を埋めるべく、コップの中からまた1滴の魂が生まれ直してくる。」と言います。 上記スピリチュアリズムの考えを前提にした質問ですが、 (1)よく「前世ではこうだった~」とか「足りない部分を埋めるべく生まれ変わり~」とか言いますが、自分自身はあの世で個性を維持し、違う1滴が生まれ直すのならば、自分にイコールと言っていい、この世に生まれ直した魂をあの世から心配はするでしょうが、あの世の自分自身の個性&生活(?)は続く以上、自分そのものは生まれ直していないと考えられます。 その意味でやはりこの世における人生は、1回きりと言えるのではないでしょうか? スウェーデンボルグも、「転生はない。 あの世で転生した魂の例に1回も遭遇しなかった。」と言っています。 (2)そのように自分そのものが転生する訳ではない以上、一体全体新たな1滴たる魂はどこから来るのでしょうか? それは全く新しいエネルギー体に、その時点まで転生したA~Zさんまでの魂の個性の総和がコピーされ、そのNEWコピーが生まれ直して来るのでしょうか?(これは上記質問(1)の、人生は1回きり説を前提にした推定です。)  それともZさんが今回死んであの世に戻ったなら、また最初に戻ってあの世に何万年も滞在したであろうAさんに再び転生の順番が回ってき、生まれて来るのでしょうか?  (3)亡くなった人達が、幽界から霊界に行き、そこから更に神界へ、無限の高みを目指すという流れがある一方で、この世に下ってきて生まれ直す流れもある? グループソウル全体としては、この2つの(ベクトルとしては正反対の)進化を同時進行で行っているのか? という新たな疑問が生じてきます。 (4)グループソウルは幽界でなはく、霊界に存在するという解釈でいいですか?  転生する魂は幽界ではなく霊界から来るのでしょうか?   亡くなって成仏した魂が幽界に行き、更に第2の死とも言うべき幽体をも脱ぎ捨てて霊界に行くといいます。 それは現世の時間で言うと通常30~50年もかかると。 よく前世の記憶があり「私は元どこそこ村の○○だ。 △の理由で死にこの世に生まれ直した」という証言があって、実際調べると確かに30年前にそうした人がいたことが分かるという話を聞きます。  その場合時間的にとても霊界に戻っているとは思えません。 幽界からろくに反省もせずにすぐ生まれ変わったのか? そうなると生まれ変わった個性は似た者としてのコピーではなく、「転生は自分自身説」が有力になります。 そうだとするとスピリチュアリズムの考えに反しませんか?  転生する場合同時代に1人ずつという訳ではなく、複数の魂が同じグループソウルから生まれて来る場合もあることは知識として分かりました。 しかし上記(1)~(4)は、どの本を読んでも、どのHPを読んでも(現時点では)どこにも書いてないです。 「転生だのグループソウルだの、ねぼけたこと言うな!」という方は御遠慮頂き、こうした分野に抵抗がなく「こう書いてあった」とか「私はこう解釈する」という御意見のある方から御回答を頂けましたら幸いです。 よろしくお願い致します。  

このQ&Aのポイント
  • ファイナンシャルプランナーの資格は国家資格なのでしょうか、それとも民間資格なのでしょうか。
  • ファイナンシャルプランナーの資格については、公的な資料で確認することができませんでした。
  • ファイナンシャルプランナーの資格の真の性質が国家資格なのか、民間資格なのかは明確ではありません。
回答を見る