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真理とは何か

真理とはいったいなんですか? 抽象的な事象や事物のベールを剥ぎ取り、そこに真理の光を照らすことに意味はあるのでしょうか? 流れ星はたまたま地球に接近した燃焼性の物質であるというし、星が燦々と輝いているのもただの層位の違う大気の揺らぎだといいます。月は地球からはどうあっても59パーセント以上は視認できないのに、衛星写真などで観測してしまいます。どうですか?ロマンのかけらもないでしょう。 彼女の浮気や、友達の裏切りや、サンタクロースの不在、世界中で貧困に喘ぐ子どもたちや、戦争に苦しむ人々が大勢いること。知りたくもないのに知ってします。誰が教えてくれと頼みましたか? 逆に神は、死後の世界はあるんですか?幽霊はいるのか、10年後の日本は大丈夫か、だれが教えてくれますか? 目に見えて、実測可能なものだけが真実ですか?感じるだけで目に見えないものは真実ではないのですか?価値観や思考、信条は偽ですか?その尺度を自分の判断で決めるのはエゴですか? 真実とは、真理とは、その妥当性とはいったいなんですか?

noname#105609
noname#105609

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

「正しさ」には、ある言明に「論理的に正しい(矛盾がない)」と、 その言明の内容が「現実世界に対応している」の2つの意味があします。 それは、幾何学において、最初は現実の研究として得られたはずの ユークリッド幾何学が、その中において完全であり得ず、完全にすると 非ユークリッド幾何学も可能になる(無矛盾ではあり得ない)という ゲーデルの不完全性定理に至ります。 「論理的に正しい(論理に矛盾がない)」と「現実世界に対応している (結果に矛盾がない)」は両立しない事が明らかとなったのです。 その根底にあるのは、“自己の認識性とは独立した外的環境が存在する” という素朴唯物論の否定であり、「心」と「宇宙(物質or意識)」の あやふやな関係の決着です。 最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事に よって生じています。 自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙。 (無の無限の闇に対する自我の射影) 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。 自我仮説の補完として時空仮説は派生するならば、全てのものは あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)必要であり、 予め「思い」通りだと言えます。 その「本当の己れ=他我としての宇宙(愛)」を知らないために、 真の自分自身とぶつかっている=自己矛盾を起こしているだけで。 完全な物理に基づく完全な愛さえあれば、宇宙の果てであれ、 永遠の未来であれ、あなたの意志は達成されているのです。

noname#105609
質問者

お礼

お返事遅くなり申し訳ありません。解釈に少し時間がかかりました。といってもまだわからない部分も多いですが。 既に私の意志は達成されている。世界は周辺ごと私自身のもの。面白い仮説だと思います。たくさん頂いた回答の中で一番興味深い意見でした。ありがとうございました。

その他の回答 (14)

  • juyjuy
  • ベストアンサー率22% (139/612)
回答No.5

真実とは「多くの人」がそう信じること。 裁判・科学実験などは証拠によって「真実」を見出すこと。 目に見えて実測可能なものは証拠になります。感じるだけで目に見えないものも証言とか観測として証拠になります。 しかしこれらは個人が決める事ではなく世間が決めます。したがって質問者様のご指摘にありますように頼まれなくても世間がやります。 裁判などでは時効などというものがあって自分が思う真実と違う場合、「反証」を出さなければなりませんがなかなか困難です。 真理は「ある仮定に基づいて」導き出された正しい考え。 「価値観」「思考」「信条」の数だけ真理はあります。これらは個人あるいは団体・国家などのアイデンティティ-ですから正しい意味での「エゴ」です。 質問者様の考え方は正しいと思います。 ここに真理と真実の相克が生じるのだと思います。 これは哲学の永遠の課題であり、私のような素人が回答できるはずもありませんが、以下の事が質問者様の参考になればと回答した次第です。 ゲ-テの書いた「ファウスト一部・二部」という作品をご存知でしょうか?これは「真実や真理を追究することは悪魔に魂を売ることだ・・彼女の愛だけが救いだ。」というキリスト教に遠慮した筋立てになっていますが、「真実・真理の追究」への期待と恐れが中心になった話しです。 ゲ-テは・・ご存じだったら失礼・・当時の物理学者でもあり光の屈折を研究していたそうです。ゲ-テのような合理主義者でもこの悩みは質問者様と同様だったように感じました。 以上、ご参考にして頂けたら幸いです。

参考URL:
ja.wikipedia.org/wiki/ファウスト
  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.4

真実や真理は存在します。 しかし、我々人間は無知に陥ってしまったのです。 よって、無知から知へ至ろうとするため、必死で真理を探し求めてきたのが、人間であり、人類歴史です。 その所産が外的目に見える真理としての科学であり、内的目に見えぬ真理としての宗教や哲学でありましょう。 相当の真理が解き明かされたと思しき現代ですが、まだまだ無知からは解放されていません。 例えば、あなたの質問もそのひとつです。 真理とは何か?真実はどこにあるのか?etc.etc. まだまだ知られていない真理が山のようにあるのです。 情報だけが海の波の如く押し寄せてきますが、真理はその中に秘められているのです。 真理の持つ属性・・・唯一性であり、普遍性であり、絶対性であり、永遠性であり、不変性であります。 その価値を求めるため、人間の知は真理を求めてきたのです。 無知は死の影であり、命を脅かすものです。 知らないことが不幸の原因になっても、知り過ぎて不幸になることはないのです。 我々は、本当に何も知らないのです。知を求め続けてきた科学者や学者や宗教家や哲学者でさえ、ほんの一握りの真理を辛うじて知っているに過ぎないのです。 いわんや我々凡人においては・・・ 生きている限り、真理を求め、真理を知らなければならないのです。 そして、知らないことが一つもないという本源的知の世界に到達しなければならないのです。 知に至らなければ、幸せは遠い遠い夢物語で終わります。 知に到達し、そこからが幸せの一歩をようやく踏み出すことができるのです。 知に至らなければ、苦しいだけです。無知はイコール死なのです。 わからなければ、質問しなければなりません。 わかったふりをしてはいけません。わからないことだらけが人間の真実だからです。 学校の授業でも、質問が少なすぎるのです。 質問で始まり、質問で終わるぐらいじゃないと嘘です。 専門の先生が顔を真っ赤にして困るぐらい質問しないとおかしいと思います。 我々は何でも知ってる仙人ぶってもしかたありません。 知らないなら、知らないことがなくなるまで質問するのが自然でありましょう。 そのぐらい質問してみて、専門家でも答えられない姿に触れた時、如何に人間が無知に陥ったかを知ることができるのです。 無知という土俵では、素人も専門家も五十歩百歩なのです。 あなたは、もっと質問をすべきです。専門家の無知を曝け出すほどまでに!! あなたのわからないことは、たったこの質問文だけってことはないはずですから・・・

noname#105609
質問者

お礼

知を求める姿勢を私は老若男女問わず尊敬します。あなたも例外ではありません。知識欲に拍車がかかりました。ありがとうございます。

noname#117439
noname#117439
回答No.3

アホめ。 生きている。 それだけが真実だ。

noname#105609
質問者

補足

無知は死。哲学の世界において残念ですがあなたは死んでいます。

回答No.2

 我々が知覚できるこの世の現象はすべて“真実”であるという受け止め方でよいのではないでしょうか。  この考え方の流れから、  人間の心が引き起こす様々な現象も、現実化しているという意味で“真実”としてもよいように思います。  そこで、この世の現実はすべて真実であると、規定してみました。  そして、真理とは。  これは絶対、どうにもならないもの、という事柄を指していると思います。  となると、  この世は変化し続ける、動き続ける、なんて言葉が思い浮かびます。  その事を仏教では“無常”(常なるものはない)なんて表現しています。  物理の世界でも、存在とは“運動”である、と捉えているようです。  この世の真理とは動き続ける、変化し続ける、ということ。  これのみが真理かと思います。  大まかな回答で物足りないかと思いますが、本質を掴んでいるのではと、内心思っているのですが。        

noname#105609
質問者

お礼

詳しくも簡潔な説明ありがとうございます。素晴らしい答えだと思います。 人生の糧になりました。

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    思考の壁?果? もちろん人の考え方は自由なんですが (宇宙は星が多くあり必ず生命体がいる=宇宙人説 霊は目に見えないが時々感じる時がある=次元などの揺らぎ? 可視光線はカラーで見えるが本当の色の世界はどうなんだろうか?) 例えば神が仮に存在したとしたら 人間の見える聞こえる波長とかは少々狭いから 人間には見えないものや聞こえない触れれないものなど感じ 思考ももっと範囲が広いのかな?とか それに何故脳や筋肉など数パーセントで留めてあるのか? 他殺や自殺などもプロテクトされているのかな? 何故地球上生命は平等なのに人の命だけは星より重いのか? これ以外でも貴方自身がこれは不思議だな?とか はたまた例題で出したネタに気になる点がありましたら どんどん突っ込みを入れてくだされ 今回は全部お礼していこうと思いますが まあ足りない者ですのでお手柔らかに&お気軽に。

  • 本を読んでも"自分"を保てますか?

    哲学や学問は世界を探求した結果がまとめられたようなものですよね。 それを自分に取り込めば、世界への理解がインスタントに得られ、 生活に役立ったり、よりよく生きることが出来るようになったりします。 しかし、そういった哲学や学術の本を読んでしまったら、 読まなかった以前とは思考や思想が変わってしまったり、 もし同調などしてしまったら、"自分らしさ"なんて消えてしまうのではないでしょうか? 例え上手く付き合ったとしても一度読んだものは忘れることは出来ないわけで、 『影響されなかった』と言い切ることはできないですよね。 哲学の本などは特に価値観や思考に直接関係するようなものばかりで、 もし影響されやすい人なら、本の内容そのままの思想に乗っ取られ、 作者のレプリカみたいなモノになってしまったりするんじゃないのでしょうか? もちろん、内容すべてに同調することは殆どないと思いますが、 その本の一部でも吸収してしまったら、もう読んだ人は"天然もの"じゃないですよね。 色々な本を読んで、自分が最も共感できる者を択一する…。 一見、オリジナリティ・個性をを保持したままのような感じがしますが、 実際はただの寄せ集め…ちぐはぐな存在でしかないのではないでしょうか。 彼が後に本を出したとして、その内容はしょせん過去の本からの引用…。 何百年後に評価されるような事はあるのでしょうか? 古今東西の哲学書を読んだ哲学者より、 森の中で生まれ育った人間の方が、よっぽど斬新で有意義な本を書くのではないでしょうか? 科学の分野で古い理論や最新の理論を読んだとしても、 それは過去、或いは直近での「事実」を読んだに過ぎず、 今や未来での「真実」を追求するのに何か役に立つことはあっても、 それ自体が「真実」に影響を与えることはないと思います。 (世界は平らだといっていた時代があったから、いま地球が丸い、というわけでないように) ところが哲学…思想や思考に関するものには「真実」がないですよね。 あるとしても個人のセンスに依存しているわけで…。 そうすると過去の本を読むことは、いたずらに自分を汚すようなものじゃないんですか? 科学が研究して真理を求めるように、人は経験し自らの思想思考を育む。 なのに本を読んで、こりゃあいいやって傾倒したら、 それは真実が変わってしまったかも知れないってことですよね。 20世紀には沢山いい哲学者がいたようですが、 21世紀にも、後世で「すごい人だね」と言われるような人は現れるでしょうか? 哲学-学者は哲学者になりうるのか…。 オリジナリティに溢れる哲学者はどこから来るのか…。 どうお考えになりますか?

  • 宗教が戦争を生むのか

    閲覧ありがとうございます。 私が現在、26年間生きてきて、物心ついてからいままで、世界で戦争が止んだことがありませんでした。 小さなころ、ベルリンの壁のニュースを聞き、戦争を不思議に思ったものです。 でも高校などで世界史を勉強して、あらゆる時代・場所で人間の争いがありました。26年なんてものじゃない。 そして、私が出した答えが題のとおりです。 人が争いを止められないのは、その中に変えがたいお互いの真理が根ざしている、つまりは思想信条が関係していると思います。 日本には八百万の神々への信仰、先祖信仰など昔から信仰があり、例えば元日は初詣に行き、葬式は僧侶に来てもらうなど、よく考えればちぐはぐなことですが「普通」と捉えられます。 しかしキリスト教や仏教(日本で広まっている主な宗教と考えあげています)のように、「宗教」に対しての偏見が強いです。 なぜ善い部分は認め合い、取り入れて生きられないのか。 こんな狭い日本でさえ。 悲しくなります…。 政治家が堂々と犯罪を犯す。 それに目を向けている人は何割か。 マスメディアは世の中を、流行を、思考を「洗脳」していることを、気付いているのか。 どう生きたいか。 何をもって、善か悪かを判断するのか。それが信仰によるのではないか。 こんなこと、話題にするのは「重い」と煙たがられる世の中。 哲学を嫌煙するのが今の世の中…というか私たち若い世代です。 ストライキだらけだったろうが、昭和の日本はまだ人間が「生きていた」のでしょう。 宗教とは何なのか。 今、日本人に必要なものは何なのか。 私は、差違を認め、関係を育む、大きな意味での「包み込む愛」ではないかと思うのです。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。