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自己同定物理説の検証

自己同一性の基準を肉体とし、特定の精子と卵子の結合によって「私」が生じたとするのが「物理説」と呼ばれる立場です。 さて 精子のパターンは2の23乗(約840万)で、一回の射精に1~3億ほどの精子が含まれるのですから、ほぼ同一の遺伝情報を持った精子は十数個は含まれているわけです。 ここで、もしその内の一つが、私となった受精卵の精子に替わって受精したとしたら、私のクローンのような者が生まれるわけですが、 さてさて この人物は私なんでしょうか? と考えてみました。皆さんのお考えをお聞かせいただけたら幸いです。 なお、自己同一性の基準に関しては、物理説の他には、心的体験とする立場(心理説)と、誰でもありえたとする立場(自我説=存在論的輪廻転生観/三浦俊彦)があるようです。 追加質問 漫画「火の鳥」の何篇だか思い出せませんが、確かサルタヒコなる人物の転生を描いた部分があったかと思います。 サルタヒコは、様々な時代様々な世界で、しかし同じ様な苦しみに向き合わなければならない、と描かれていたかと思います。 これは多宇宙+心理説の転生観だと思いますが、手塚治虫は何から学んだのでしょうか。インドの因果応報思想でしょうか?読んだこともないのですが、華厳経などの仏教思想でしょうか?

noname#176957
noname#176957

みんなの回答

回答No.4

>量子論的独我論と解釈すればよいんですかね 世間的には「強い人間原理」と呼ばれています。 「強い人間」の原理ではなく、強い「人間原理」。 「弱い人間原理」は、環境は認識体とは独立した ものであるが、そうした根本の物理定数は、認識 体が成立するような値をとっている、とするもの。

noname#176957
質問者

お礼

「強い」人間原理から 認識演算子の作用範囲の誤用を利用してできているのが独我論でしょう。 回答者さんの哲学説は日常言語の範囲で理解するなら独我論だと思いますけど? 正確に強い人間原理を主張したい場合、もう少し表現に工夫があってしかるべきだろうと思います。

noname#176957
質問者

補足

「強い人間原理」のテキストを読んで 誤解したまま 独我論の扉を開いてしまった、 といったところでしょうね。 独我論は否定しきれませんが、それを「強い人間原理だ」と主張するのは、明らかな間違いです。

回答No.3

結果として意識が発生したと考えるから、その「偶然」性が 問題になるのです。 量子論的世界像において、有限な存在性(=宇宙)は、 認識されることによって派生しています。 換言すれば、「自我仮説(心)と時空仮説(存在)が、 (不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化し ている=全てのものは、あなたが存在するための(物理的 根源にまで遡った)補完である」という事なのです。 全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づいて おり、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と 等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列 化)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体は その光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説= 宇宙を認識するのです。 現在(光速)から仮説的(階層現象表面的)に過去(超光速) と未来(光速下)が対発生し、それを時系列化してできる 時間軸=自我仮説と、空間軸=時空仮説が相補分化している のであり、その「相補」の実体が、不確定性原理の相補的 不確定性だ、ていう(位置(S)と運動量(St)、時点(T)と質量 (Ts)のそれぞれの対の不確定性が相補性を成す)。 相対性理論の四次元時空の式において、時間項はマイナス になっており、そのために空間軸と時間軸の等距離点に、 “ゼロの面”ができます。 それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速 以下の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面 原点なのです。 その認識体(現在=光速)による大ざっぱな認識=階層現象 表面的定性化における非光速性に基づく時空仮説に対する、 無の射影が存在=量子なのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の 相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」 という無の射影として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。

noname#176957
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 量子論的独我論 と解釈すればよいんですかね。 それはそれで手強いですね。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.2

今の呼吸とその前の呼吸は同じかどうか? 禅定には呼吸の観察が重要と思えば差異が発見されるし、無益と判断されれば同じ呼吸の繰り返しで処理される。 つまり、無意識的な打算により概念、世界観、セルフイメージは変化するということ。 「私」も便宜的な概念に過ぎないので、そこに絶対的根拠を求めると混乱するだけです。

noname#176957
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 無我論 ということでしょうか。 無我はおそらく仏教的公理かと思いますが、 この質問は別の公理系を想定しています。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.1

物理説によれば、それも私であると言う他 ないでしょうね。 つまり物理説には欠陥がある、ということですね。 人間は、DNAを基底に、種々の記号、情報がぎっしりと 詰まったモノで、それが「私」ですから、そもそも物理説に難があると 思いますが。 手塚治は医学博士ですから、その程度のことは 自分で考えたかもしれませんよ。

noname#176957
質問者

お礼

ありがとうございます。 いいえ。純粋な物理説、つまり「この精子」説なら、他人です。 ただし、物理説には「私が生まれる可能性は無限小だった=なぜ私は生まれたのか?」がつきまといます。 それで今回、やや弱い物理説(DNAと経験が同じなら同一人物)について考えてみました。 >種々の記号、情報がぎっしりと詰まったモノで、それが「私」ですから、 これは、特定の自意識と記憶内容を持つ精神的なソフトウェアである、という心理説ということでしょうか。DNAを基底に、ということは物理的要件も包括する「強い物理心理説」なのでしょうか。 そんなわけで 物理説には難がある とするその道筋が良く解りませんでした。 念のため、私はSSA輪廻転生が面白そうだなと思ってます。ブッダの「五ウン非我」を彷彿とさせます。 ところで手塚治虫の件ですが、 私たちの生み出す概念は経験に依拠するという経験論的立場をとるならば、彼の経験の中で感銘を受けた転生観があるはずだ、と推測するのが自然かと思います。 それで、汎インド的な転生観は、心理説的なものであり、今生の苦しみごと輪廻するというものであり、 対して、先ほど触れたブッダの五ウン非我はSSA輪廻転生を開いたものなのではないか、という妄想をしているところなんです。

noname#176957
質問者

補足

お読みになられるか判りませんが、一応補足しておきます。 質問文の想定で、 私になったと同じ遺伝情報の、別の精子が受精して生まれた人物は、 私と全く同じDNAを持ち、私と入れ替わって生まれるわけですから、経験も私と同じ経験をします。すると記憶内容も全く同じで、感情も同じ、つまり心の機能は全く同じでしょう。さてこの人物は私ですか? これってつまり「スワンプマン」問題ですね。 イエスなら心理説 ノーなら心理説の否定 ではないかと思います。題名とは裏腹でした。

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