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真理とは何か

真理とはいったいなんですか? 抽象的な事象や事物のベールを剥ぎ取り、そこに真理の光を照らすことに意味はあるのでしょうか? 流れ星はたまたま地球に接近した燃焼性の物質であるというし、星が燦々と輝いているのもただの層位の違う大気の揺らぎだといいます。月は地球からはどうあっても59パーセント以上は視認できないのに、衛星写真などで観測してしまいます。どうですか?ロマンのかけらもないでしょう。 彼女の浮気や、友達の裏切りや、サンタクロースの不在、世界中で貧困に喘ぐ子どもたちや、戦争に苦しむ人々が大勢いること。知りたくもないのに知ってします。誰が教えてくれと頼みましたか? 逆に神は、死後の世界はあるんですか?幽霊はいるのか、10年後の日本は大丈夫か、だれが教えてくれますか? 目に見えて、実測可能なものだけが真実ですか?感じるだけで目に見えないものは真実ではないのですか?価値観や思考、信条は偽ですか?その尺度を自分の判断で決めるのはエゴですか? 真実とは、真理とは、その妥当性とはいったいなんですか?

noname#105609
noname#105609

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回答No.1

「正しさ」には、ある言明に「論理的に正しい(矛盾がない)」と、 その言明の内容が「現実世界に対応している」の2つの意味があします。 それは、幾何学において、最初は現実の研究として得られたはずの ユークリッド幾何学が、その中において完全であり得ず、完全にすると 非ユークリッド幾何学も可能になる(無矛盾ではあり得ない)という ゲーデルの不完全性定理に至ります。 「論理的に正しい(論理に矛盾がない)」と「現実世界に対応している (結果に矛盾がない)」は両立しない事が明らかとなったのです。 その根底にあるのは、“自己の認識性とは独立した外的環境が存在する” という素朴唯物論の否定であり、「心」と「宇宙(物質or意識)」の あやふやな関係の決着です。 最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事に よって生じています。 自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙。 (無の無限の闇に対する自我の射影) 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。 自我仮説の補完として時空仮説は派生するならば、全てのものは あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)必要であり、 予め「思い」通りだと言えます。 その「本当の己れ=他我としての宇宙(愛)」を知らないために、 真の自分自身とぶつかっている=自己矛盾を起こしているだけで。 完全な物理に基づく完全な愛さえあれば、宇宙の果てであれ、 永遠の未来であれ、あなたの意志は達成されているのです。

noname#105609
質問者

お礼

お返事遅くなり申し訳ありません。解釈に少し時間がかかりました。といってもまだわからない部分も多いですが。 既に私の意志は達成されている。世界は周辺ごと私自身のもの。面白い仮説だと思います。たくさん頂いた回答の中で一番興味深い意見でした。ありがとうございました。

その他の回答 (14)

noname#136007
noname#136007
回答No.15

. >演繹法で真理を導くというのは、私も聞いたことありますが、    聞いたことがあるレベルですか? それで否定するんですか! >ある一定の仮定を持たないため真理としての蓋然性は低くなると思った。ということです。    何故、一定の仮説を持たないと、真理の蓋然性が低くなるんだ? >どんな方法で導くかはお答え頂けた皆さんからの素晴らしい手法を参考にするのがよろしいかと思います。    あなたが、これがいいと、指示するのが筋だろう。! ちゃんと、答えてくれよ! (出来れば、前回の、不老不死の具体例、重力に依存することの問題も含めて) .

noname#105609
質問者

補足

了解です。 仮定、というのは皆さんから意見を拝見するうちに真理を導く上で必須だと感じました。それもしっかりと整合性をもつように作られた仮定でなくてはなりません。だからこそ、その仮定がぶれてしまう演繹法では真理を導けないと感じました。 例えば、 最初の仮定では人類が死なないこと、二つ目は重力があること。この異なる仮定を前提とした思考法でした。しかし前者は人類が死ななくなったら、将来死の定義が変わったら、後者は重力の働かない宇宙空間のような場所では、真理を導けないことになります。 なります、というか、あくまで私はならない、と感じました。真理とはそういうものではないと思ったからです。

  • pupurr
  • ベストアンサー率18% (129/705)
回答No.14

真理を聞く段階と真理を生きる段階があると聞きます。 簡単に言えば、料理方法を知ることが真理であり、その方法を知ってそれを使って生きるということでしょうか。  真理は生活の至る所あり、またそれを使って人は生きていると思いますよ。そんなに遠くにはなく、生活のすべてにあると思いますが。  目玉焼きの作り方一つでもそれは立派な真理です。それで目玉焼きが焼けるように自分が手に入れれば、それを使って生きるということができます。生活そのものですね。  そんなに難しく考えないことです。身近なことです。 聞きたくないことなら、聞かないように自分で意識するといいと思います。  目に見えないものは空気です。これは、間接的にあるとわかっているだけで、色も形も人には見えません。  これからは、いいものを見て、いいものを聞くようにしましょう。  私はTVは見ません。あまりにも残酷すぎると思うからです。感覚が影響すると思います。  何も知らず、無条件に現代を生きる人は、ある意味パニックになると思います。  山の中で静かに暮らすこともできますし、そういう秘境で生きている人たちも世界中にはいるでしょう。  混乱を避けるためにあらゆる情報の機器から離れた生活をしてみるといいと思います。  テレビを見ないだけでも、安らかな生活ができますよ。 今の20代の人は強烈な刺激の中で生きている時代だと思いますね。  危険を感じます。 >>彼女の浮気や、友達の裏切りや、サンタクロースの不在、世界中で貧困に喘ぐ子どもたちや、戦争に苦しむ人々が大勢いること。知りたくもないのに知ってします。誰が教えてくれと頼みましたか?  ロマンを自分自身の未来に見ましょう。  大変パニックになってるように見受けられます。

noname#105609
質問者

お礼

私は人生を英知をもってして是としたいです。そういうふうに楽に楽に向かう思考はあまり好きではないです。ただ一回りしてそれが真理なのかもしれないという可能性は感じました。が、まだ私はその段階ではないです。

noname#136007
noname#136007
回答No.13

. >仙人というのは存在自体に具体性が低いかと。     じゃ、不老不死の具体例を示してくれよ! >水が低いところに流れるのは重力に依存しています。     重力に依存することの何が問題なんだ? >いずれにせよ演繹法で真理を導くのは不完全でしょう。     じゃ、どんな方法で導くのが完全なんだ? ちゃんと、答えてくれ! .

noname#105609
質問者

補足

演繹法で真理を導くというのは、私も聞いたことありますが、ある一定の仮定を持たないため真理としての蓋然性は低くなると思った。ということです。 どんな方法で導くかはお答え頂けた皆さんからの素晴らしい手法を参考にするのがよろしいかと思います。

noname#136007
noname#136007
回答No.12

. 演繹法その2 演繹法で証明される事象を真理と言います。 例えば、 「水は、高い所から低い所に流れます。」 「このペットボトルの中の液体は水です。」 「ゆえに、ペットボトルの液体は、高い所から低い所に流れます。」 この演繹法の例は、いかがですか? .

noname#105609
質問者

補足

仙人というのは存在自体に具体性が低いかと。 水が低いところに流れるのは重力に依存しています。いずれにせよ演繹法で真理を導くのは不完全でしょう。

noname#136007
noname#136007
回答No.11

. >それでは不老不死の人間はどういう位置づけになるのでしょうか。 >例外が多すぎます。 簡単です。 人間とせず。仙人とか、別の名称を与えればいいのです。 .

  • booter
  • ベストアンサー率34% (269/769)
回答No.10

ある事象や物事は時代や人によって評価のされ方が違います。 時代と人によって評価が変化しないものが真理です。 もっと突き詰めれば、未来永劫変わる事の無い事象が真理になり、そのロジックを人間が徐々に発見・分析・解析・解明しているのが現状でしょう。

noname#105609
質問者

お礼

変化しないものというより、限りなく不変に見えながら変化し続けるものが真理という方が納得がいく気がします。ありがとうございました。

回答No.9

 こんにちは。  いくつかの定義の仕方がありますが わたしは次のように捉えています。  1. 歴史には 事実と真実とがあり これらをまとめて 現実がある。  2. 《事実》と言っても けっきょくは人が観測した結果として得ている認識事実のことです。  3. 出来るだけ――と言っても程度問題でしょうが―― 観測作業と認識に自分の主観を容れなかった認識事実が 客観と言われているようです。  4. おのが主観を――自分の考える最大限の客観性として――交えた認識事実が 主観でありおのれの《真実》と呼ばれます。  5. これらの事実と真実とをまとめた認識内容を 現実と呼びます。  6. ところが――ここで話は飛躍する要素を持ちますが―― いくらおのれの真実を訴えても聞き入れられなかったり また実際自分が考えても認識内容に妥当性を表わしがたかったりする場合があります。真実が 事実に屈服する瞬間です。一般的には そのようであって 妥当だとも考えられています。  7. それでも いやいや真実は違うのだという場合 つまり現実はそうではないのだと訴えたい場合 ひとは この経験的な歴史事実と人びとのそれぞれの真実との・つまりそれらの総合としての現実にも 飽き足らずうらみさえを覚える場合が無きにしも非ずです。  8. ひとは それでも復讐を敢行するわけにはまいりません。基本的に言って ひとはそこで《わび・さび》の領域に入ります。《わびしく 心は錆びついてしまう》というわけです。  9. 復讐を人間が人間に対して為すことは出来ないと明らめた人は たとえば      《復讐するは われにあり》と神は言いたまう。  というふうに考えました。そういう文句を持ち得ました。ひらめきました。なにものか 不可思議なるなぞでありながら その何ものかから この命題を与えられました。  たぶんこれを 人びとは 《真理》としたことでしょう。  10. したがって――もしこういうふうであるとすれば―― 真理とは 経験的な歴史のあらゆる現実を超えたところに見出されるもの(もしくは 見出され得ないなぞ)のことだと考えられます。  11. 真理とは 主観をも客観をも超えたところのものです。つまり 人間には分かりません。表象し得ません。しかも 人間の経験合理性によって知り得るあらゆる認識内容について 妥当であり間違いなくただしいということがらを絶対的に知っているなぞの存在だということになります。そういう想定です。架空の存在です。  12. しかもこの真理によって わたしたちは こころがやわらがしめられるようです。ですから あやまつは人のつねということわざを持ち得ました。  高がおとぎ話としての真理によって世界と和解する人間は 阿片によって感覚が麻痺しているのだという悪口をも得ています。そのへんは どうなのでしょう? どう考えられますか?

noname#105609
質問者

補足

阿片によって心が麻痺しているという表現や真理は謎の存在という結論に禅問答のような矛盾を感じました。 わびさびは日本風に解釈されている概念なので、話としての飛躍もたぶんに感じました。 しかし同時に神話的な要素を感じる回答に一抹の真実を見ました。真理とは可視的・具体的・可触的な存在ではないというところは賛同できます。 私では話の相手として不足であろうこと心苦しく思いながら回答させていただきます。

noname#136007
noname#136007
回答No.8

. 哲学的に言えば、演繹法で証明される事象が真理です。 例えば 「動物は死ぬ」 「人間は動物である」 「故に、人間は死ぬ」 簡単でしょ! .

noname#105609
質問者

補足

それでは不老不死の人間はどういう位置づけになるのでしょうか。例外が多すぎます。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.7

適正な回答ではありませんが。 未来を予測するためだと思われます。だからといって、厳密なものではありません。厳密に計算を実行すれば、その未来が来ても、計算し続けるはめになります。仮に、現在のスーパーコンピュータが未来予測可能だとしても、一部屋分の大きさの脳が必要になってしまいます。 データ量の減少として見ることが出来る、具象性から抽象性。 なりより、忘れてはならないのは、人間は神(トップダウン法式)が造ったのではないと言うことだと思われます。

noname#105609
質問者

補足

未来を予測するためではなくて、未来をより良くするためだと思います。予測すること自体には意味がないでしょう。あと神との関連性がよくわかりません。よろしければ補足頂きたいです。

  • hosiboshi
  • ベストアンサー率9% (15/158)
回答No.6

真理とは自分の中にあるものです。 それが実際の何かとかみあう時、それがその人なりの真理です。

noname#105609
質問者

お礼

真理は自分のなかにあるもの。そう思います。

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     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 世界は私を中心に回っている。

    世界は私を中心に回っている。 このヨタ話とは、学問カテゴリーでの投稿です。 ネットで人ったネタに下記の文言を興味深くコピペしましたが、研究のためとはいえ、無断転載することをお許しください。 ーーーーーーーーーーーーーーー ポパーに話を戻そう。彼が強調した「反証可能性」という概念は、万人が心に銘記すべきものである。20世紀で最も重要な概念といえるかも知れない。 彼がいうには、科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところ正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。 これを初めて耳にした時、なんでそんなことを言うのかと思ったが、今になってこれはすごい発見だったと思う。多くの人にとって科学とは真実として出来上がっているものなのに、ポパーは科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明する可能性をもつことだと言っているのである。 ーーーーーーーーーー 転載終わり、人によってさまざまな感慨がある事でしょう。 この文中に出ている、地球は太陽の周りを廻っているという常識への挑戦に「それはある」と考えました。 あえて天動説の論考を再開するというのは、観測手法と、観測の立脚点とが絡み、宇宙に対する解明に新たな着想にもなるのですよ。 研究者というのは、どの分野でも変人で、趣味人の類ですから、地球中心主義とでもいう観点から太陽系のモデルを天動説で再計算するという暇つぶしをすると、可能性として研究の目的に面白いこともあるかもしれません。 私が思いつくのは、天体観測単位に関してです。 現在は「光年」という単位が基準だけども、重力の作用とか宇宙に探査機を飛ばすよりも詳細に成果が出ている地球の構造とかを加味して、天文単位に「物理的な測量単位」的な側面をもたらす成果が何か出るかもしれません。 一般から見れば、そんな役に立ちそうもない事を、趣味と暇つぶしで熱心に取り組む変人を研究者と言います。 今回はそんなことを考えて、ネタとして掲示板に投稿しました。 研究や論考のために役に立たない助言をしてください。

  • 「10万年後の人間の顔」 が世界中で話題に・・・

    「10万年後の人間の顔」 とされる、大きな目の男女の画像が、世界中で話題になっています。世界有数の経済紙や、アメリカの3大ネットワークの1つでも紹介されるなどしています。 作成したのは、アメリカ在住のアーティストで研究者のニコライ・ラム氏と、ワシントン大学でコンピューターゲノミクスを研究するアラン・クワン博士で、2人は遠い未来、人類が地球外で生活することになると予想、地球より光の少ない惑星に住むことなどを想定し、(10万年後の人間の顔)を予測しました。 ・・・アーティストとか研究者とかの肩書きを持ってして、この画像の現実味、その理由の真実味、ともにサスガだなと感心させられます。この未来の人間の顔、本当に現在より進化した人間の顔なのでしょうか、どなたか教えてください。 http://www.youtube.com/watch?v=grGjD1rTNyg

  • 思考の壁?果?

    思考の壁?果? もちろん人の考え方は自由なんですが (宇宙は星が多くあり必ず生命体がいる=宇宙人説 霊は目に見えないが時々感じる時がある=次元などの揺らぎ? 可視光線はカラーで見えるが本当の色の世界はどうなんだろうか?) 例えば神が仮に存在したとしたら 人間の見える聞こえる波長とかは少々狭いから 人間には見えないものや聞こえない触れれないものなど感じ 思考ももっと範囲が広いのかな?とか それに何故脳や筋肉など数パーセントで留めてあるのか? 他殺や自殺などもプロテクトされているのかな? 何故地球上生命は平等なのに人の命だけは星より重いのか? これ以外でも貴方自身がこれは不思議だな?とか はたまた例題で出したネタに気になる点がありましたら どんどん突っ込みを入れてくだされ 今回は全部お礼していこうと思いますが まあ足りない者ですのでお手柔らかに&お気軽に。

  • 本を読んでも"自分"を保てますか?

    哲学や学問は世界を探求した結果がまとめられたようなものですよね。 それを自分に取り込めば、世界への理解がインスタントに得られ、 生活に役立ったり、よりよく生きることが出来るようになったりします。 しかし、そういった哲学や学術の本を読んでしまったら、 読まなかった以前とは思考や思想が変わってしまったり、 もし同調などしてしまったら、"自分らしさ"なんて消えてしまうのではないでしょうか? 例え上手く付き合ったとしても一度読んだものは忘れることは出来ないわけで、 『影響されなかった』と言い切ることはできないですよね。 哲学の本などは特に価値観や思考に直接関係するようなものばかりで、 もし影響されやすい人なら、本の内容そのままの思想に乗っ取られ、 作者のレプリカみたいなモノになってしまったりするんじゃないのでしょうか? もちろん、内容すべてに同調することは殆どないと思いますが、 その本の一部でも吸収してしまったら、もう読んだ人は"天然もの"じゃないですよね。 色々な本を読んで、自分が最も共感できる者を択一する…。 一見、オリジナリティ・個性をを保持したままのような感じがしますが、 実際はただの寄せ集め…ちぐはぐな存在でしかないのではないでしょうか。 彼が後に本を出したとして、その内容はしょせん過去の本からの引用…。 何百年後に評価されるような事はあるのでしょうか? 古今東西の哲学書を読んだ哲学者より、 森の中で生まれ育った人間の方が、よっぽど斬新で有意義な本を書くのではないでしょうか? 科学の分野で古い理論や最新の理論を読んだとしても、 それは過去、或いは直近での「事実」を読んだに過ぎず、 今や未来での「真実」を追求するのに何か役に立つことはあっても、 それ自体が「真実」に影響を与えることはないと思います。 (世界は平らだといっていた時代があったから、いま地球が丸い、というわけでないように) ところが哲学…思想や思考に関するものには「真実」がないですよね。 あるとしても個人のセンスに依存しているわけで…。 そうすると過去の本を読むことは、いたずらに自分を汚すようなものじゃないんですか? 科学が研究して真理を求めるように、人は経験し自らの思想思考を育む。 なのに本を読んで、こりゃあいいやって傾倒したら、 それは真実が変わってしまったかも知れないってことですよね。 20世紀には沢山いい哲学者がいたようですが、 21世紀にも、後世で「すごい人だね」と言われるような人は現れるでしょうか? 哲学-学者は哲学者になりうるのか…。 オリジナリティに溢れる哲学者はどこから来るのか…。 どうお考えになりますか?

  • 宗教が戦争を生むのか

    閲覧ありがとうございます。 私が現在、26年間生きてきて、物心ついてからいままで、世界で戦争が止んだことがありませんでした。 小さなころ、ベルリンの壁のニュースを聞き、戦争を不思議に思ったものです。 でも高校などで世界史を勉強して、あらゆる時代・場所で人間の争いがありました。26年なんてものじゃない。 そして、私が出した答えが題のとおりです。 人が争いを止められないのは、その中に変えがたいお互いの真理が根ざしている、つまりは思想信条が関係していると思います。 日本には八百万の神々への信仰、先祖信仰など昔から信仰があり、例えば元日は初詣に行き、葬式は僧侶に来てもらうなど、よく考えればちぐはぐなことですが「普通」と捉えられます。 しかしキリスト教や仏教(日本で広まっている主な宗教と考えあげています)のように、「宗教」に対しての偏見が強いです。 なぜ善い部分は認め合い、取り入れて生きられないのか。 こんな狭い日本でさえ。 悲しくなります…。 政治家が堂々と犯罪を犯す。 それに目を向けている人は何割か。 マスメディアは世の中を、流行を、思考を「洗脳」していることを、気付いているのか。 どう生きたいか。 何をもって、善か悪かを判断するのか。それが信仰によるのではないか。 こんなこと、話題にするのは「重い」と煙たがられる世の中。 哲学を嫌煙するのが今の世の中…というか私たち若い世代です。 ストライキだらけだったろうが、昭和の日本はまだ人間が「生きていた」のでしょう。 宗教とは何なのか。 今、日本人に必要なものは何なのか。 私は、差違を認め、関係を育む、大きな意味での「包み込む愛」ではないかと思うのです。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。