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哲学は怖い学問ですか?
私は高校生の頃に倫理を勉強してからというもの、哲学や宗教に大変興味を持っています。現在24歳・男です。 たまにこちらで哲学的思考にとらわれてしまい、常に悩み苦しんでしまっている方の書き込みを目にします。 哲学を深めれば深めるほど、哲学無しには生きていけなくなってしまうのでしょうか? 私は哲学を"個の宗教的価値観"として捉えているので、他者に押し付けたりしませんし(押し付けた時点でその哲学は宗教へと変化してしまう)、他者の哲学をまるまる信じてしまうこともしません。 しかしやはりニュースなどを見ると、哲学的な観点で見ることが多いです。例えば、殺人事件のニュースを見たときに『加害者はどういう生き方を送り、どういった価値観を持って人を殺してしまったのだろうか』とか、『もし、この○○が××だったならばどうなっていただろうか』などなど、真剣に背景の推測をすることが多々あります。 倫理の資料集などで様々な宗教や哲学者について簡単に学んできましたし、それらが自分の生き方に大なり小なり影響を与えてくれたのも確かなので、哲学的思考は捨てたくありません。・・・もう癖になっているので捨てられるわけもないのですが・・・^^; もしかしたら私の"哲学"という言葉の使い方は間違っているかもしれませんが、哲学の専門家の方がいらっしゃいましたら回答していただけると助かります◎ よろしくお願いいたします。
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お礼
現時点では、哲学に恐怖を感じることは少ないです^^今は恐怖を感じることに不安を抱いて、思考にブレーキをかけている節があります。 何を知りたいのか、についてですが"全ての物事の変わらない真理"をしりたいです。果たして真理とは何をさすのか、どこにあるのか、というのすら現時点では全くわかっていません^^; 私は、現実こそまさに哲学、として考えているので(安直な考え方かも^^;)code1134さんの意見には賛成、というか真理へのヒントが見え隠れしている気がするので好きです(好き、という表現もいかがなものか^^;) そうですねー、政治家には哲学を必修して欲しいですね。政治哲学ではなく、哲学を。政治家・・・なれたらなりたいです(笑)なによりまず死生観からの脱却を目指したいです、その点でも非常に参考になるご意見でした^^ 最後になりましたが、参考URLありがとうございます◎ 回答も大変参考になりました☆ありがとうございました^^