• ベストアンサー

輪廻転生や因果応報について詳しい方にお聞きします

私は、輪廻転生や守護霊、因果応報を心から信じています。 今までの人生を振り返ってみると、色々な場面で大きな力(守護霊)に守られていたと感じます。その時は困ったことになったと思っていても、後々考えると、そうなって良かったことが多々ありました。 私は生まれつき身体が弱く、重病ではないけれどパワーが無いのです。ちょっと何かすると、ひどく疲労したり、頭痛がしてきました。高校の体育祭の翌日は完全休養日でした。 そんな体質のせいもあって今では、整体士の仕事をしています。 自分も施術してもらい、整体士という結構ハードな仕事も続けられるようになりました。 でも、もっとパワフルな方は沢山いらっしゃいます。 身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょうか?来世を健康な身体で生きるには、今をどう生きたら良いのでしょうか? また仕事面では、半分ボランティアの気持ちでとにかく患者さんに良くなってほしいと祈るような感じです。 しかし、因果律の法則から見ると患者さん達も何らかの業があって体の故障と言う果を受けているのだと思われます。 患者さんが施術によってその果から解放されるのは、もう十分に学習が済んだと解釈して良いのでしょうか? 長くなりますが、もう一つ。 魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る・・・という事ですが、実際にはどういう風になるのですか? まだ肉体をもって地球上に生まれてくるのでしょうか?それとも他の世界に生まれるのですか?肉体に支配されないのですか? こういう事に詳しい方、よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • -soh-
  • ベストアンサー率27% (55/201)
回答No.5

こんちわ、sohです。 専門家ではないので、ただのアドバイスになりますが >仏の世界では生老病死の苦が無いと言うことですが、「老」と「死」が無いと言うのは肉体を持たない世界なのでしょうか? >それとも、肉体は持っていても「老」や「死」を苦と感じないと言うことなのでしょうか? > >私がその様な世界に行ける様になるにはまだまだ転生が必要でしょうが、ずっと気にかかっています。(夜は寝られますが) > これは「ご自分」で悟らなければ解らぬことのようですし 私も当然「小悟」でさえ経験したことのない凡人なので、私の拙き筆では荷が重過ぎます ただ、輪廻転生というのは「人」に魂がある それを信じているからこそ導き出された考えの一つです 「肉体」に拘っていては現世に対する未練が魂に残っている事、どうぞお解りください。 おっと、勘違いされては困りますが天寿をまっとうしなき者には決して道は開かれませんよ。 貴方のおっしゃるよう今は >今の生き方としては、現在の仕事を一生懸命やっていく事が一番良いのかなと思いました。 事が一番肝要かと存じ上げます。 それでは。(^-^/~~

nomami
質問者

お礼

有り難うございました。 今の生を一生懸命生きて生きます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (5)

  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.6

いろいろな方面からの回答ができると思いますが、仏教の視点に限定して書かせて頂きます。 >身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょう まず仏教では確かに因果を説き、業を論じるのですが、少なくともこれを他人に当てはめて、他人の状況を説明する理論としては使ってはならないのではないか、と思います。 仏教の業論は自業自得をその背骨とします。つまり、自分の今現在おかれた状況について、それを誰かのせいにして現在をなおざりにすることがないよう、自らの業として受けとめ、そのうえで前向きに生きようとするために生まれたのが業論なのです。 私たちは、生まれた時点でそれぞれ差をもって生まれます。金持ちに対して貧乏もあれば健康に対して病弱なものもいます。そもそもどの国のどの家に生まれるか、またどんな時代に生まれるかなど、生まれ落ちた時点で既に与えられた条件の違いが沢山あるわけです。 むろん理不尽な差別などはこの限りではありませんが、これらの生得的な違いの原因はどこに求めてもきりがありません。ある状況下で生きていこうとするうえは、「~のせいでこうなった」という風によそに理由を求めることなく、自分が選択したもの、として自らが受けとめるところに積極的な生のスタートがあるわけです。仏教の業論の狙いはそこにあります。 仏教に「願生(がんしょう)」という言葉がありますが、これは私達がこの世に願って生まれてきたということを指します。つまり自分はこの世に「たまたま生れ落ちた」のでなく、「条件が整ったうえで主体的に生まれることを選んだ」という存在認識を表す言葉なのです。 こういう認識にたって個々人がそれぞれの状況を深く受け止めることが肝心なのであって、それで他人の状況の説明をしたところで自分には何の意味もありません。 ただ、このような原則が仏教のなかで貫徹していないことが混乱を助長しているのも現実です。「業は自分が受け止めるもの」という原則を忘れ、ある行為とその結果もたらされる報いについて、誰にでもあてはまる一般解を提供しようとした経典も数多くあるからです。 代表的なものが「善悪因果経」「業報差別経」「仏説十来」などですが、これらはいずれも原因と結果を極めて機械的かつ原理的に結びつけて説いています。またらい病(ハンセン氏病)がかつては“業病”と呼ばれたこと、仏法を誹謗した罪などの報いとされたこと、なども残念ながら有名な経典の内容によるものです。 「大集経」という経典を例にとると、 「富貴は慈悲より来たり、…無病は信心より来たり、…短命は殺生より来たり、病身は不浄より来たり…」といった具合で、ご質問の病弱は、この経典によると前世の不浄が原因だ、ということになってしまいます。 しかし、本来はこのような機械的な解釈は科学的意味以前に仏教的にも意味のないものです。繰り返しますが、仏教はお釈迦さんが個人の生を充実させるために説いた事柄が中心なのですから、本人が自分の境遇を受け止めるためにしか援用できないものだと思います。一般解がないのが、業論の本質なのです。 まとめてみると、仏教の三世因果の考え方は、 「今の自分は、過去の自分の業の結果である。ならば今をいとい嫌うことをやめ、他に原因を求める事をやめ、この現実をこの自分のものとして受け入れ、今を生きよう。 今自分が生きるこの瞬間が、未来の自分につながるのだ」という見方だと言えるでしょう。大事なことは、これは「いま現在」の「自分」を肯定し、精進するためのバックボーンである、ということです。 >魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る…という事ですが、実際にはどういう風になるのですか お釈迦さんに限定して言えば、魂や輪廻はその説法の範疇外です。仮に輪廻を説くならその主体となる魂が不滅でないと困るわけですが、お釈迦さんは魂の存在を論じなかったのです。それら結論の出ない形而上的問題は、お釈迦さんにとってこの世での生を生きるうえで役に立たない、というものでした。この世において「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむか」(中阿含経)ない問題は論じられなかったのです。 ならば悟ったとはどういうことをいうのか。お釈迦さんの尊称のひとつに、「調御丈夫(ちょうごじょうぶ)」というものがありますが、この言い方が一面の回答になるでしょう。調御とはコントロールのこと、つまり「調御丈夫」とは「心身のコントロールに優れたお方」という意味に他なりません。 悟りというと霊妙不可思議なものに思われがちですが、原始経典に描かれる悟りの姿は、その多くが極めて現実的な心身のコントロール術とも言うべきものです。 一例として、雑阿含経中の箭経を挙げます。一般人には苦や楽があるが、悟った者も苦や楽があるのか、あるならどう違うのか、という質問がお釈迦さんになされます。それに対するお釈迦さんは、「如来はただ身受のみ生じ、心受を生じない」という意味の答えをするのです。 つまり、快いものを見たり聞いたりした時に、楽しいと感じるところまでは一般人も仏も一緒だが、仏はその先に心が乱れて「自分のものにしたい」などといった欲が生まれないこと、あるいは怪我をして痛みを感じるところまでは同じだが、その先痛みのあまり怒りにかられたりすることがない、という意味です。 この経の中には譬えとして毒矢が使われており、「如来は第一の矢が刺さるだけで済むが、普通の人間は第ニの毒矢まで受けてしまうのだ」という意味の説法がされています。 この経にみるように、お釈迦さんの言葉に限って言えば、悟りとはこの現実世界の苦しみから離れるための、わが身のコントロールの完成を指す言葉なのです。 従って、老・病・死といった苦からの解脱というのも、物理的な痛みや苦しみから超越したり、不老不死となることを言うのではなしに、若さや健康に執着して(そのような状態にない現状を憂いて)苦しむことからこの世において自由になること、上の例で言えば「第二の矢を受けない」ことを指すのです。 悟りという状態を祭り上げ神聖化してしまうと、却ってお釈迦さんの意図から外れてしまう事になりがちであり、十分注意すべき点だと思います。 ※長くなってしまいましたので、この辺りで止めておきます。追加補足を頂ければ無論できる限りお答えするつもりはありますが、もし意味がないと思われれば無視して頂いても何ら差し支えありません。

nomami
質問者

お礼

有り難うございました。 今までに読んだ本や、それなりの人から聞いた説とは異なるのですぐには受け入れられないのですが、neil_2112 さんの説も頭に入れて考えていきます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

 補足いたします。   確かに守護霊さらに守護神様は間違いなく存在しますが、その出現理由もその質も多々あるということです。  まず、なぜ守ってくれないのか?との疑問ですが、守護神様といっても、いまだ修行中の神霊から、非常に力をもった神霊などそのレベルはピンきりです。 だから守護している人間が自分より力のある悪霊に憑依された場合ふせぎ切れないのはあたりまえです。加えて守護神(霊)はなにも人間の奴隷や下僕ではありません。守護神といえど自分の存在を信じないものや、自分を敬いもしないものに、無条件で守護する義理はないのです。 詳しくは前述の本をお読みください。

nomami
質問者

お礼

有り難うございました。 守護霊にはいつも感謝しています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.3

フムフム、いろいろとお悩みのようですね。 体が弱いとのことですが、それはあなたにとって良かった ことなんですよ。 自分の体が弱いから、同じように体の弱い人の悩みがわか るのです。あなたが整体士になったのも、意味があること なんですよ。 神仏がおられるのならば、あなたの働きを通じて病んだ人 を楽にしてあげたいと願っているのではないでしょうか。 私たちは、残念ながら過去を変えることはできません。 できることは「今」を生きることだけです。 因果律を信じているのでしょう。 過去からの「因」があるかもしれない、けれどもそれに とらわれても仕方のないこと。 今を懸命に生きてください。なるべく人のために生き、 善を積むようにがんばってください。 今の生き方が新たな「因」となり、未来に果報をもたらす のです。 転生を繰り返せば仏になるとのことですが、少なくとも お釈迦様はそんなことは言っていません。 苦しみから離れ、現世を正しく生きれば、誰でも悟りを 開くことができる。大雑把に言えば、これがお釈迦様の 教えです。 同僚でパワフルな方がいるとのことですが、あなたもそう なる可能性はありますよ。 気功士でも、自分の気だけで施術する人はそんなにレベル は高くないです。レベルの高い気功士は、天地の気を取り 込むことができます。 あまりここでは詳しく説明できませんが、心身を統一すれ ば天地の気を取りこめるようになります。天地の気は無尽蔵です。 その手の書籍は探せばありますので、ご自分でいろいろと 勉強してみてください。

nomami
質問者

お礼

おっしゃるとおり、身体が弱くなかったらこういう職業には就かなかったでしょうね。 私は、仏=悟りを開いた魂 と考えていましたが違うのですか? で、悟りを開いた魂はどういう状態になるのでしょうか? いろんな本を読んでもはっきりしません。 もし、ご存知でしたら教えてください。 以前6年くらい、内気功(気功健康法)をやりました。 呼吸に合わせて、手や身体が水に浮くように勝手に動いたり、薄暗いところで両手指を少し離して付き合わせると白い線のようなものが見えたりして、「気」の存在は実感できました。しかし、身体の状態はちょっとは良くなったかなという位でした。 力のある気功士に気を入れて頂いたとき、百会からズーンと何かが入ってきて、アッという間に頭痛が消えてしまった事もありました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • -soh-
  • ベストアンサー率27% (55/201)
回答No.2

こんちわ、sohです あんま詳しいわけじゃないですけどとりあえず。。。 輪廻転生は、源流を溯ると仏教より前になります。 ま、そこは置いといて >身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょうか? なんらかの業があった、とだけしか言えません。 これは 1+1が2になるような法則性のあるものではなく なんからの悪しき事、仏の道から外れることを行ったため 現世にてそのような宿業を背負い生み出されたと考えます >来世を健康な身体で生きるには、今をどう生きたら良いのでしょうか? ん~、来世にはいくつかあるのですが、 お天道様に胸を張って生きれるような、正しき道を歩み続けることに努力を惜しまず、また慈愛をもって人々に接し、自らを高めればよろしいでしょう。 >しかし、因果律の法則から見ると患者さん達も何らかの業があって体の故障と言う果を受けているのだと思われます。 >患者さんが施術によってその果から解放されるのは、もう十分に学習が済んだと解釈して良いのでしょうか? もし学習が足りないのであれば また違う、「よくなき果」がその患者さんの身にふりかかりますし、学習が足りているのであればそれ以降はなにも起こらず健康な日々を送れるのでしょう。 また違う解釈をするのであればその患者さんが、施術を施せる「貴方に出会えた事」自体が、その患者さんの行いが正しかったため仏が導いて下さったとの考え方もできます。 >魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る・・・という事ですが、実際にはどういう風になるのですか? またもいくつかあるんですけれど その考えの源流は 最終的にはこの輪廻転生から「解き放たれ」、仏の世界へと行くことです 簡単に言うならば仏の世界では「生老病死」のような「苦」から解き放たれた自分になれるってことですかね? ほいではでは。

nomami
質問者

お礼

前世では余程悪い事をしていたのでしょうね。 今の生き方としては、現在の仕事を一生懸命やっていく事が一番良いのかなと思いました。 仏の世界では生老病死の苦が無いと言うことですが、「老」と「死」が無いと言うのは肉体を持たない世界なのでしょうか? それとも、肉体は持っていても「老」や「死」を苦と感じないと言うことなのでしょうか? 私がその様な世界に行ける様になるにはまだまだ転生が必要でしょうが、ずっと気にかかっています。(夜は寝られますが) お時間が有りましたらまた回答をお願いいたします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

 nomamiさんは精神世界のことを信じられてるようなので、わたしもその前提でおはなしします。    まず、体が弱いので前世はどんな状態だったのか?との質問についてですが、からだの不調及び病気はエネルギー障害、遺伝もありますが、その主原因は霊障、つまり霊のさわりです。nomamiさんの場合は生まれつき体が弱かったそうですので、うまれつきの霊媒体質です。世の中にはよく霊が見える聞えるという人がいますが、早いはなしがそういう体質だということです。で世間はそんな力をすごいことにようにいっていますがそれは大間違いです。 霊媒体質にも低級霊媒体質と高級霊媒体質とがあり、低級霊媒体質の人は、常時低級霊の憑依をうけその影響を受けてしまいそれをどうすることもできません。つまり自分の意思でコントロール出来ずに、さまざまな病気に悩まされることになります。 霊が腰にとりつけば、腰痛になりますし、心にとりつけばノイローゼなど、その形態はさまざまです。もちろん心の姿勢や運動、高度の神霊治療を受けることで次第に低級霊媒体質を脱し、高級霊媒体質に移行することも可能です。 次に取り付かれた人の病気が治るというのは、霊がその憑依を何らかの原因(神霊治療や霊がその人が本来もつエネルギーに負けた、改心した等々)で解いたということです。 だから今の体が弱い云々は前世とは一切関係ありませんし、そもそも前世はありません。つまり輪廻転生(人間がまた人間として生まれ変わること)はありません。 あるのは、死後の世界、霊界です。 人間は体と頭脳と魂から成り立っており、死後体と頭脳は滅びますが、その魂は生前その人が培った魂に応じた霊界の世界に移行します。 霊界は想念だけの世界ですので肉体の束縛などは一切うけません。 人間界でも自然と気の合うもの同士が友達になりますが、肉体のない想念だけの世界である霊界は、それとは比べ物にならないくらいの波長一致の原則が働いています。 いつも無気力に生きていたひとは、同じような仲間のいる霊界へいきますし、勇敢に人生を切り開いてきた人の魂は、同じように生前勇敢に人生を切り開いたひとのいる霊界に移行します。 nomamiさんもその死後はその想念に応じた霊界に赴くことになります。  長くなってしまいますので詳しくは    大霊界(1~14ほか) 隈本確   弘文出版 を読んでください。  

nomami
質問者

お礼

早々とご解答いただきまして有難うございます。 本文にも書きましたが、私は色々な面で守護霊のような存在に守られていると感じています。気のせいとか偶然ではないと思います。身体不調の原因が霊障であるならば、何故守護霊は守ってくれないのでしょう? 転生が無いと言うことは今の生き方によって死後の行き先が決まってしまい、やりなおしもきかないと言う事でしょうか?厳しいですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 輪廻転生

     輪廻転生について、何となく疑問がありました。肉体から離れた魂は来世にまた続いていくものだと思っていますが、はるか昔の地球が生まれる前は、魂などあったのでしょうか?  もし、輪廻転生が存在するのならば、それ以前からも続いて今があるのではないの?と考えてしまったのですが、、分かりますか?

  • 輪廻転生 魂と精神

    私は昔死後のイメージについて考えたことがあります。 そこでたどりついた答えが輪廻転生です。 そのときは人間は死んだら魂のみが肉体から離れこの輪廻転生をするのだと・・・。 でもある日、魂と精神は一つではないという事にもたどりつきました。 輪廻転生は魂においての意味をします。 なら精神はどうなるんでしょうか。 そもそも、魂の情報と、精神の情報は何が違うのでしょうか? たとえば命といわれてるものが魂だとします。なら精神は人格? 俗に言われてる幽体離脱は魂が肉体を離れた状態ですよね? でも世間的に?幽体離脱した際に人格を持ち合わせてますよね。 そうすると、その魂は人格を持ち合わせてることになります。 なら、精神はなんの情報を持ってますか? 世間的に認知されてるのは、幽体離脱した霊魂は糸みたいな霊糸?で肉体と繋がってますよね? なら肉体と霊魂は霊糸で繋がっているから、肉体にある精神から人格が送り込まれるから? そもそも魂と精神は一つ? 考えれば考えるほどわけわからなくなってきました。 正解を求めてるわけではありません。 こんなのに正解なんてないのだから。 ただ、あなたの持つ輪廻転生について教えていただきたい。 そこにもしかしたら私の求める真理にたどりつけるかなと思い質問させていただきます。 あっ、一回死んでみれば?・・とかそんな意見はいりませんので。

  • 因果応報ってある?

    スピリチュアル的な質問になりますが、因果応報を信じますか? 自分は信じてます。 困っている人を見かけたら声をかける、手伝いが必要であれば手伝う、落し物は届ける、定期的な献血、神社を見つけたら、お参りしてお賽銭入れるなどなど。 ↑を意識して行うようになってから人生が好転した気がします。仕事では管理職ですが、部下や人に対し、イライラしなくなり、資格試験も一発でパス(自己啓発的に学習し、努力はしている)。去年は投資で350万くらい儲かりました。 今年は特に何かしらの恩恵はありませんが、見返りは求めずに、これからも続けていこうと思います。こういう生き方ってどうですかね?流石に寄付までは難しいですが、ボランティア的な事も小さな事から出来れば良いと考えています。

  • 霊界を信じる方に。霊が転生し修行するという肉体をもった生命体が存続でき

    霊界を信じる方に。霊が転生し修行するという肉体をもった生命体が存続できる時間は宇宙からすると一瞬ですが、大変意義のある転生先がなくなると霊たちはどうするのでしょうか。小さな地上人の視点からすると、輪廻も霊界もあり得ると思うのですが、壮大な宇宙的な視点からするとおかしいと思いませんか?

  • 因果応報を信じますか?

    皆さんは因果応報って言葉を信じますか? 私は30代女性です。 離婚したばかりです。 彼の浮気症や浪費癖(パチンコ)が発覚して私はそれに耐えられず、 離婚しました。子供はいませんでした。結婚生活も短かったです。 この離婚で彼はバツ2になり、私はバツ1になりました。 私は彼みたいな人と離れる事が出来て今幸せです。 離婚したばかりなので、すぐには恋愛は考えられないのですが、 離婚を機に実家に戻って引越したので仕事もこれから探すのですが、 仕事も決まって自分の生活を充実させたら、婚活したいと思っています。 私と同じような状況で離婚されて、今違う方と再婚して幸せになった方いますか? 子供にも恵まれた方、子供がいなくても幸せに暮らしている方のレスも聞きたいです。 私は30代半ばですが、心から信頼出来る人を見つけて再婚して子供も欲しいです。 なので、頑張って幸せ掴んだ方のお話聞きたいので、レスお願いします。 あと、元旦那には何の未練もありませんが、私は人として、平気で嘘をつく、浮気する、浪費する、そんな彼の事が許せません。 バツ2になっても、その事を隠して、ずっと独身だったと偽って女性に近づくような人です。はじめの奥さんとの子供がいる事も平気で隠す人です。 そんな彼に復讐する気持ちはありませんが(関わりたくないので)でも、そんな彼が報いを受ける日はくると思いますか? 悪い事を平気でして、のうのうと平然と生活しているのが何か理不尽な気がして。 彼は見た目はいい人そうに見えるのですが、建て前だけの人です。本当の優しさはなく、見栄だけの人なので、 はじめはみんなそれに気付かず騙されます。 なので誰かがまた傷つくんだろうと思うと許せません。 皆さんは因果応報を信じますか? 実際、体験談などあれば聞かせて下さい。

  • 因果応報って(長文です)

     今、気持ち的に落ち込んでいて変な事ばかり考えてしまっているので 内容に失礼な事や不愉快な言葉がありましたらお許しください・・。  よく人にしたことは自分にどんな形でも返る(因果応報)って言いますよね。でも実際そういう事例ってあるんでしょうか?あったとしてもあまり少ないのかなと最近思い始めてきました。というのは自分の事例をあげますと、私の主人は結婚前から浮気(元彼女との体の関係と職場の女の子との体の関係あり・彼女がいても承知の上で続けていました)をし、結婚後も違う元彼女(既婚者)との浮気(これも奥さんがいるとわかっていてHしない?と連絡してきた・体の関係は不明でしたが最近あったことが判明)や出会い系サイトで会ったり連絡をとっていたりと数々の事を数年行ってきました。  ここでたくさん相談にのっていただき結果的には離婚しないままフラッシュバックとの戦いの日々ですが、主人にしてもその元彼女達にしても因果応報なる状態がなく幸せいっぱいの日々です(元彼女が結婚して幸せになった、既婚者は子供ができた、主人は昇進し健康も問題なし)。逆に苦しめられた自分のほうは病気がどんどん出てきたり(腎臓肝臓心臓子宮などの病気にかかってしまい長期治療を要します)フラッシュバックに悩まされて苦しいなど、日々の暮らしに金銭的に不幸とはありませんが心身共に良くない事が続いています。  相手に不幸になれと願っているわけではないのですが、自分の欲求をやりたいようにやってる人達には因果応報がなく、悩まされた自分が因果応報なるものをしょいこんでるようにしか思えないと落ち込んでいる時には思ってしまいます。(落ち込んでいない時はそゆことは考えませんが、そういうことを考えちゃうから自分に因果応報が回って幸せになれないのでしょうか;;)私は理性があるからやってはいけないことの分別はあるけど(昔から不倫、浮気は最低の行為と考え、やりたいとも思いませんし大嫌いです)逆に理性がないほうが楽に楽しく生きていけるのかなと自分の周りを見ると頭の中がぐちゃぐちゃになって混乱してしまいます。そしてそんなことを考える自分に自己嫌悪にもなり自分を殺したくなります。  ここで質問なのですが、因果応報って本当にあると思いますか?そして同じような経験をされた人がいましたらどのように乗り越えられましたか?長くなってしまいましたが、どうか皆様の考えをお聞かせください。よろしくお願いいたします。  

  • 輪廻転生や霊を論理的に実証することは可能でしょうか?

    少し、生命について考えていたのですが、そこから派生して輪廻転生や霊を論証可能にできるかもしれないと思ったのですが、皆さんの意見も聞きたいと思って質問させて頂きます。 私の個人的解釈は以下に記述します。 まず、命について考える内に、そもそも有機体って何?という疑問にぶつかり、有機体の特徴について考えていたのですが、我々は、空間の中で時間を運ぶ情報思念体に近い存在なのではないか?と感じるからです。 空間の中で流れる時間を認識できるからこそ、その摩擦に生じる諸々の現象を紡ぐことで、我々は過去・現在・未来のような「時間」という概念を知ります。 現象を紡ぐ際に生じる時間は、空間と共に記憶として固定化され、記録されます。 記録とは情報であり、情報で構成された世界を仮想世界と呼びますが、我々の住む感覚世界とは、現実世界ではなく、実は仮想世界なのではないでしょうか? 生命が遺伝情報に基いて生きているのならば、生命とは、情報を紡ぐ為の媒介として存在する感覚を持ったホログラム{情報思念体}に過ぎず、いま、共有しているこの世界も、時を同じくして空間で時間を刻むホログラム達がネットワークを張り巡らせる仮想世界を共有しているに過ぎないということです。 そうなると「死」とはどういった現象なのか? 死とは、感覚の消滅によって情報{思念・体}から解放され、情報そのものになること。 即ち時間(情報)を運ぶ世界が仮想世界{生}であるとするなら、時間を運べなくなった世界{死}は時間の一部になることによって現実世界に還るということです。 比喩すると、我々が文章を書く時と同じです。 考えるとは「未来{誕生」であり、また、それを実体化させようとする動作が「現在{人生}」であり、そして、文字として知覚できる形象を持った時「過去{終焉}」が繋がり文章の一部となり、その繰り返しで文章(真実を映し出す鏡)としての輪郭を形成してゆく。 最期の文字{死}を持ってして、初めて真実の鏡を覗けるのではないでしょうか。 また、有機体にとっての情報とは残留思念という言葉に比喩できますが、もし、思念の目的が、思念の存続(情報の存続)そのものであれば、有機体にとっての目的・存在意義は"生きて死ぬ"(情報を運び、次世代に繋げる思念を残す)という現象そのものかもしれない。 ※そう考えると、仏陀やユングなどが試みたトランス(無我)状態になることによって、空間と時間を認識している自我の放棄によって生じる制限された時間からの解放によってアクセスできた神と比喩されるものは、奥底に眠る記憶(情報)、つまり、過去の人間が、神や恐怖の象徴として形象を持ったイメージが遺伝子に記録され、その情報が想起されたと集合的無意識の存在も論証できます。 例えば、霊といえば死者(生霊除き)となりますが、死者とは肉体を失っている状態であり、即ち体・思念を失った情報ですが、あまりに悲劇的な死を送った者が最期に残した強い情報(思念)が、時空間に記憶のように固定されると、その残留思念が視える人間がいても不思議ではないということ。 輪廻転生については、来世は必ず存在すると強く願って死んだ人間の残留思念が、まだ意識が曖昧な胎児に癒着して、前世の記憶が蘇るということです。 輪廻転生についても、いくつか事例があり、子供が○○[全く知らない離れた土地]に住んでいたことがあると言い、あまりにその内容が具体的過ぎるので、親がその場所を探しにいくと、子供が言った風景や造形も全く同じだった。という例などです。 どのケースを見ても、こういった前世の意識は年齢と共に全て失われていくそうですが、自我が形成され、自分自身の思念が、残留思念を除いていったとも解釈できます。 皆さんは、どのような思想・意見をお持ちでしょうか?

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • いつか受けるだろう因果応報に不安を感じます

      したことを反省していますが、二度と時間を戻すことが出来ないので、  そのときが来たら受け入れなければならないだろうと覚悟していますが、、  いつか自分には罰が当たるだろうなと思っています。  そのことがあるまでは、私は絶対に不倫などしないし、どんな理由があろうともした側が100パーセント悪いと思っていました。  竹内まりやの不倫を思わせる内容の歌詞に出さえ、嫌悪感があったほどです。  なのに・・  婚姻中に一度でしたが別の男性と体の関係をもってしまいました。  もう離婚の話が出たときに出会ったのですが届けを出していない婚姻中でした。  親権は私がとることに、流れからほぼ決まっていました。    数年もの間、元主人との関係になんとなく寂しさで苦しかった(時に鬱のようになったりも)のですが、 その悩みが解決にいたらず、離婚を決めた矢先に出会いました。  支えてくれているという思いから、相手の方を本気で好きになって、体の関係に一度だけなりましたが、やはり婚姻中ということもあり、会うのは離婚するまで控えました。  離婚後もしばらくお付き合いをしていたのですが、やはり子供のことを思うと・・ということや、相手とのそれまでの事に対する罪悪感が重く、いつも何か大きなものを背負ったような気持ちで押しつぶされそうになっていたことに加えて、他にも気になることがあったので、お別れを選びましたが、 いつか私にも因果応報というものが廻ってくるんだろうなと思っています。  今は子供のことだけを見ていこうと思っていますが、いつかはきちんとした真面目で誠実な本当の恋愛をしたいという気持ちもあります。  気持ちが葛藤しています。  どこまで自分勝手なんだろうという気持ちもあります。ただ、二度とルールに反した同じ過ちを繰り返してはいけないと誓っていますが、罰が怖いです。 今になって恐怖心が出てきています。 これが、もしかしたら罰のひとつなのかもしれないとすら思っています。 今はそれ意外は心穏やかに、子供たちと笑って過ごしています。(元主人は親権にはあまり執着していなかったと思います)大変だけど、子供たちが居ることが私の支えです。  馬鹿な私に何か言葉をください。  何でも良いです。自分がいつか罪を受けるとしたら、どういうことなのかわかりませんが心の準備が出来ていません。 変な質問かもしれませんが、よろしくお願いします。          

  • 自分の守護霊をみてもらうということについて質問させて下さい。

    自分の守護霊をみてもらうということについて質問させて下さい。 守護霊は誰にもいるといいますね、それを否定はしないし、実際に私の守護霊はどんな方なのだろうかと思ったこともあります。 先日、職場の仲良しの友人が『私の友人で守護霊が見える人がいて、みてもらったらどう?自分自身は守護霊とは話せないものらしいけど、霊感のある人なら他人の守護霊を見て話せるらしいの。守護霊を知る事であなたのこれからの人生の助けになることがあるかもよ。』って… 守護霊をみてもらうことで何かわかるのでしょうか?私の人生の助けになることがあるのでしょうか?守護霊って…単純に何かを直接的にしてくれるのでなく、いわゆる見守ってくれてる様なものかと思っていたので。確かに職場の友人は私が仕事や恋愛で悩んでいるのを知っていて心配してくれたんでしょうが、その霊感のある方はすぐ近くに住んでいないので『わざわざ行くには今は忙しいから』と言うと『大丈夫、電話で話すことでも感じられるみたいよ』って…えっ?電話?話しただけで?これ…本当の話でしょうか…『変な宗教とか勧誘絡みじゃないよね』と冗談混じりに言うと『やだ、そんなのありえないから。そんな変な怪しい人じゃないから心配いらないわよ』って…わざわざ会いに行ったり来ていただいてまでと思うし、信じて電話でみてもらってみるのは有りですか?霊感や守護霊を否定し信じないわけじゃあないです。詳しい方…霊感のある方教えて下さい。

専門家に質問してみよう