• ベストアンサー

哲学における宗教の意義を、皆様はどうお考えになりますか?

哲学における宗教の意義を、皆様はどうお考えになりますか? 大学の講義の課題で出たのですか、どこから考えればいいのかさっぱりで困っています。 色んな方の意見を聞いて、参考にさせていただければなと思います。 取っ掛かりのヒントだけでも大歓迎ですので、よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • 207eden
  • ベストアンサー率26% (24/92)
回答No.12

シンプルに考えてみました。 簡単にまとめた意見で恐縮ですが、 【哲学】は、すべからく明晰さを中心においた思考と思います。 【宗教】は、心の中の不明瞭な恐怖や尊敬の念を束ねる機関と思います。 哲学と宗教の相違点では、 【哲学】は自己の思想を中心とした精神行動で、【宗教】は既存のオーソリティーを中心にした精神行動となります。 生命の存在を脅かすイベントの多い世の中に生きていると、自分一人だけでは処理できない事も多々あります。 戦争や飢餓、天災などで、又は人間関係の不和や不調などです。 哲学も宗教も持たない人が上記のイベントに遭遇したと仮定し、当事者がどのような精神活動を持つようになるか? こうのように考えれば、哲学と宗教の関係性が、ある程度は見ててきませんか? 人間の心を中心に、どちらの精神活動に振れるか、ということだと思います。 参考になりましたでしょうか?

その他の回答 (11)

回答No.11

無情の真理に調和の役割を担って社会生活に現実的な知恵を授けると思います

回答No.10

 こんにちは。  定義をしていけばよろしいのでは?  或るものを《知っている》ともし言ったなら――その当否は別として―― そのものについて分かっているということです。  世の中のことを知っているというのは 世の中のことが分かると言っています。いやいや 男女の仲はまだまだ分からないことがあるというのは それでもそれを《知り得る》という前提があります。  世界のことが分かるというのは そういう未知のことがらがまだあっても 《知り得る》という前提に立ってものを言っています。――これは 経験科学が担当する仕事です。  経験科学が ではもし《知り得ない》と言ったら それはどういうことなのか?   けれども 《知り得ない》と言うのなら《知り得る》ところとの境界についても知っていることを意味します。だとすれば 《知り得ない》というのは 《〈知り得ない〉として知っている》ことになります。  と考えてくるなら 世の中には 《知り得るか知り得ないか それを知り得ない》ということがらがあるのではないでしょうか? どうでしょう。  この《なぞ》をナゾとしてそのまま受け容れる行為が 信仰です。  そのあと このナゾは無だと言いたければ言ってもいいし いや有る・神として有ると言いたければ言ってもいいことになっています。《分かるが分からないかが 分からない》のだから 二つの受け取り方が自由にできます。  この《信仰》から 《宗教》が出ます。  有神論と無神論とに分かれた〔個人の〕信仰についてみれば そういう名づけだけに限れば やはり個人の信仰のあり方を説明しただけのものです。そうして その神を信じなさいとか いや無神ということが真理なのだから無神論を信じなさいとか言ったりすれば これは宗教の始まりです。組織を持ちその《信じなさい》の中身を神もしくは無神がどうでこうだああだと説明をつけ加えこれを《教義》とし始めたら 明らかに宗教が出来上がります。  一般に《キリスト教を仏教を信じる》と言ったりしますが これは言葉を間違えています。《信じる》のは 神か無神かどちらかで呼ぶナゾだけです。キリスト教や仏教は 教義のことを言っているのですから。教義になったその内容は 《知るか知らないか》の経験思考のもんだいです。  というふうに交通整理をするのが 《哲学》の役目です。  経験科学ももともと哲学だったわけですが 哲学は昔は広く宗教まがいの内容をも扱っていましたので それを扱わないとする科学が姿を現わしました。  信仰はもともと 人間とともにふるいと思われます。信仰という行為についても 哲学や科学は扱って知ろうとします。その《なぞ》については 《分かるか分からないかが 分からない》ということで決まっていますが そのナゾと《わたし》との関係――それは 出会いとそのあとの動態過程でもあります――について 主観共同でありうる分野において 問い求めます。《精神=身体》的な反応などを生物物理化学的に究明することもおこなわれるようになるかと思います。  宗教は 教義を持ってその教義をいわば神とした時点で 自殺したものと見なされます。

noname#118718
noname#118718
回答No.9

哲学において宗教はどういうポジションに置かれているかということかな? 過去から現在の時間軸において、まず宗教ありき、次に哲学が生まれ、そして、哲学の一分野に宗教が編入されたという印象をもちます。 当然、ポジションが変化したわけですから役割や意義も変わっているでしょう。 そして、それらの変化の引き金は何だったか? このような課題を自分で発見する力は大きな財産になりますし、結果として課題の評価も高くなると思います。 間違ってもいいので自分の力でチャレンジされることをお勧めします。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.8

木造大工の米虫おん大将がそう言うんなら、他にも面白い提案があります。私はワンパターンでいつも同じことばかり言っているのですが、宗教を考えるときの意表を突いた見方として、私が大ファンであり、且つ日本が世界に生み出した不出世の奇人の天才南方熊楠の『南方マンダラ』河出文庫を一読することをお薦め致します。他でも紹介しましたが、南方が20代の後半にロンドンを訪れていたときに、彼よりも10才ほど年上に真言宗の学僧、土宜法竜に向かって宗教の講義をしている書簡集です。土宜法竜は後に高野山の管長にまでなった高僧です。彼に向かって南方は「仁者、宗教のことを知りたしと言う。これ仁者仏に信厚ければ到底能わざるかもしれぬ」要するに「お主は仏教の信仰厚い坊さんだから、宗教のことは分らんだろう」ってなことを言っております。 米虫さん、私もうんと若い頃ニーチェを読んで感激したことがあった。若い人には是非読んでもらいたい本だね。ところがどういうわけか、モンテーニュの『エセー』にお目に掛かちゃって、その頃から哲学よりも、古典の歴史書に興味が行っちまったんだ。哲学者のいう哲学って、所詮一個の頭が考えつくようなことっきり書いていないが、人間の事績になると、人様が想像もつかないようなことが起こって来たからね。 まあ、こんなこと言ってるのも滅茶苦茶に矛盾を含んだ言い様だが、そんな切っ掛けを与えくれたモンテーニュさんだって、懐疑論の権化、現人神、魑魅魍魎の天神様の化身のコンコンチキのお稲荷さん見たいな哲学者だったもんね。そう言えば、懐疑論股肱に入れりっていう重症患者のモンテーニュ爺がキリスト教神学者のレーモン・スボンていう坊さんの書いた本を弁護するつもりでものした書き物の中で、懐疑論をとトコトン押し進めちゃって、この坊さんの書いた本が全く無意味だったって暴露しちゃったもんね。こんなことが起きるから、人間の世界って人間の頭で想像できることを遥かに越えちゃっているんだね。 質問者のお若いの、大学の課題も大事だが、これを機会に幾つかの良い本も読んで見るのも、もしかしたらあんたの人生を変えちゃうかもしれないから、面白いと思うよ。

回答No.7

「哲学における宗教の意義など皆無である」との立場をとってみたら面白いと思います。 「皆無である」という断定は、実際に皆無でない場合にも大いに意味のある仮説・挑戦であり、大学生の課題に取り組む姿勢としては有意義だと思います。 取っ掛りのヒントとしては、ニーチェと言う哲学者のアンチクリスト(Der Antichrist)という本の一読を勧めます。短い本ですからドイツ語で読むのが理想的と思いますが、哲学専攻で無いならば日本語訳を利用しても許されるでしょう。私の様なオジサンには通俗的な現代語訳でも、大変に参考になりました。目から鱗です。 キリスト教徒という信者20億人を擁する人類史上最強最大のグローバル教団に対して、ニーチェという一個の哲学者が自分の脳みそを使って思索し検証した結果の勇気ある著作です。宗教一般、哲学一般で論文を書くよりも、最大の宗教を一つ選び、最も偉大な哲学者の一人を選んで争点を明確化しておくことは、質問者さんの今後の哲学的思索におおいに資することと確信します。 書名:キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 出版社:講談社+α新書 [新書]

参考URL:
http://de.wikipedia.org/wiki/Der_Antichrist
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.6

貴方は既に大学生になっているのだから、この際大学生らしいことをやってみることを考えてみても良いのではないですか。 高校生の授業とは違って、大学の授業とは先生が手取り足取り教えている訳ではありません。大学とは、どんなところからその問題に入って行けば良いか、そして、一々の主張がどうのこうのと言うよりも、その分野で何か有意義な結論に至るために、どのような物の見方や方法があるか、そのためにはどんな本を読んだら良いかの情報を与えてくれるところです。そして、それが参考になると思えばそれを参考にし、また、参考にると思えなければ自分で方法論を模索して、後は授業に関係なく自分で授業以外の情報を集めたり資料を集めたりして自分の思索を深めて行くところです。だから、大学の先生は、貴方が授業を聴いたくらいで理解したり、その授業の内容を整理て、誰でも言いそうな事を書いて来ても、「あっそう、この学生は並だな」ってなぐらいにしか考えてくれません。先生に、「なるほどこの問題にはこんな側面や見方があったのか、今回は教わってしまったな」と言わせるつもりにならなければ、何のために大学に行ったのか分りません。例えばそのことに関して、私はまだ1年生だからと言うのは、余り関係ないでしょう。 また、そのことに挑戦するときの心構えですが、論述のなかに間違いや誤解があるのは当たり前であり、先生の書く論文だって間違った主張だらけだと言うことを肝に命じていて下さい。大事なことは、どこの部分が間違っていたかと言うことではなく、その人は誰でもする間違いと言う大海の中で、どの部分で意味のある新しい視点や物の見方を提案しかと言うところにあります。キラット光る提案があれば、一朝にして出来上がらないまでも、じっくり時間をかけて行くと、その提案の周りに一大構築物が出来上がって来ます。 また、人間は間違った時にだけ何かを学ぶとも言われています。間違いは、相手の反論を誘発し、その反論が貴方の思索に影響して貴方の提案に対して新たな構造を付与してくれ、それに基づいた反論の反論が、また相手に反論の反論の反論を誘発し、互いが互いの触媒となってグルグル回りながら、即ち数理科学で言うところの非線形過程を経て、頑強な構造を生産的に作り上げてくれるのです。だから、間違った提案をすることは、新たな世界の発見にとって大変に重要なことなのです。 今回急にそのような挑戦を先生に出来ないとしても、いつもその意識を持ちがら、その先生に限らず、いつかどなたかの先生に挑戦したレポートを書いて下さい。大学と言うところはどこの大学でも、それが出来るか出来ないかで貴方の能力が試されるところなのです。この際、一流大学か二流大学かは関係ありませんよ。一流大学でもそれが出来ない人は並な人、二流三流大学でもそれが出来る人は一流な人です。

  • juyjuy
  • ベストアンサー率22% (139/612)
回答No.5

宗教哲学という哲学も有ります。 宗教というのは信仰を前提にします。 哲学は考えかたを疑うところから出発します。 信仰を哲学的に批判するか、哲学を信仰という観点から批判するか・・・ この辺をとっかかりにされたらいかがでしょうか? 宗教を信じている人が「考えかたを疑う」点に立てば信仰が成り立たなくなるかもしれません。哲学は「疑う」事から始めるにせよ、何か人間の奥底にある正邪善悪に対する考えは確固としたものがあると言う立場で(信仰の立場で)考えるか・・・。 人間を最もよく知るための格好の課題だと思います。とりあえずヒントにしてください。

回答No.4

哲学的観点になるかどうか・・・・ 人民を統一するための手段 と考えます。

noname#136007
noname#136007
回答No.3

  難しい問題ですね。 自分なら、宗教とは何なのか? 人間が生きる上で、どのような役割を果たしているのか? と言う点を、徹底的に考えて、そこから切り込んで行くだろうな~ 参考になるかな・・・  

noname#131236
noname#131236
回答No.2

チョット舌足らずでした。すみません。 伝統的には、哲学は、言語を通じて、宗教に対し、意義的な基礎付けを行ってきました。 意義に関連する観点としては、記号と言語・思考というインストルゥーメンタルな分野の開拓。 哲学的なアプローチと宗教的なアプローチの区分がはっきりしてきたということが抑えられるべきでしょう。 宗教に対峙するという学的態度。 更に、具体と抽象の間の溝を、埋めようという試みを通じて、「カテゴリー」と「個別」の間の境界線をはっきりさせたことなどです。 個人の人生と宗教という 項目としては、 1常識的日常心理と哲学(宗教的には、たとえば疑念・不安) 2学問(知)と哲学(宗教的には、観照と感性の起源) 3個人・個別の信仰と哲学(宗教的には、自由と確信) といろいろやり方はあると思います。1つに絞って書き上げたほうがよいでしょう。 簡単なことは、哲学者の伝記を参考に、そのひとが、宗教と哲学どう対置してきたかを探ってみるというのがよいでしょう。授業で出てきた哲学者は誰だったのでしょう?

yuuuuu1991
質問者

補足

ありがとうございます。 難解なことについて考えると、やはり難しくなりますね…。 二コマコス倫理学をやったので、アリストテレスが中心だったかと思います。

関連するQ&A

  • 哲学、宗教について課題が出たのですがわかりません

    哲学の授業で課題が出たのですが全くわかりません、解答あるいはヒントがいただけると嬉しいです 以下の問についてそれぞれ400文字程度で答えよ ・黒澤明の映画 生きる の主人公と、トルストイの イワンイリッチの 死 の主人公が到達した死生観とはそれぞれどのようなものであったか、またそれぞれの死生観の関連性について書け ・宗教とはどのようなものかを迷信、科学、哲学との相違にふれながら書け ・夏目漱石が至った則天去私とはどのようなものであり、どのような過程を経てこの考えに至ったのか書け 宜しくお願いします

  • 哲学と宗教

    下の質問で”哲学の価値”はとういう質問を出しているのですが、その質問を出す前には共に漠然としたものであり一貫性がみあたらないな~と感じていました(共に専門的な知識はありません) それで、”哲学の価値”についてはそうでもなさそうだと思い回答を参考にしていろいろ見て回っている所なのですが・・・ どうしても宗教の一貫性のなさ(各宗教にによって考えが違っているようなこと等)が哲学と結びつけるのに無理があります(個人的にですよ) 私に基本的な知識がないからということは分かってはいるのですが、ふと思ったのですが、宗教が先に生まれたのかそれとも哲学(共に言葉が生まれる前でも良いです、それらしきもので結構です)が先だったのかどうなんでしょうか? へんな質問なんですが頭が混乱してきて整理したいのでよろしくお願いします

  • 哲学を学ぶ意義とはなんですか?

    現在、大学で哲学の授業を学んでいます。 しかし、その授業を学ぶに当たって、 なぜ、哲学を学ぶのか、また、 哲学を学ぶことで得られるものは何かということを 考えるようになりました。 哲学を学ばれている皆さんは、なぜ、哲学を学ぶのでしょうか? 哲学を学ぶことに対して、何を求めているのでしょうか? 出来るだけ詳しく、そしてたくさん書いていただけると とても参考になります。

  • 哲学で何が見えてくるの?

    哲学の「意義」と「課題」を教えてください!「これっ!」という答えは、無い気がしますが、ご意見を聞かせてもらえると嬉しいです。

  • 「哲学」は「宗教学」に近いのですか?

    当カテゴリで、いまだ未締め切りの質問を抱えている者です。 「哲学」がなんたる学問かについては良く知らず、 自分の質問内容が投稿先の候補としていた「心理学」や「国語」には多分当たらないであろうとの 消去法で「哲学」カテゴリに投稿した次第です。 私が投稿した質問はごく日常的な疑問です。。 何人かの方がすぐに回答下さり、とてもありがたく思いました。 しかし、ふと「哲学」カテゴリの質問リスト(回答数も載ってる)をみてみると、 タイトルに宗教的なものが多いように感じたのです。 聖書がどうしたこうした、仏がどうしたこうした、神がどうしたこうした… しかも、宗教的な質問ほど多くの回答が集まっているように見える。 これは私が考えていた「哲学」とは異なる傾向です。 「哲学」は宗教などから離れて、あるいは少なくとも宗教の教え等は第三者的な視点から捉えて、 人間の真理を追究する学問と思っていたからです。 ざっとみた感じなので申し訳ないのですが、 どうにも「哲学」カテゴリが「宗教」に巻き込まれているように思えてならないのです。 たとえば、本カテゴリで興味深い質問をみつけ、少し見てみたのですが、 回答された内容に、「輪廻転生」を前提としたものが複数見られました。 私は「輪廻転生」自体は否定しません。 しかし、「哲学」カテゴリで、 「人間は生き返るのだから大丈夫だよ」などとする意見はどうしても受け入れ難い。 これってまさに宗教的じゃない?気持ちわるーい!と思うのです。 私の「哲学」に対する認識は間違っているのでしょうか?

  • 慣習法の意義

    大学の通信教育で、法律を学んでいるのですが、法学の課題で、 「慣習法の意義について論じなさい」というのが、あります。 教科書や参考書やネットで、調べてもなかなか、糸口が見出せないので、ヒントか、参考となる本だけでもいいので、教えて頂きたいと思います。よろしくお願い致します。

  • 宗教・思想・哲学

    宗教・思想・哲学の関連性について考えたいと思います。 宗教・・・あらゆる人間活動、思想の根底にあるもの。 思想・・・あらゆる人間活動において、思考すこと。⇒考え自体、考え全般を指す。 哲学・・・思想に対する学問、研究、文書。⇒学術的体系。 こういった関係で宜しいでしょうか? ※哲学カテゴリー、レギュラーの皆様のご意見をお伺いしたいと思います。

  • 哲学できるようになるには?

    私は現在ある大学の哲学科に在籍しています。 入学してから今まで受けてきた大学の哲学の授業は、主に教授の話すことを聞いているだけの、講義形式のものがほとんどでした。 しかし、これから進級するにつれて、哲学書などを読んで、自分の考えを発表したり、他の学生たちと議論したりする、学生主体の演習が増えてきます。 そして私は、これから受けることになるであろう、この演習形式の授業に不安を覚えています。 なぜかというと、私は自分の考えを言うことが苦手だからです。 自分の考えを言うことが苦手だというのは、自分の考えに自信がなかったり、恥ずかしかったりするからではなく、そもそも自分の考えというのが頭に思い浮かばないからだと思うのです。 不安を覚え始めたのは、以前、授業のときに教授に「価値って何だと思う?」とか、「理性って何だと思う?」とか、「自分って何だと思う?」ということを聞かれたときからです。 私はこのとき、質問に対して自分の考えが全く思い浮かばず、何も答えることができませんでした。 哲学のなかでは初歩的な質問なのかもしれませんが、私には十分難しく感じました。 他の学生たちも私と同じように答えることはできないだろうと思っていたのですが、予想に反して、しっかり自分の意見を言っていました。 また、「ニヒリズムを克服するためにはどうすればよいか、自分の意見を述べよ」という授業がありました。 このときも私は、「私たちの行いが無意味だと言われれば確かにそうかもしれないし、克服なんてできるのだろうか」と思うだけで、何の考えも思い浮かびませんでした。 なんとなく面白そうだなという安易な考えで、大学の哲学科を専攻してしまったのですが、哲学という学問の難しさに非常に戸惑っています。 哲学は自分には合わないのかなと不安になってしまいます。 こんな私でも、哲学を学び、過去の哲学者たちの様々な思想に触れていくうちに、哲学的な問題に対して自分の考えを持てるようになるのでしょうか? それとも哲学ができるかどうかは生まれ持ったセンスの問題なのでしょうか? 何かアドバイス等ございましたら、よろしくお願いします。

  • 法律文書の意義とその活用法

    というレポートが大学の講義で出題されたのですが、とっかかりが得られなくて困っています。 この授業は司法書士の先生方が週代わりで司法書士の実務のお話(例えば不動産登記、公正証書のことについて等)をしてくださるのですが、やはり大学の先生とは違いますので話が本題からどんどんずれていったり、最終的な結論は何なのかわからなくなったりして、授業をちゃんと聞いていても内容がなかなかきちんと把握できないという状態でした。 そこでこのレポートが出題され、法律文書は種類がたくさんあるし・・・、例えば契約書の意義とかならわかるんだけど・・・法律文書全部の意義を網羅的に説明するためにはどうしたらいいだろう・・・。と困ってしまいました。 そこでどなたかヒントでも構いませんので参考になるお話、URL等を紹介して頂けないでしょうか。 まとまりのない文章ですいません。 よろしくお願い致します。

  • 「哲学」を安易に使いすぎ?

    よく、投資の哲学とか、 経営の哲学とか、 遊びの哲学とか、 宗教の哲学とか、 政治の哲学とか、 ○○の哲学という言葉が世の中に氾濫していると思うのですが どうでしょうか? 哲学=思想 なのでしょうか? 皆様の意見をお聞きしたいです。