• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:輪廻と業の説は 無用ではないか)

輪廻と業の説は無用か

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.60

No.5,6,13,14 & 28です >>> No.61 補足欄 たとえば次のように《非経験の領域》を想定します。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   非   経   験   の   領   域   ______________________________  《生まれる前→生身で生きている時空間→死後》という経験世界の系譜  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いわば上下の構造です。死後にも生前にも――なぜなら それらは 経験世界に属すると考えられるから―― 別様に非経験の領域があるという見方です。  四諦において苦を滅した状態――さとり・涅槃――は いわゆる絶対の境地としてこの非経験の領域のことを言っていると思われる場合もあります。実際は どうなのかです。 <<< なぜ、「死後・生前にまで【経験】世界を拡大した状態を想定しうるのか?」 もし、「そういった状態を想定しえない」ならば、仰るところの「非経験領域」は「死後・生前」をも含むことでしょう。 すなわち、「非経験領域」というものは「経験領域」という概念の成立によって「それ以外」という概念で生み出され得るものでしょう。 因果という概念は「論理的・無矛盾な説明可能性をもたらしうる概念」として捉えることができます。 ○○「だから」●●だ。 「だから」には、「結果の●●の原因が○○だから」といった暗黙の了解(経験則)が組み込まれています。 ※何度もくり返しますが、因果という概念を、「人為的に特定の範囲で切り出すことをしない」という前提条件での話をしております。また、因果という概念の強度・適応性についても、相互に了解可能な範疇で取り扱うこととします。 そういった「因果という概念=論理的・無矛盾な説明可能性をもたらしうる概念」があるからこそ、ブッダの生前から(誤った因果概念の適応としての)輪廻転生説が受け入れられていたと考えられるでしょう。 ※「(誤った因果概念の適応としての)輪廻転生説」:No13,14でも説明していますが、「相同性」(=「状況が似ていたら、同じような事が生じうる」)に「因果」という概念を「誤って」結びつけようとした結果、生み出された概念でしょう。単に「同一の魂」といった概念のみならず「生死に際して一つの魂が複数に分裂したり、複数に分裂した魂が一つに合わさったりといった概念」すら生み出すことが可能です。 「全てが因果という概念内部にある」と信じているからこそ、なにか「悪いこと」が起こったときには、人は「なにがしかの理由が必ずあるはずだ」と原因を探すことで、安心するものだから生み出されたともいえます。 だからこそ、ブッダが(業や輪廻転生といった狭い領域ではなく)「広い意味での因果」からの脱却を 「この世をも かの世をも 望まない」(スッタニパータ) と表現したのだと思っています。 仰るところの、「経験領域」の上段に構えた「非経験領域」は、そういった「脱却後」の領域と捉える見方も可能でしょうが、因果概念内部に経験側を置くと言った見方をするならば、「非経験領域」は「因果概念」内部に位置づけされかねないと思います。(なぜなら、上であろうが下であろうが、右であろうが左であろうが、「経験領域」があるから(原因)「位置付けが可能な領域」(結果)として扱おうとしておられるように見えてしまいます) そういった(非経験領域をどう扱うかについての)目的意識があるにせよ、ないにせよ、因果という概念を「狭い範囲に」誤って適応してしまっている「業」概念や「輪廻転生」概念を対象として論ずる限りにおいて、「非経験領域」は「因果」領域に片足を突っ込んでいるようにすら見えてしまいます。 「広い意味での因果」という範疇で考えるなら、「業」概念や「輪廻転生」概念は無用なものではなく、人が人として生きている限りにおいて、(昔からの「相同性」としての)性癖故に、簡単に用いてしまいうるものなのでしょう。だからこそ、「業」とか「輪廻転生」といった概念を積極的に認識する(原因)ことで、逆説的に、そういった概念の危うさを知ることができ、「それ以外のもの」といった概念をも導き出すことが可能になる(結果)のだと思います。 表題のように「狭い意味での因果」に固執し、「悪い状況」の原因を「業」や「輪廻転生」のみに限定して理由付けしようとすることのみをとりあげ、そうしてそういったものごとのみを「無用」として断じようとするのならば、ブッダが思慮したであろう「因果」からの脱却は不可能なような気がしています。

bragelonne
質問者

お礼

 ヒントを書いておきます。(完全に上から目線です)。  (1) 拉致被害者の場合を例に出すことは 悪因悪果の狭い範囲にしぼった事例ではないかとおっしゃるのは 当たりません。因果応報説が もし理法であるなら 悪因の場合にもとうぜん当てはまらなければ何にもなりません。  いいですか。こんなことまで説明されることの侮辱を感じてください。  (2) 《死後にも生前にも 経験世界の系譜とそしてそれを超える非経験の領域とがある〔と想定される〕》と言ったのは わたしは過去世はどうでもよいと思っているからです。取り上げなかった。《生前》というのは 《生身で生きている人生(いわゆる現世)》のことです。誕生以前という意味ではありません。  (3) 過去‐現在‐未来という時間的系譜として捉えた経験世界 このほかに《非経験の領域》を想定するのは 好き勝手におこなっているのではありません。方々にすでに書いていますが あくまで現実世界において《神 あるいは 信じる》という言葉をじんるいは使って来ている。一向に消えない。では その本質(真意)は何かという問いから起こしたものです。  《神》という言葉に対応する経験事象は ありません。雷(神鳴り)・狼(大神)あるいは野球の神様などという言語習慣もあるにはありますが これらはあくまで偶像(仮りの姿)なのでしょう。対応すると想定される何ものかを仮りに人間の言葉で代理して表わしたものです。  鰯の頭にも神〔の霊〕がやどると言って言えなくはないわけです。偶像としておれはそう思うと言うひとに その発言までは止めることが出来ません。  ということは すでに答えは出て来ています。人びとは 《この経験世界においては見えないそして如何ようにしても表象し得ない何ものかを想定している》ということです。これはそのまま《非経験の領域》と捉えるよりほかにない。  そうしてこの領域は ひとの《身体=精神》においては《非思考の場》であろう。なぜなら表象し得ない(思考によっては捉えられない)からです。心の窓とたとえることが出来るかも知れません。つまりこの心の窓において神とわたしとの対面が いづれのときにか 起こる。対面においてわたしが神を受け容れたなら それを《信じる》と名づける。それの持続は 信仰と呼ばれる〔動態である〕。  (4) 人間は 経験世界に生きる時間的相対的有限的存在です。その時間過程に沿ってしか生きられません。光速を超えて生きる非相対的な行き方をすることもかないません。からだは移ろい行きやがて朽ちるという限界を持ちます。  そのとき ひとりの人間の行為は ほかのそれと相い対して 全体として社会的構造的に入り組み錯綜して連関し合っています。この因縁果の交通網を抜け出すことは およそ出来ません。特に厄介なのは 人によって気持ちが違い考えが違うことです。おのれの良いと思っていることが ほかの人間にとってはそうでもないということです。  善悪の問題になります。  それでは 善悪というものの彼岸はあるか?   歴史を経て来た人びとの生活の知恵としては 《ある》と言っているわけです。想定しています。  《神 ないし 神を信じる》という言葉で表わして来たというわけですが 現代ではこれを《無い神 ないしわたしは無神論者である。つまり無い神を信じる》という場合も 同等な《非思考の場》のあり方であろうと考えられる。あるいはちなみに 《神》には ヤハヱー・キリスト・アッラーフあるいはブラフマン・アミターユスなども入ると言っています。名が違うだけだと。  (5) 善悪の〔因果関係の絡み合う必然の王国とも呼び得る経験世界に対する〕彼岸がもしある〔と想定される〕のであれば 輪廻や業の思想は――想定として――お払い箱行きだ。こうなります。

bragelonne
質問者

補足

 (6) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・だからこそ、ブッダが(業や輪廻転生といった狭い領域ではなく)「広い意味での因果」からの脱却を  「この世をも かの世をも 望まない」(スッタニパータ)  と表現したのだと思っています。  仰るところの、「経験領域」の上段に構えた「非経験領域」は、そういった「脱却後」の領域と捉える見方も可能でしょうが、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この後つづく反論については説明したかと思います。(《神・信じる》といった言語慣習が 基礎にあるということ)。  でこのように《脱却後》の領域について ブッダはどう言っているのでしょう。どう――けっきょく一人ひとりが――推し測るでしょう? それをきちんと述べることが 現代思想としては必須だと考えます。

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