自己中心な考えとは?利己主義と相手を主体とした考え方の違いとは?

このQ&Aのポイント
  • 自己中心な考えとして、利己主義というのがあります。利己主義は、自分の利益を一番に考え、自分に有利な選択をすることを指します。
  • 自己中心な考え方では、「自分が中心に世界が回っている」とか、「自分を主体として主人公として考える」、「自分がいないと世の中始まらない(世界は自分の見ている夢、幻想である」という考え方があります。
  • 一方、相手を主体とした考え方は、相手の利益や幸福を重視し、相手を尊重することを目指します。この考え方は、利他主義と呼ばれます。利他主義では、「相手を主体として考える」や、「相手の中に自分を見る」、「自分は相手の見る世界の一部に過ぎない」という考え方があります。
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自己中心な考えとして、利己主義というのがありますよね。

自己中心な考えとして、利己主義というのがありますよね。 いままで自分は利己主義というのを、自己中心、自分本位な考え方として使ってきたのですが、 辞書で確認しましたら、「自分の利益を一番に、自分に不利益にならないように、」と書いてありました。 では、利益とかそんなのではなくて、本当の意味で、 「自分が中心に世界が回っている」とか、「自分を主体として主人公として考える」、「自分がいないと世の中始まらない(世界は自分の見ている夢、幻想である」といった考え方は何主義というのでしょうか? これも利己主義でよいのでしょうか? また、反対に、 「相手を主体として考える」や、「相手の中に自分を見る」、「相手の中の自分こそが自分で、相手がいないと始まらない(自分は相手の見る世界の一部に過ぎない」なんていう考え方は何主義というのでしょうか? これは、利他主義でいいのでしょうか? 正式な名称が無い、分からない場合は、カッコいい名称を考えてみてもらえると嬉しいです。 稚拙な説明のために、質問が分かりにくいかもしれませので、おっしゃってもらえればもう少し説明いたします。 ご回答よろしくおねがいいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

最初に確認しておかねばならない事は、「自己中心主義」と 「利己主義」は、異なるレベルの定義で、自己中心主義= 物事を自分を中心にしか見る事ができない(他人の気持ちを 思いやれない、自分を客観視できない)中でも、利己でなく 利他であり得ます。 よくある「おせっかい=自分勝手なお世話」がそうです。 言語としては、「自己中心主義」の反対は「他己主義」 (他人と自己を同一視する)ですが、実用的には「博愛主義」 と言った方が明確でしょう。 一方、「利己主義」もよく自己中心主義と混同されますが、 利己であっても、その意識が“社会生命的自覚=自己の生が 社会全体の営為に依存している認識”に基づいていれば、 その利己の実現過程には利他(社会全体の順調な機能)が 介在し得、利己と利他は統合されるのです。 世間的に言われる「利己的」は、お金や出世といった “馬車馬の目の前のニンジン”によって他律的に生かされる 拝金主義経済奴隷たちの短絡的(自己チュー)な利己です。

wakagi1189
質問者

お礼

分かりやすい解説どうもありがとうございました。 自分が疑問に思っていた定義について非常に分かりやすく書かれていたのでpsytex様をベストアンサーに選ばせてもらおうかと思います。 この場を借りてですが、皆様ご回答本当にありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.3

前者は普通に【個人主義】 後者は【依存症候】かなあ もしくは【加害妄想】とか

wakagi1189
質問者

お礼

絶望先生は、好きで見てましたがwww  そうかw 加賀ちゃんの加害妄想は、考えてみれば相手中心に物事考えてるんですねww 質問のお答え、そして、分かりやすい極端な例wwを挙げてもらいありがとうございました。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

自己中心主義と言います。冗談にアメリカ人主義と言う方もあると聞いたことがあります。これは思春期の方がよく罹る幼児病の一種です。自分と相手の立場を置き換えて考えると言う高度に抽象的な思考が出来ない方によく見かける病気ですので、抽象化欠如主義と言っても良いかも知れません。また、わがままに育った坊々(ぼんぼん)や一人っ子に良く見かけますので、良いとこの坊々主義とか、一人っ子主義と言っても良さそうです。 その反対の言葉は幾らでもあると思います。たとえば、人道主義、博愛主義、慈愛主義、思いやり主義、明日は我が身主義、情けは人のためならず主義、空気が読める主義(KY主義:これは麻生さんのような漢字読めない主義ではありません)、大人になった主義、平和主義、あなた任せ主義、などなど、自己中心主義という幼児病の反対の側面が多様であるために、色々な名前が思いつきそうですね。

wakagi1189
質問者

お礼

病気ってwww よさそうな名称がかなりありますね。 いくつか今後、使わせてもらいます(著作権はフリーなんでしょうかww ユニークなご回答ありがとうございました。

回答No.1

アドバイスや回答になるかどうか不明ですが、少しばかり。。。 ドーキンスの「利己的な遺伝子」は、お読みになったことはありますでしょうか? 遺伝子は謂わば物質と生命との狭間的な捉えられ方をしています。 ドーキンスはどちらかといえば、物質としての捉え方をしているのですが、それでも「利己的」という語法を用いています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9 彼の提唱する「ミーム」も同様の概念に根ざしており、「己・自身・私・思想・文化」の全ては、まさに物質や構造、基本概念へと還元されうるという立場です。 そこにおいては、「(意識的に)他者を考える・見る」などといった概念は払拭されており、単純に(というより論理的な)「関連性」でのみ「利己的か利他的か」を(外部から)捉える・評価するといった相対主義的な思索が前提になっています。その相対性故に、利他的と利己的は表裏一体の関係として捉えられており、同じ遺伝子同士でも >>> 上記リンク:wikipediaからの引用 『延長された表現型』でドーキンスは遺伝子の乗換えと有性生殖が存在するために、個々の遺伝子の視点に立てば他の遺伝子は環境の一部と見なせると述べている。 <<< と、相互の利己性、相互の利他性といった観点から捉えられているようです。 さて、科学的思考が >>> 「宇宙に法則はあるのか」 ジョン・D・バロウ 著、松浦俊輔 訳、青土社 1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。 (中略) 9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。 <<< に立脚しているかぎり、たとえば、 >>>「言語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91 カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰もメタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してより正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。 <<< といった概念を扱うことはできないでしょう。。。 すなわち、質問者様の仰っておられる「利己・利他」での「己・他」には、すくなくとも二種類の概念が重ね合わさっていて、かつ、相反すると思われる概念を区分するだけの別々の言葉が存在しないという歴史的事実が背景に存在しているということです。 で、こういった相反しうる概念が同一の用語で用いられ続けてきた過程を鑑みるに、「ほんとうは一つのこと」であるにも関わらず「二面性を呈する(ように見える)こと」だと、人類は直感的に感じてきたのではないのか? と、個人的には思っております。

wakagi1189
質問者

お礼

利己・利他という言葉のなかに、すでに二つの意味が入っているということでしょうか? いや、二面性があるように見えるけど、根本を正せば結局おなじ考えに行き着いてしまうということでしょうか。 ためになります。 ご回答ありがとうございました。

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