• 締切済み

哲学と宗教

下の質問で”哲学の価値”はとういう質問を出しているのですが、その質問を出す前には共に漠然としたものであり一貫性がみあたらないな~と感じていました(共に専門的な知識はありません) それで、”哲学の価値”についてはそうでもなさそうだと思い回答を参考にしていろいろ見て回っている所なのですが・・・ どうしても宗教の一貫性のなさ(各宗教にによって考えが違っているようなこと等)が哲学と結びつけるのに無理があります(個人的にですよ) 私に基本的な知識がないからということは分かってはいるのですが、ふと思ったのですが、宗教が先に生まれたのかそれとも哲学(共に言葉が生まれる前でも良いです、それらしきもので結構です)が先だったのかどうなんでしょうか? へんな質問なんですが頭が混乱してきて整理したいのでよろしくお願いします

みんなの回答

回答No.9

宗教は一貫性が無いと受け取っているようですが、本当は一貫性が在ります。仏教も、キリスト教も同じ事を言っています。簡単に言うならば、人間の幸福{安心}とは自我意識の計らいを捨て去って、自分自身の働きに任せなさいと言う事になります。 精神疾患とか、神経症とか、自律神経失調症というものが在りますが、是等は、自我意識だけで生きて行こうとしている姿と言えます。精神疾患とは、自我意識だけで自分の心をやりくりしていると言う事、神経症とは自我意識だけで自分の行動や、生き方を進めている事。又自律神経失調症は自我意識だけで体の事を心配していると言う事になります。 人間の一番安楽な姿を「天国」という風に形容しています。これに一番近い存在とは「幼子」と聖書には書いて有ります。仏教にも同じ事が書いて有ります。分別を捨てて生きる、或いは、有るがまま、或いは赤子のように純な心で、という事です。 宗教の中の地獄や、悪魔という表現は、人間の心が分裂したと言う意味になります。心の矛盾の事を言っています。その心の矛盾が作り出している障害が、先に挙げたものと言えます。その解消方法が宗教の目的となります。それは心の自由という事になります。死を前にしても揺るがない安心という事になります。 他の言い方をするならば、他人から見たなら不幸に見えていたとしても本人は幸福に包まれている、或いは大安楽である、ということです。この事が何を意味するかと言いますと。心の矛盾が解消したと言う事になります。 悩むものと、悩ませたものが和解すると言う事です。人間はストレスを感じる、と言います、ですがストレスは「本人が本人の心で作っているものです」他から押し付けられたものでは有りません、自分で作っているものが、その人のストレスという事になります。 そのストレスが心の矛盾です。その解消が宗教の中に有ります。その事に気が付かないと言う事は、不安をあまり感じていない人かも知れません。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.8

wikiの宗教の項目を見ると、 『日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今で言う「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まった、とされている。』 幕末期に作られた言葉なんでしょうね。 Religionは、再統合みたいな意味だったような。 ソクラテスあたりの時代、<人間は生まれる前は全くの義の世界にいたが、肉体という限界を持ったことで、その世界から離れることになった。 肉体を持ったまま生まれる前にいた世界に戻ろう>ってことで、全くの義の世界に戻るってのが、リリジョン(再度 つなぐ)ってこと。 ああ wikiにも同じこと書いてありますね。 全くの義の世界を神の世界ってした。 そこに戻ろって活動がリリジョン、宗教。 で、哲学はフィロソフィ 、智を愛する って意味。 知恵をもって、一度離れた全くの義を知ろう・戻ろうって考え。 ソクラテスの弟子プラトンの考えは、<肉体を持ちながらも、全くの義の世界を認識できるものがいて、そういう世界が認識できない者でも、認識できる人の言うことに従えてさえいれば、過ちを犯さず全くの義の状態となれる> としていた。 でも、 <はて? 果たしてどうやってったら、義人と評判の人が本当に義人だとわかるのだろうか?> という疑問が生じた。 <「あの人は親切でええ人やぁ」と他人から言われるためにやっているのか、本質が義人だからやっているだけなのか、どっちかどうやったらわかるんだ?>と悩んだ。 じゃあ その人からあらゆるお得なものを奪ってしまえば本質が見える って考えた。 <その人から良い評判を奪い(徳を奪い)、罪も無いのに罪人だとして、十字架にかけて、槍でついても、その人が最後まで義人であり続けた場合は、その人の本質は義人だったということになる> と考えた。 イエスキリストだ? いえ プラトンは紀元前400年ほど前のギリシャ地方に生きた哲人ですから、キリスト教の影響は受けていない。 逆にキリスト教がプラトン哲学の影響を受けて、イエスは冤罪をきせられ、十字架にかけられ、紫の衣をはがされ(徳をはがされ)、槍で突かれたって物語を作ったんじゃないか と。 まあ それより何千年も前から神の子が十字架にかけられ処刑されるって話はありましたので、こっちの神話の影響をプラトンは受けていたので、そういう説を唱えたんじゃないかと。 ソクラテス以前から知恵をもって世の中を知ろうとする人はいたのですが、哲学(智を愛する活動)として残すようになったのは、ソクラテスが最初らしいです。 だから哲学が後じゃないか と。 前見たビデオによると、ご神託は巫女様が受けていて、その巫女様が言うことは、実はさーっぱりわからん だったようです。 そのさーっぱりわからんを預言者が巫女様から聞き、知恵をもって「こうするべきだと言っている」と解釈して、「集団の方向性を神様はこう示した」と言っていたらしい。 つまり 知恵が介在して方向性を決めていたってことですね。 だから、昔は宗教も哲学も一緒だったんじゃないか と。 ソクラテスだって、宗教から分離したわけじゃなく、弁明を聞くと、非常に信仰深かったと思えます。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.7

まず、一概に「哲学」という区分が出来ません。 ある哲学の否定から生まれる哲学もあり、 その意味で哲学もまた、一貫性を欠いている分野であること を理解されたほうが良いのではないでしょうか。 例えば近代哲学の祖であるデカルトが提示した「我思う、ゆえに我あり」 という命題は絶対的な真であるとする哲学者も多いでしょうが むしろこれを否定する哲学者は多いですよね。 一方で宗教と哲学の両者が何をしているのかというと 世界を説明する根拠を探求する思想の潮流でもあります。 例えば経済学の祖として有名なアダム・スミスは その著書の中で「物理学」も哲学に含むとしています。 物理学とは「起こったこと」を根拠とする学問(哲学)です。 一方で宗教は「神が言ったこと」を根拠としている思想です。 これらはその大元の根拠が異なるだけであって、 世界を説明する方法論として同種のものであるとも言えますよね。 とまあ、屁理屈くさい話は置いときます。 おおよその哲学と宗教の関係は、おおざっぱに言うと 以下のようになるのではないでしょうか。 自然に対して畏怖の感情が起きる(精霊信仰)  ↓ 生きるために政治理論や 生活の心得が議論される(ギリシャ哲学/インド哲学/儒教・道教等)  ↓ 宗教家が国家において力を持つようになる。(キリスト・イスラム教など)  ↓ キリスト教・イスラム教が哲学を組織作りに採用する。(暗黒時代)  ↓ 宗教戦争  ↓ 相手より強い組織を作るために 合理性が追求される(ルネッサンス=近代哲学・政治学・経済学・科学)  ↓ 世界大戦  ↓ 戦争に対する嫌悪が生じ、社会のあり方が議論されるようになる。 (社会学・心理学・文明論) (大雑把過ぎて色々な向きから怒られそうですが・・・) それまでの思想に従うこともありますし、一方で反面教師として 自説の強化に使われることもあります。世界のあり方を論ずるのには、 その時代ごとの"常識"を無視できないのです。 近代哲学は宗教の否定からスタートしています。 一方でキリスト教や日本における仏教などの政治のための組織宗教は それ以前の政治理念(ギリシャ哲学や儒教)を受け継ぎ、 影響を強く受けています。 文明の誕生から数千年を経た今ですら、宗教の非合理性をもって 社会の正当性の根拠として用いることがあるくらいです。 一方で、社会問題をもって合理性を否定する宗教家さんもいますよね。 結局、お互いがお互いを無視できないのではないでしょうか。 もうyou達もう付き合っちゃいなよ!

回答No.6

 哲学は 経験科学です。  ただ ふつうの経験科学よりは 根源的に探究します。すべてを――思索の中だけとしても―― 白紙に還元して 何ごとについても その世界の《はじめ》から 思惟を敢行します。  また 文学よりも 人間を全般にわたって 捉えます。もしくは 上のように 人間と社会とについて 《起源》を問い求めます。とうぜん 文学よりも 経験合理性にもとづく推論を 企てます。  そうして 自然科学とは もとより 社会科学とも違って 人間の主観をも その幅と奥行きいっぱいに 問い求めますし むしろ その哲学者の主観をも 打ち出して来ます。  経験合理性で理解されうると考えられるこの現実としての相対世界を超えたところには ひとは 一般に 《絶対》を想定しています。これに色をつければ 《神》です。もしくは 《無神》です。  この《絶対》と わたしの主観との 関係が 信仰です。絶対は 経験思考を超えていますから それとの関係となれば その信仰というのは 非経験思考という行為です。わづかに 心の明け・開けであり 伸びであるような・それとしては 経験行為であるところの非思考=信仰のことです。これは その神ないし無神を こころで受け容れるという 心の伸びです。  この信仰を もしくは 信仰から見た世界のあり方を 非思考でありながらも 思考のもとに 人間の言葉で 表現しようとする動きが 人間には 幸か不幸か あるようです。  つまりは 信仰論ないし信仰者の世界観 これは 経験科学を超えています。ところが 何とかして――何とかして―― これをも経験合理性によって理解することができるようにと 表現する作業 これを 一般に 哲学が にないます。表現できないものは 出来ないと言う場合も 哲学です。  この信仰内容を表現したもの これを ひとにおしえようとするのが 宗教です。教義として作り上げるでしょうし 組織を形成するでしょうし 一般に 教祖をも立てるようです。しかも むろん 一定の範囲の社会全体にとっての 慣習やら文明やらにまで 広がっていくようです。  一般に あくまで一人のひとの主観における信仰は 集団としての宗教においては 教義となった時点で 死にます。何らかのかたちで 経験思考の枠がはめられるからです。自由な信仰にとって 宗教化は 自殺行為です。  少し 大目に見るとするなら 信仰観を哲学の責任において 表現したその内容を 宗教と言う場合もあるのかも知れません。でも 一般に 宗教は要りません。あるのが おかしいでしょう。哲学と言えば よいわけですから。

noname#88701
noname#88701
回答No.5

哲学は分析的思考の面が強いと思います。 理性の働きによって、あらゆる事に関してさまざまな角度から検討し、解釈し、筋道や道理といったものを探ってゆくのです。 宗教は分析的思考の前に、感性的把握や直感的思考が前提となっています。 理性による分析的思考、概念の整理といったことは、その後にくるものです。 分析的思惟思考を前面に出した宗教は、哲学的な色彩が強く感じられるものです。 また、逆に感性的とか直感的な面を強く打ち出した宗教は、いわゆる神秘主義的ともいわれているものです。 大別すれば 哲学は理性による思惟思考の世界 宗教は感性と理性とによる実相の把握の世界 といえるでしょうか。 どちらが優れているのか、というような事は一概には言えないと思います。 なぜなら、一つの宗教に全ての哲学が収まる事も無く また、一つの哲学に全ての宗教が収まる事も当然無いからです。 相対的な見方をするならば、必ず可逆的な論法が生じてしまうことから 両者は一つにならずに今日まで続いてきたのだと思います。 哲学にしても、哲学の哲学とか 宗教にしても、宗教の宗教とか 限りなく生まれてきたのも、この不完全さの証明でもあり、相対的な必然性の証でもあると思います。 歴史を振り返ってみれば、それらが人間の知性の証明ともいえるのではないでしょうか。 哲学と宗教とどちらが先か、ということですが タマゴが先か、鶏が先かという事と同じです 人間の知性の顕れと同時に生まれたのだと思います。 ただ、理性をもって思考する、また言葉として整理して概念を伝えるという方法がごく一般的であったために 哲学的な面が圧倒的に強くなってしまったのだと思います。 感性的、直感的思考が人間から無くなることもなく、宗教もまた無くなることもないと思います。 それが必要であるかないかではなく 人間に与えられた知性の一部だからです。 これからも新しい哲学や宗教が必ずや生まれてくるものと思います。 新しくとも古くとも、人それぞれに正しいと信じられる哲学や宗教を選べば良いのではないでしょうか。

noname#100496
noname#100496
回答No.4

もちろん宗教が先です。哲学は後です。最初は世界中の言語に、情緒の表現があったそうですが、言語が進化して論理的になり、情緒が排除されました。だだ日本語だけ情緒が残っています。だから論理的思考の哲学だったら、情緒がないので、脳の自我の世界だけで、心の世界がないです。情緒こそ自然の心、宇宙の心、神の心です。だから中国の老子は、脳の思考による人の知恵を否定し、無知を奨めています。また仏教は自我を脳を否定し、無我になる事を教えています。

回答No.3

maimaisusです。 >下の質問で”哲学の価値”はとういう質問 から、続きです。 なるほど、そう言うことなら、前回の回答を踏まえて考えれば、宗教は哲学の一部だと思います。 しかし、何故そうだと、はっきりしていないかと言うと、宗教の存在と言うか、定義になる部分がそれを認めていないからだと思います。 ようは、神の存在が、哲学の一部ではいけないと言う間違った思考の為だと思いますね。 まあ、もちろん、別の要素も多々考えられますが、しかし、人間の考え・行動の、基盤・基準ですから、どうしても必要であり、宗教では内包と言う形で表現していると思います。 私し個人は、神=宗教だとは思っていませんので。 個人的には、宗教は哲学の一部で問題なしです。 上手く説明できなくてすいません。

noname#101110
noname#101110
回答No.2

宗教というのは、人間が自分の力のなさを実感して、その足りない分を他の自然力やら想像上の絶対権力(神)などに依存するところから始まったのだと思います。つまり、まだ言葉がないころからあったのではないでしょうか。哲学は、人間が自分の力で考えるところからはじまるものでしょうから、言葉が必要ですし、宗教以後の人間の(宗教よりも高度な)営みだと思います。もっとも、宗教にも原始的なものから、最近はじまったものまでいろいろでしょうし、哲学と複雑に絡み合ったものもあると思います。早い話、(原始)仏教などは宗教というよりも、哲学の部類に入れても良いというひとも多いようです。

  • Po-ni
  • ベストアンサー率52% (20/38)
回答No.1

こんにちは。私はクリスチャンです。 ええと、色々反論も出そうですが、私なりに書いてみます。 聖書にある創世記「初めに、神は天と地を創造した」 ここから見えるものは、神が全てを創造した。私達も神の作品である。すなわち始まりは神である、と読めます。そして私達は神の教えを学ぶワケです。 他方、哲学は、神によって造られた私達が起こした学問です。神様が造られた星を見て、神様が造られた地上を見て、その本質を調べ、学ぶ学問かと。 私の答えは、1,宗教 2、哲学  ですね。 ただ、神を信じない方、別の宗教の方だと、考え方は変わってくると思います。恐らく私の意見に反論してくると思います。そして、立場が違えば意見も違ってくるという事実を考察することは、哲学的な思考かと思われます。そして、この意見に反論する方も大勢いると思われます。 まあ、私の意見は少数意見だと思って間違い無いと思います。なぜなら事実、日本のクリスチャンは人口の1%未満だからです。

Pain_Pain
質問者

お礼

クリスチャンの方の教えですね ありがとうございました 人には生死があるので宗教だろうとは思っているのですが、それは思い込みということもあるかもしれないので敢えて聞いているのです 他の方にも答えが頂けたらいろいろ参考にしたいのですが、この場所(哲学)は限られた人しか来ないのでしょうね・・・ 宗教の種類の違いで反論はそうないんじゃないですか? 相手を非難するような宗教は偽者だと自分で言ってるようなものでしょうから^^

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