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『聖書』を知らなければ話にならないというお話

 が多すぎませんか?  (あ) 聖書が《神は生きた者の神である》と言っているのに ニーチェは《現世の否定・生の否定》と見てへんちょこりんな殴り書きの批判を延々とつらねました。  (い) プラトンは イデアの世界がこの経験世界に影を落としていると 一介の人間でしかないのに勝手に 断定しています。それは 思想は自由だからよいとしても その思想を聖書による神学と一緒くたにするというマチガイをも侵しています。  (う) 神とあまりなじまないアリストテレスにしても その絶対(ないし非経験の場)を 《第一原因》と捉えました。つまりは 《不動の動者》です。かんたんに単純に《神が人間世界を動かしている》と言うのなら プラトンとあまり変わらない。  (え) 聖書の《創造主なる神》は あくまで物語です。経験事物が被造物だというのは――アリストテレスと似てはいますが―― その絶対と相対とのあいだの隔たりをしっかりと確かめるためにタトエで述べているだけです。  (お) (むろん 神は《そのナゾが何であるか分かるか分からないかが 人間には分からない》のですから ひょっとするとほんとうにこの世界を非知なる神が造ったということなのかも分かりません。いづれにしても 聖書記者の意図は まづタトエで分かりやすく表現したのだと考えられます)。  (か) 聖書とそれにもとづく神学を知らないデカルトは ご苦労にも《神の存在証明》をおこなっているようです。まったくの不首尾のもとに。こんなことは 一度共通の理解に到っておけば 無駄な議論が省けます。  (き) ヨーロッパ人は 《真理と真実》とがよく分かっていない。真理は 絶対でありけっきょく非知なる神のことです。真実は 事実認識としての誰れ彼れにおけるその主観真実のことです。  (く) 神学は 経験現実について知るために 前提事項として知っておくという問題です。おそらく聖書の神学が 哲学としても普遍的な内容をそなえると考えます。  (け) 聖書を知らない――またけっきょく誤解している――ことによるむだな議論が多すぎます。のではないですか?    

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回答No.2

(あ) 私たちは日本人であり、東洋人であり、キリスト教の神なんか不要です。どうして聖書を知らなければお話にならないのか? ほとんどの日本人は聖書なんて名前は知っていても、そんな異国の本をわざわざ読む人はいません。 ニイチェが言うようにキリスト教は「ニヒリズムの宗教」で生を貶めるもの、生を否定するもので、人間を抑圧するもの、そんなものが存在しなければ人間は自由です。 (い) プラトンはイデアは天にあり、永遠の実在であり、私たちに出来るのはその「イデア」を想起するだけだと言いました。そしてこのプラトンの「イデア論」を受け継いで、プロティノスは「イデア」「一者」の流出による世界の創造という新・プラトン主義を唱え、それがアウグスティヌスによって、ユダヤ・キリスト教の神による世界の創造というドグマに結び付けられ、プラトンの「イデア」は神に言い換えられ、キリスト教神学を作るために利用されました。 聖書の神学はプラトン思想によって出来上がっているのです。 (う) アリストテレスは「形而上学」で、こう言いました。 「この世に動いているものがあれば、それを動かしているものがいるはずである。そして動かしているものがあれば、動かしているものの動かしているものがいるはずである。さらに動かしているものの動かしているものの動かしているものがいれば、動かしているものを動かしているものの動かしているのがいるはずである。かくて世界の原因は無限にさかのぼって行く。しかし、人間は無限にさかのぼることは出来ないから、どこかで第一原因とか、初動者に行き着く。その第一原因とか、初動者が神と言われるものである」と。 このどこが、プラトンと同じようなものなんですか? (え)  「聖書の<創造主なる神>はあくまで物語です」ということは、あんなことはたとえ話であり、フィクション、虚構に過ぎない、というのですか? だけどそのフィクションが2000年にもわたって、西欧の人々に信仰されてきた事実の重みというのを、どう考えたらいいのでしょうか? 単なる絶対と相対との隔たりを確かめるための、たとえ話だと? 冗談でしょう。 (お) 再度言いますが、聖書の神は私たち日本人には無関係、その神が存在しようと存在しなかろうと、そんなことは知ったことではありません。 非知なる神が世界を作ったなんて、真っ赤なウソです。 フォイエルバッハが言うように、神が人間を作ったのではなく、人間が神をその必要性によって作ったのです。 神は人間の幻想の産物。 自己疎外の産物です。 私たち日本人にとって、西洋の神が存在しようと存在しなかろうが、そんなことはどうでもいいことです。 (か) デカルトはカトリック・フランスの最高学府・ラ・フレーシュ学院に8年間も在籍した学んだので、しかも友人にメルセンヌ神父など、多くの聖職者がおり、キリスト教神学は良く知っていました。 それに当時の大学は法学部・医学部・神学部しかなく、哲学は「神学のシモベ」でした。 そしてデカルトの神の存在証明は、この世界を神が数学的に作ったことを証明し、みずから創始した解析幾何学で世界を数学的に解析するために必須のものでした。 「省察」の第3と第5で、その証明が述べられており、第3が、結果からする神の自然神学的証明と言われるもの、第5が神の存在論的証明と言われるもので、中世のアンセルムス、トマス・アクィナスの伝統に連なるものです。 (き) 「ヨーロッパ人は<真理と事実>とがよく分かっていない。真理は絶対であり、結局、非知なる神のことです」と言いますが、神なん存在しないのだから、ましてや日本人にはそんな西欧の神なんか存在しないのだから、真理は神とは無関係にありますが、あくまで事実の真理であり、絶対的なものではなく、相対的なものです。そして事実は誰にとっても事実であり、それを私たち各人の主観を通してみているにすぎません。 主観的事実というのはありません。 (く) 「おそらく聖書の神学が哲学としても普遍的な内容をそなえると考えます」って、それは西欧人のいうこと、日本人のいうことではありません。 たまたま19世紀に資本主義とともに、西欧の哲学がわが国に輸入されて、それが哲学だと思っているあなたの先入観に基づくものでしかありません。 (け) 「聖書を知らない、また結局誤解している、ことによる無駄な議論が多すぎます」って、いったい誰のいうことなのですか? あなたはそれでも日本人? 東洋のチンケな、黄色い皮膚の、短足で、平べったい顔をした、アジアの辺境も辺境、極東の離れ小島の野蛮人が、聖書、聖書と、荒野で叫んでいるだけではありませんか?  

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ (あ) ・・・どうして聖書を知らなければお話にならないのか?  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~  (く) 神学は 経験現実について知るために 前提事項として知っておくという問題です。おそらく聖書の神学が 哲学としても普遍的な内容をそなえると考えます。  (け) 聖書を知らない――またけっきょく誤解している――ことによるむだな議論が多すぎます。のではないですか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ です。  ★ キリスト教は「ニヒリズムの宗教」で生を貶めるもの、生を否定するもので  ☆ ローマ教会そのほかの坊主がどう言っているか知りませんが たとえば:  ▼ (ルカによる福音書 20章 38節) 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。   ☆ 例のレヰラート婚の話が出たところで イエスがみづから語ったと伝えられる言葉です。  ★ (い) プラトン〔と〕アウグスティヌス  ☆ については 補足欄でアウグスティヌスの文章を引いてみておきます。その違いについてです。  ★ (う) アリストテレス・・・のどこが、プラトンと同じようなものなんですか?  ☆ 《非経験の場 = 非知なるナゾ》としての第一原因が 経験世界における事象を《うごかしている》と 経験存在でしかない人間が判定しているところです。神と人間とのあいだには絶対的な隔たりがあるのだから 断定し得ません。  それでもたとえば ひょっとしたらそういった動かす・動くの関係が成り立っているのかも知れない。それは分からない。分かるか分からないかが人間には分からない。――と説明すべきところをそうせずに 神と人間とのつながりをプラトンと同じように説いたところです。  ★ (え)  「聖書の<創造主なる神>はあくまで物語です」ということは、あんなことはたとえ話であり、フィクション、虚構に過ぎない、というのですか?  ☆ そのとおりです。それとも 文字通り歴史的事実であるとでもお考えなのでしょうか?  ★ だけどそのフィクションが2000年にもわたって、西欧の人々に信仰されてきた事実の重みというのを、どう考えたらいいのでしょうか?  ☆ おそらくそれは――フィクションは――考え想像するものですから 信じる(無条件に心に受け容れる)のではないけれど その信じる振りを人びとはしていた。ということでしょう。  さもなくて ほんとうに鵜呑みにしていたとすれば それは 人びとがよほどお目出度たかったということです。  ★ 単なる絶対と相対との隔たりを確かめるための、たとえ話だと? / 冗談でしょう。  ☆  どっちが冗談なのでしょう。  ★(お) 再度言いますが、聖書の神は私たち日本人には無関係、その神が存在しようと存在しなかろうと、そんなことは知ったことではありません。  ☆ 日本人に関係あるか無いかを問うているのではありません。日本人をふくめて世界の人びとが この現実の世界を知るために 特にはヨーロッパ人の哲学思想をまなぶときに 聖書を知らなければ話にならないお話が多すぎませんか? と問うています。当のヨーロッパ人に聖書読みの聖書知らずが多すぎるという意味です。これは(く)や(け)で示したように 人文学の世界における大きな問題です。  ★ 非知なる神が世界を作ったなんて、真っ赤なウソです。  ☆ タトエで書いた虚構であると言っています。問題は 非知なる神のことでは 人間がその神の内実と言いましょうかを推測しても それはどこまでも推測に終わるということです。《真っ赤なウソです》と断定するのは 人間の越権行為です。それを ぢゃあと言うので 否定するのも 人間のワザではありません。  ★ フォイエルバッハが言うように、神が人間を作ったのではなく、人間が神をその必要性によって作ったのです。  ☆ 《非知》とは 《知り得ないと知ったものごと》としての不可知と違って 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》です。これは 人間がつくったものではありません。強いて言えば 見つけたものです。  言っときますが 世の中には人間の想像の産物としての神 こういう神もうぢゃうぢゃいます。すなわち  ★ 神は人間の幻想の産物。 / 自己疎外の産物です。  ☆ ですから 一般理論としては 神という概念やその名前や物語やは 神本体の補助線である。と捉えるのがよろしい。カンナビ山も磐座も それが神本体であるのではなく 神の依り代であるわけです。  ★ 私たち日本人にとって、西洋の神が存在しようと存在しなかろうが、そんなことはどうでもいいことです。  ☆ 問題は その《西洋の神》について 哲学として交通整理しておくことです。神とは何かを定義した上で 妥当な内容のものと そうではないものとを仕分けしておくと 哲学を進めるうえでうんと楽になります。  神社でお参りするにしても 神殿の背後の杜や山が神である。いえいえ それらも神の依り代であるわけです。神は目に見えません。つまり 《非知》なのです。  もののあはれを知るにしても 鴫立つ沢やその秋の夕暮れなる風景が 神なのではありません。神を感じたというのなら その光景は 神を知る上での補助線が引かれたものだと感じ取った。と西行は言っているわけです。  ★ (か) デカルトの神の存在証明は・・・アンセルムス、トマス・アクィナスの伝統に連なるものです。  ☆ 一向に真理の内容が明らかにされていません。ブディズムは 唯仏与仏と言って ただブッダなる者たちにのみ分かるんだと言って逃げました。この逃げが 二千年効いていて人びとは まるでイカレポンチ状態です。それと同じです。  ★ (き) ・・・神なんか存在しないのだから  ☆ という神の扱い方は いただけません。存在するともしないとも人間には分からないのです。  存在しないと分かっているのなら わざわざ神とする必要はありません。  ちなみにそれゆえ 神の信仰にかんする有神論と無神論とは 互いにひとしく《わが心なる非思考の庭》の具体的なあり方をいづれかとして選んだ結果を示しています。いづれも互いに同等です。  ★ 主観的事実というのはありません。  ☆ 事実を認識したというその内容は 認識する主体の主観であり それが事実と対応して妥当だと思ったならそれを 主観真実と見なします。《主観真実として捉えている事実》が主観の数ほどあります。  《事実》は確かに ひとつです。ですがその事実の叙述は 人間の認識をとおしてしか成り立ちません。その認識の中身で哲学は勝負するのです。  ★ (く) 「おそらく聖書の神学が哲学としても普遍的な内容をそなえると考えます」って、それは西欧人のいうこと、日本人のいうことではありません。  ☆ (お)のフォイエルバッハあたりのところで論証しました。世界に通用する普遍性なる理論を示しました。  ★ (け)・・・極東の離れ小島の野蛮人が、聖書、聖書と、荒野で叫んでいるだけではありませんか?  ☆ 聖書や神学は それみづからが要らないようになるためにまなびます。  インチキな聖書学や想像の産物なる神にだまされないためにです。  要らなくなったなら 文字どおり要りません。歴史学の範疇にのこるのみです。  ただし 個人の《非思考の庭》なる動態としての信仰は そのまま――外に出かけずに内面において――いだかれ続きましょう。  荒れ野でさけぶ必要もなくなります。

bragelonne
質問者

補足

 ○ アウグスティヌスとプラトン  アウグスティヌスがプラトンについて書いているところは いくつかあります。そしてただし簡潔にまとまった箇所はなかなか見つかりません。その中から引きます。類似性と違いとに触れています。長い議論になっていますが。  ▲ (アウグスティヌス:プラトンにはいわゆるキリスト教(つまり 聖書の神学)に近い理解があると同時に 違いもあること) ~~~~~~~~~~~~  だれであろうと 最高にして真の神を次のように考える哲学者たち――すなわち 神を被造物の創造者 あらゆる認識の光 あらゆる行為の〔窮極的〕善であると考え その神によってわたしたちが自然の原理や教えの真理や生の幸福を持つものとなると考える哲学者たち――・・・のすべてを・・・わたしたちに近い人たちであると認めるのである。(§9)  ただキリスト教徒・・・はこの世の元素(エレメンタ)に従って哲学し 世界を創造した神に従って哲学をしない人々を警戒するのである。なぜなら 彼は使徒(パウロ)の訓戒によって注意を促され 《誰かがこの世の元素に基づく哲学や むなしい教えの誘惑によってあなたがたをだますのではないかと警戒しなさい》( cf. コロサイ書2:8)という使徒の言葉に忠実に耳を傾けるからである。(§ 10)  ・・・・・  ところで 世界の創造について叙述している書物『ティマイオス』の中で プラトンは 神はその〔創造の〕作業において はじめに地と火とを接合したと言っている(31B)。ところで プラトンが火という言葉で天の場所を意味したことは明らかである。したがって 〔プラトンの〕この考えは《はじめに神が天と地とを創造された》と言われていることとある種の類似性を持っている。さらに プラトンは これら二つのものの間におかれることによってこれら地と火の両極が相互に結合される二つの媒体的元素 すなわち 水と空気とについて語っている。このことからプラトンは 聖書に《神の霊が水のおもてをおおっていた》と書かれていることを そのように理解したと考えられる。  しかも空気は霊であると言っていることからして プラトンは 聖書が《神の霊》と呼ぶとき どういう意味で用いるならわしになっているか十分に注意をはらわないで その箇所では四つの元素が述べられているのだと考えたに違いないのである。なお プラトンは 哲学者(フィロソフォス)とは神を愛する者(アマートル・デイ)のことであると言っている(神が知恵(フクマー)であるなら そうなる)が 聖書の中にこれほど輝かしい言葉はほかにない。  ・・・しかし・・・プラトン自身も 多くの神々に対して犠牲(礼拝)が捧げられるべきであると考えていたのである(『法律』4・716D-717B  8・828A-D)。(§11)  わたしはまづ第一にかれらに尋ねる。どんな神々に礼拝が捧げられるべきであると彼ら(プラトン派の人びと)は考えているのか と。  善なる神々にか それとも悪なる神々にか あるいは 善にして同時に悪なる神々に対してか と。しかしわたしたちは すべての神々は善なる神であり 神々の中には悪い神々といったものはまったく存在していないというプラトンの考えを知っている。それゆえ このことから 犠牲(礼拝)は善なるものに捧げられるべきだと考えられていると言える。しかもこの場合 神々に捧げられていることになる。というのは もし善でなければ神々ではないからである。  もしそうであるとするならば(というのは 神々についてそれ以外にどのように信ずることが相応しいであろうか) 悪い神々に対しては 彼らが危害を加えないように 彼らに犠牲を捧げてなだめるべきであり 善い神々に対しては助けを与えてくれるように呼びかけるべきであると 多くの人々が考えるような意見はまったく捨て去らなければならない。なぜなら 悪い神というのものは存在しないからであり 彼らも言っているように 犠牲(奉仕)の栄誉はそれに値する善なる神々に与えられるべきだからである。  劇場の芝居を好む神々 その芝居を神聖な儀式に加えることを求め 自分の名誉を顕示することを要求する神々はどんな神々なのであろうか。そうした神々の力は 彼らが無ではない(存在している)ことを示している。しかし むろんそうした渇求は彼らが悪い神々であることを示しているのである。劇場の芝居についてプラトンがどのように評しているかはよく知られていることである。なぜなら プラトンは詩人たちが神々の威厳と温情にふさわしくない歌を作ったので 彼らを祖国から追放すべきだと認めていたからである。  それならば そうした劇場の芝居をめぐって プラトン自身と対抗する神々とはどんな神々なのであろうか。・・・しかしながら プラトンはそうした神々の悪を怖るべきものだとは考えてはいないのである。彼は自分の確固たる信念を 首尾一貫した態度をもって保持し 詩人たちのあらゆる冒涜的なふざけごとを――そうした神々は不純な者たちとの交わりに慰安を見出しているが――よく秩序づけられている市民から躊躇なく取り除こうとしている。  であるから プラトン派の人々はこうした事柄をわたしたちに説明すべきである。・・・すべての神々は善であり 誠実であり 徳によって知者たちと交わっていると考え またいづれの神々についても これ以外に考えることは不信心なことであると考えているからである。(§13)  〔* このあとも その《説明》とさらなる反論がつづく〕。  (アウグスティヌス:神の国 BK.8 ch.9-13 茂泉昭男訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なお まづ第一にアウグスティヌスにも 抹香臭いふるい表現があると見ます。  そうしてこのくだりは けっきょくプラトンが神――イデアの世界――とそして人間の世界とが つながっていることを 自分で・人間としての能力によって判断しているし そう言い切りまた言い張ろうとしている。こう考えられます。  これは マチガイです。  アウグスティヌスは決してプラトンの後塵を拝する位置にいるものではありません。  

その他の回答 (2)

回答No.3

なかなか良く全体像を研究している。 キュアブルームの私は心の潤いでは君の先生だろうと思うがな。 哲学博士としては君は私の先を言っている。 ところで、そのような西洋の知性の歴史は私にはどうでもいい。 純粋で無垢な光。 アマテラスさま。 キュアブルームはあなたのために戦います。 私は、ときわたりのセレビィ、神はうるわしのジラーチちゃん。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  だけど 神は人間のペットではないですよ。  まぁ 親しみをこめて そういう表現をしているというまさに表現の問題でもあるんでしょうけれど。    けっきょくは―― 一般の人々についてですが―― 神とは何か(あるいは 神とは 何でないか)が分かっていないので とんちんかんな話になる。ようです。

回答No.1

自己主張が多すぎます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  これでもセーヴしているんですけれど。・・・  ご回答をありがとうございます。  というより もっと真剣な議論をして行かないと ずるずるだらだらまた千年あいまいな思想がつづくかも分からない――ことのほうが 問題ではないですか?

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  • シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

     1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界      非経験の場  2. 非経験の場とは 非知として想定されている。    人間の現実      経験世界(経験事象)         可知(可感をふくむ)            既知            未知         不可知(知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この現実を持って生きる。それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引く補助線である。  7. かくて たとえば非知すなわちふつうに言う神は 不可知であると見た人がいる。けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  8. 神は感じるものだというシュウキョウもある。それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。それしかないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  9. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または われひとり)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張るインチキ宗教である。  10. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説くシュウキョウがある。これは 悪しき無限に落ち入る。落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。これも 補助線を神そのものと見なしているからには アホンダラ教である。  顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 聖書について

    知り合いが現在、聖書に没頭しており色々と話を聞かされます。聖書は神様が指示し、言われた通りに人間が記した書物だそうなので、次の質問をしたら納得のいく回答は得られませんでした。どなたか教えてください。 「何故、聖書の中にはヨーロッパ系の名前の人物しか登場しないのですか?当時にアジア圏にも、すでに人類は居た筈なのに??です。それと登場する国がこれまた実に狭い範囲でしかないのは何故なのでしょうか?神様は新大陸発見者たちよりも先に世界中の事を御存知のはずなのに??です。」宜しくお願いいたします。

  • プラトンのイデア論の根拠について

    プラトンが所謂現実世界に対して、それを支える超越的な世界をイデア 界として想定してしていますが、そもそもイデアの論拠とはどこにある のでしょうか。 同じ超越的な対象を求めるにしてもキリスト教であれば、人間や自然に 対して「神」を唯一絶対の根拠としており、アリストテレスでさえ「第 一起動者」なるものを想定しています。 現実の根拠はイデア。では、イデアの根拠は? 皆様、よろしく御教示ください。

  • 《まだ知られていない》には未知と不可知と非知がある

     1. 《既知》ではなく《まだ知られていない》という場合 そこには 未知と不可知と非知とがある。  2. 《まだ知られていない》が いづれ――推量なのですが――《知ることが出来るであろう》と見なす場合は 《未知》です。  3. 《未知》の中で これこれの問いはどうも正解が見つからないし その知り得ないことが証明されたという場合 これは 《不可知》です。知り得ないと知った そこまでは知り得ている。  4. 《未知》ではあるが それと同時に 《いづれ知ることになるだろうとも言えない》場合 これを《非知》と呼ぶとよいはずだ。  5. 《いづれ知ることになる》とは決して言えない場合というのは 《絶対》の領域のことだ。この経験世界を超えた場のこと。  6. 経験的で相対的で限りあるその生と能力が移ろいゆかざるを得ない人間にとって 絶対は いつかはそれを知ってやろうと思っても 無理である。仮りに 無理でなく知ったという場合には その人はみづからが絶対なる存在になったことになる。あり得ない。  7. ただし・ぎゃくに絶対なる場は 《知り得ない》か? と言えば それについての答えも分からない。というのが 人間の成し得る自然な理解である。  8. 知り得るか? も分からないし 知り得ないか? についても分からない。しかも この二つのことが 同時に成り立っている。これが 非知だ。  9. まとめよう。《知り得るか 知り得ないか いづれとも知り得ないナゾ》 これが 非知だ。  10. 言いかえると ひょっとすると 人はこの絶対――神のことだが――を知り得るかも知れない。そのとき同時に 知り得ないかも知れないと認識していれば 成り立つ。  11. 知り得るとも 知り得ないとも どちらか一方にだけ片寄った捉え方をまぬかれていれば その神を人間は如何ようにも 捉えて間違いではない。  12. 《無い神》を同時にみとめつつ《有る神》派に立つことは 可能である。そのぎゃくも 然り。  13. 《非知》からみちびいたこの《普遍神》にもとづくなら わたしたちが 《これこれなる神のみ》と暴言する・かの宗教から完全に自由になること 請け合いである。世界は どれだけ富士山の日本晴れになることか。  ☆ どうでしょう?

  • シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

     1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界 (相対・有限)      非経験の場 (絶対・無限)  2. 非経験の場とは 人間の知性という観点からは 《非知》として想定されている。    人間の現実      経験世界 (経験事象)         可知 (可感をふくむ)            既知            未知         不可知 (知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この広い意味での現実を持って生きる。それは言うなれば 《非知》へのあこがれのもとにある。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。《考える》ものである。  5‐1. むろん 《非知》はそれを われわれがおのおのあたかも生まれつき持っていたかのようなあこがれとしてただ受け容れるに過ぎない。《考える・また感じる》を超えているので 《信じる》という言葉で表わす。あこがれの園を《信じない》というのは 《信じないと信じた》ことである。    《わたし》なる人間の知性もしくは霊性      非知     = 信じる:非思考の庭      --------------      可知・不可知= 感じる:感性の原野                 考える:思考の緑野  5‐2. ブッダとなることは 経験行為である。多少は知性がついたという状態である。ところが ブッダター(仏性)あるいはつまりアートマン(霊我)は 非知なのだ。  だから 霊とも言う。だから ただあこがれとして理屈抜きに受け容れるのみである。考えても分かるわけがない。分かるか分からないかが分からない。――そのような非知として想定しているのだから。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引くその補助線である。非知を神とすると その神の霊の依り代なのである。いくら聖なるオシエだと言っても 認識知は 考えるものであって 神としてはお呼びではない。  7. ところが・かくして オシエを神として信じるという場合がある。  7‐1. たとえば非知すなわちふつうに言う神についてそれは 不可知であると見た人がいる。  けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  7‐2. 神は感じるものだというシュウキョウもある。  これは それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。補助線であっても補助線だと知っていながらも その補助線たる神しか神はないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  7‐3. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。  それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または ひとりのわれ)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張る場合。その代理人が みづからを神の補助線だと言い張り その補助線の言うことは 神の言葉であるというタワゴトにまで発展する。ローマ法王が かつてそうであった。  7‐4. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説く恍(とぼ)けたシュウキョウがある。  これは 悪しき無限に落ち入る。《未知》には 答えはない。つねにあたらしい未知が現われる。  そのようなあしき無限に落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。未知も既知もまた不可知もみな われわれが《考え認識すべき経験事象》である。これを信じるとは言わない。    8. これらすべては 神の補助線を神そのものと見なしているからには 単純にみなアポコロキュントーシスであって すっとこどっこいのアホンダラ教である。  9. われわれが顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

  • 神は信じるものではなく、感じるものである

      古来より神は信じるためのものとして人間によって作られた。 しかしいつの頃からか、人はこの神を信じさせようとするようになった。 信じるための神はこれを信じさせるために多くの人の命を要求した。 そのため世界各地で争いが起き、戦争が起き、多くの命が失われた。 それは今現在も同じである。 日本などはキリスト教国家によって2度も原爆を投下された。 ベトナムではこのキリスト教国家によって大量の枯葉剤が撒かれ多くの奇形児が生まれた。 また信じるための神イエス・キリストは多くの奇跡を用いた。 その結果この奇跡を求めて数限りないカルトが生まれた。 このようなカルトによって地下鉄でサリンが撒かれたりもした。   さらに聖書とキリスト教など信じるための神は終末思想を説いた。 この終末思想によって世界の倫理観は大きく傷つけられた。 結局のところ、信じるための神は多くの災いをもたらし、何一つ良いことはもたらさなかった。 信じるための神とこれを支える聖書とキリスト教および神学は偽りであることが分かってきた。 今や信じるための神は信じる必要はなくなった。 神は我々人間から隔たっているものではなく、常に接しているもの、信じる必要はないもの、感じることが出来るものでなければならない。 そしてその神が完全無欠であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限であるならば、それは唯一絶対なるもの宇宙の法則以外には有り得ない。 宇宙の法則を除いて如何なる神も存在しない。 これで良いのではないか。