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輪廻転生や因果応報について詳しい方にお聞きします

neil_2112の回答

  • neil_2112
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回答No.6

いろいろな方面からの回答ができると思いますが、仏教の視点に限定して書かせて頂きます。 >身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょう まず仏教では確かに因果を説き、業を論じるのですが、少なくともこれを他人に当てはめて、他人の状況を説明する理論としては使ってはならないのではないか、と思います。 仏教の業論は自業自得をその背骨とします。つまり、自分の今現在おかれた状況について、それを誰かのせいにして現在をなおざりにすることがないよう、自らの業として受けとめ、そのうえで前向きに生きようとするために生まれたのが業論なのです。 私たちは、生まれた時点でそれぞれ差をもって生まれます。金持ちに対して貧乏もあれば健康に対して病弱なものもいます。そもそもどの国のどの家に生まれるか、またどんな時代に生まれるかなど、生まれ落ちた時点で既に与えられた条件の違いが沢山あるわけです。 むろん理不尽な差別などはこの限りではありませんが、これらの生得的な違いの原因はどこに求めてもきりがありません。ある状況下で生きていこうとするうえは、「~のせいでこうなった」という風によそに理由を求めることなく、自分が選択したもの、として自らが受けとめるところに積極的な生のスタートがあるわけです。仏教の業論の狙いはそこにあります。 仏教に「願生(がんしょう)」という言葉がありますが、これは私達がこの世に願って生まれてきたということを指します。つまり自分はこの世に「たまたま生れ落ちた」のでなく、「条件が整ったうえで主体的に生まれることを選んだ」という存在認識を表す言葉なのです。 こういう認識にたって個々人がそれぞれの状況を深く受け止めることが肝心なのであって、それで他人の状況の説明をしたところで自分には何の意味もありません。 ただ、このような原則が仏教のなかで貫徹していないことが混乱を助長しているのも現実です。「業は自分が受け止めるもの」という原則を忘れ、ある行為とその結果もたらされる報いについて、誰にでもあてはまる一般解を提供しようとした経典も数多くあるからです。 代表的なものが「善悪因果経」「業報差別経」「仏説十来」などですが、これらはいずれも原因と結果を極めて機械的かつ原理的に結びつけて説いています。またらい病(ハンセン氏病)がかつては“業病”と呼ばれたこと、仏法を誹謗した罪などの報いとされたこと、なども残念ながら有名な経典の内容によるものです。 「大集経」という経典を例にとると、 「富貴は慈悲より来たり、…無病は信心より来たり、…短命は殺生より来たり、病身は不浄より来たり…」といった具合で、ご質問の病弱は、この経典によると前世の不浄が原因だ、ということになってしまいます。 しかし、本来はこのような機械的な解釈は科学的意味以前に仏教的にも意味のないものです。繰り返しますが、仏教はお釈迦さんが個人の生を充実させるために説いた事柄が中心なのですから、本人が自分の境遇を受け止めるためにしか援用できないものだと思います。一般解がないのが、業論の本質なのです。 まとめてみると、仏教の三世因果の考え方は、 「今の自分は、過去の自分の業の結果である。ならば今をいとい嫌うことをやめ、他に原因を求める事をやめ、この現実をこの自分のものとして受け入れ、今を生きよう。 今自分が生きるこの瞬間が、未来の自分につながるのだ」という見方だと言えるでしょう。大事なことは、これは「いま現在」の「自分」を肯定し、精進するためのバックボーンである、ということです。 >魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る…という事ですが、実際にはどういう風になるのですか お釈迦さんに限定して言えば、魂や輪廻はその説法の範疇外です。仮に輪廻を説くならその主体となる魂が不滅でないと困るわけですが、お釈迦さんは魂の存在を論じなかったのです。それら結論の出ない形而上的問題は、お釈迦さんにとってこの世での生を生きるうえで役に立たない、というものでした。この世において「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむか」(中阿含経)ない問題は論じられなかったのです。 ならば悟ったとはどういうことをいうのか。お釈迦さんの尊称のひとつに、「調御丈夫(ちょうごじょうぶ)」というものがありますが、この言い方が一面の回答になるでしょう。調御とはコントロールのこと、つまり「調御丈夫」とは「心身のコントロールに優れたお方」という意味に他なりません。 悟りというと霊妙不可思議なものに思われがちですが、原始経典に描かれる悟りの姿は、その多くが極めて現実的な心身のコントロール術とも言うべきものです。 一例として、雑阿含経中の箭経を挙げます。一般人には苦や楽があるが、悟った者も苦や楽があるのか、あるならどう違うのか、という質問がお釈迦さんになされます。それに対するお釈迦さんは、「如来はただ身受のみ生じ、心受を生じない」という意味の答えをするのです。 つまり、快いものを見たり聞いたりした時に、楽しいと感じるところまでは一般人も仏も一緒だが、仏はその先に心が乱れて「自分のものにしたい」などといった欲が生まれないこと、あるいは怪我をして痛みを感じるところまでは同じだが、その先痛みのあまり怒りにかられたりすることがない、という意味です。 この経の中には譬えとして毒矢が使われており、「如来は第一の矢が刺さるだけで済むが、普通の人間は第ニの毒矢まで受けてしまうのだ」という意味の説法がされています。 この経にみるように、お釈迦さんの言葉に限って言えば、悟りとはこの現実世界の苦しみから離れるための、わが身のコントロールの完成を指す言葉なのです。 従って、老・病・死といった苦からの解脱というのも、物理的な痛みや苦しみから超越したり、不老不死となることを言うのではなしに、若さや健康に執着して(そのような状態にない現状を憂いて)苦しむことからこの世において自由になること、上の例で言えば「第二の矢を受けない」ことを指すのです。 悟りという状態を祭り上げ神聖化してしまうと、却ってお釈迦さんの意図から外れてしまう事になりがちであり、十分注意すべき点だと思います。 ※長くなってしまいましたので、この辺りで止めておきます。追加補足を頂ければ無論できる限りお答えするつもりはありますが、もし意味がないと思われれば無視して頂いても何ら差し支えありません。

nomami
質問者

お礼

有り難うございました。 今までに読んだ本や、それなりの人から聞いた説とは異なるのですぐには受け入れられないのですが、neil_2112 さんの説も頭に入れて考えていきます。

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