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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:意識の中に「自分」は存在するのか?)

意識の中に「自分」は存在するのか?

VIVIDNESSの回答

回答No.10

 もしも、「自分」が「無」であると意識するならば、そのように意識している『自分』は、いかなる存在として定義されるのでしょうか。「自分」が存在しないことを疑うならば、その疑うという意識作用の中に、まさしく『自分』の存在が見出されるのではないでしょうか。つまり、『自分』とは、意識そのものなのではないでしょうか。  さらに、この『自分』の存在証明に着目してみます。ここでは、「意識した」ことによって「自分」が見出されているのではなく、「意識した」という「自分」を『意識した』ことによって、『自分』の存在を明らかなものとされているのです。  この自己認識は、実は、このような存在証明の占有する領域のものではなくて、我々が日常的に行っているものだと思います。実際に、kunobouさんが言うように、「よく考えると、集中して考えている時、その自分を意識していないのである。あとから、思い起こして、『あの時は、集中して考えていたな』と認識できるぐらいである」ということは、しばしば見られることです。「意識した」ということは、「意識した」ということにほかなりません。「意識した」ということから、自己の存在が明らかなものとされるためには、「意識した」という「自分」を『意識した』という状態がなくてはなりません。  したがって、我々は、ある意味では、直接的に「自分」を認識することをしていないように思えるけれども、やはり、直接的に「自分」を認識することをしていると言えます。つまり、「自分はあるか」という直接的な認識を立てたとしても、結局は「意識した」という「自分」を『意識した』という、間接的な方法で自己認識が成されてしまうように思える。ところが、その間接的な方法とは、確かに、間接的な方法のように思えるのだけれども、それ自体として取り出してみれば、やはり認識そのもの(=直接的認識)なのだということなのです。  

noname#136007
質問者

補足

. 回答ありがとうございます。 (長文のためが、回答者へのお礼の欄から拒絶されましたので、ここに書かせていただきます。) 先にお断りしておきたいのですが、自分は回答を持ち合わせていません。 疑問を持っているので、ここの質問スレッドで、問いを出しているのです。 ですから、これから述べることも、思考を深めるための材料の提示という感じで受け取って下さい。 VIVIDNESS さんと、何度か意見を交わすうちに、お互いの思考が深まることを期待しての提示です。 まず、一つ目です。VIVIDNESS さんの、 >つまり、『自分』とは、意識そのものなのではないでしょうか。 の趣旨は、デカルトの「我思う、故に我あり」と同じ事を言っていると考えていいのでしょうか? 仮に、そうだとして、話を進めます。しかし、デカルトの、この言葉は多くの哲学者から非難されているんですよ。 wiki 我思う、故にわれあり http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A (一部抜粋) >後世への影響 >以後の哲学は現代に至るまでこの影響を色濃く残しており、 >同時に、それに対する批判もマルティン・ハイデッガーなどから生まれている[要出典]。 >現代ではしばしば、デカルトのコギトの存在確立が近代の幕開けとなったといわれ、 >ポストモダンなどの見地から様々な形で批判されることがある。 >しかし、一般に大陸合理論の立場からいえば、デカルトの命題は自我の存在を証明する推論ではない。 >例えば、哲学者ガッサンディはデカルトの命題を、「(1)全て考えるものは存在する、(2)私は今考えている、 >(3)ゆえに私は存在する」という三段論法と異ならないと指摘する。 >そして、デカルトのコギト命題はこの三段論法の形式に則っておらず、雑であると難ずるのである。 >アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』の中で、デカルトの発言は不徹底である、 >厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、故に我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。 >確かに、cogitoを論ずるときには、それが単なる「私」ではなく「考えるところの私」もしくは「私は考える」の意味であることを忘れてはいけない。 つまり『自分』=「意識そのもの」には、ならない、 思索の飛躍がある。その間を緻密な思考で埋める必要がある。とか、色々言われているのです。 つぎに、二つ目 >その疑うという意識作用の中に、まさしく『自分』の存在が見出されるのではないでしょうか。 これには、僕は、次の様に解釈できる余地もあるのではないかと思います。 例えば、芸術作品を見ます。絵画、文学作品、音楽、でも何でもいいのですが、仮に音楽を聴く場合を想定します。 音楽作品のなかに、作者の個性つまりは、作者を見いだせます。しかし、音楽作品=作者ではないとも言えると思うのです。 最後に、一つ(三つ目) 仮に、意識を「自分」とします。それじゃ、意識がない時「自分」の存在もなくなる。となります。 寝ていて夢を見ている時はどうでしょう。 寝ている時は、意識はありません。(この場合というか、全体を通して、意識は潜在意識を意味しています。) 熟睡している時、その本人を激しく揺り動かしても、反応が無い場合が多々あります。 じゃ、意識はないが、生命活動をしている、この人は、何者なのか? 夢を創出している主体は何なのか? 「意識=自分」と「意識の無い(寝ていて夢を見ている)主体」との関係は何なのか? との疑問が生じてきます。 回答にはなっていませんが、自分も答えを探している最中です。 これを、VIVIDNESS さんに、考えて回答いただければ、僕の疑問の回答への大きい道しるべになると思います。 回答、宜しくお願いします。 .

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