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他者の意識の存在を確かめることはできないのでは?

心の哲学の議論を見ていると、他者には意識があることが前提として語られています。 自分の意識が存在すること、これは確実です。しかし、他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。そんな不確実な「他人の意識」というものを前提として議論が進められる「心の哲学」に、私は疑問を持っています。皆さんはどうお考えでしょうか。よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.10

 傘寿に突進している老齢のせいかすぐ忘れますので、他のご回答を読む前に書かせて頂いております。投稿を終了してから拝読いたします。 ○ 屁理屈みたいですが、補足をお願い申しあげます。  1. 他者の意識の有無の確認ですが、その仕方や内容において、自己の意識の有無の確認と同じでなければならないでしょうか?  2. 自己の意識の有無の確認はどのように行い、どんな確認ができているのでしょうか?  3. 他者の意識の有無が不確実であるということは、具体的ご経験でしょうか?それとも思索による気づきとしての、普遍的経験や理論でしょうか?  4. ご質問では哲学の議論としておられます。哲学の議論についてのみに問題になることなのでしょうか?  4-2. 他者の意識の存否は哲学の議論の他は、問題にする必要はないのでしょうか?或いは他の面においては存否が確認されているのでしょうか?  5. 哲学の議論において、他者の意識の存否に疑念を持もたれたご経験やご認識をされたことがあるので質問されているのでしょうか?   それとも理論的に、或いは思考により疑念がおきた、ということでしょうか  6. ご質問者さんは、哲学の問題や投稿においては、他者の意識の存否を意識的に念頭においておられるのですか?   同時にご自分の内面としての思索・思惟に自己をおいておられるのですか?   (その念頭に置くこと、自己の内面思索に置くこと、その仕方は自己性において大きな意味があるかも知れませんね。) ○ 私見  生理や肉体で個別になっている、私たちの各個の意識って、以外に共有的であると存じております。意識の共有がないところでの議論は成立しないでしょうね。  そういう中での自己と他者だと存じております。時にはその共有性や存否についての確認と、創成は必要とされることですね。  私は一端的ヒンドゥの哲学の片端をかじっています。意識は個々の生体よりも創成している意識の中にあり、そこから、多数の個別意識が樹木の葉やガス管に繋がるガスレンジのように噴いてきているのであると、存じます。  以上のように思っておりまして、上記の補足のお願いを致しました。どうか勉強させてくださるようお願い申しあげます。

taka-kazu
質問者

お礼

意識が共有的とは始めて聞くご説でした。それは自己と他者の思考がどこかでつながっているということなのでしょうか。それとも、自己と他者は何かに対する共感という形でつながっているということなのでしょうか。捕捉に書き忘れたのでここに書いておきます。 私はインド仏教哲学に興味があるので、それと関連しているヒンデュー教の哲学にも興味があります。 >>意識は個々の生体よりも創成している意識の中にあり、そこから、多数の個別意識が樹木の葉やガス管に繋がるガスレンジのように噴いてきているのであると、存じます。 という一文は、意識についての新たな側面を感じさせるものでした。 ご長文によるご質問とご回答、ありがとうございました。

taka-kazu
質問者

補足

多岐にわたるご質問、ありがとうございます。さっそく答えてみます。 1私はそもそも他者の意識の有無は自己の意識の有無と同じような方法では確認できないものと考えています。よってこの質問には答えることはできません。 2これが一番の難問です。私の意識はクオリアを伴って、いまここに現われているように思えます。しかしそれを何らかの基準で確認することはできません。確認するためには、私の存在を判定する、超越的な存在が必要になりますが、それを私が確認することが不可能だからです。私の意識があることは「あるように思える」としか言いようがありません。 3思索による気づきとしての、普遍的経験や理論にあたります。私は他者の意識というのは原理的に確認不可能なものと考えています。 4これは哲学についての議論です。たとえばこれが物理学、心理学的な「他人がものを見ている時に、脳内ではそれに対応する神経反応があるか」という議論なら、単純に脳を調べて、確かめればいい話です。しかし、意識というのはそのような科学的な測定が不可能な存在なので、哲学の問題です。 4-2先に述べたとおり、意識は科学的な測定が不可能な存在であり、哲学以外の議論ではとらえられるものではないと考えています。 5質問の意味が分かりません。「哲学的の議論において」と「理論的に、或いは思考により」の違いを説明していただけませんか? 6前にも述べたとおり、他者の意識の存否は確認不可能なものと考えています。なので、他者の意識の存否は念頭に置いていません。また、 >>ご自分の内面としての思索・思惟に自己をおいておられるのですか? という質問については、イエスです。自身の意識を念頭に置いて考えています。 ちなみに私の言う「意識」とは、五感による表象(知覚表象、触覚表象など)や意志表象、想起表象などの諸表象の相互連関のことを指します。 また、私の哲学観は西田幾多郎の「善の研究」や、仏教の唯識哲学、西洋の唯心論、独我論に近いです。外界や他者、客観というものの存在は確認することはできず、それなりに確かに思えるのは、五感による表象などの諸表象を伴った私という人間の意識そのものだと考えています。

その他の回答 (17)

  • pupurpu
  • ベストアンサー率15% (29/192)
回答No.18

認識してるかしてないか、またどの程度大事であるかを質問すればいいと思いますが、あまり認識してなければ、あやふやな答えにもなるでしょう。  そもそも人は遺伝子で規定されてない規則というものを守ってますが、これは意識してやるということで、それができなければ意識していないということになると思います。簡単な答えですいません。  そもそも規則などは罰がなければなんでもするというのが人だと思いますから、赤信号などで止まってる車を見るとよく練習したなーと思います。とまるのが当たり前なら信号無視は機械的遺伝子的に0なら納得しますが、やはりそこに、意識してやってる。という個人的な人間観と個人的な考えです。

回答No.17

 回答番号:No.10 におけるご対応に対して:  5 質問の意味が分かりません。「哲学的の議論において」と「理論的に、或いは思考により」の違いを説明していただけませんか?  投稿者⇒「哲学的の議論において」というフレーズは、taka-kazuさんがご質問の文章で出しておられます。そういうことにおいて、他者の意識の存否について疑念をもたれたのですね、という確認の意味でした。  更にしいて言えば、どのように存否に疑念を持たれたのか、そのご経験や契機がありますか?そのことでの理論認識の一端は、ご披瀝いただけますか?というお願いです。ということでしたが、補足などの後半においてその事に関するご説明がありましたので、よくわかりました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.16

哲学素人としての単純な感想です。 >他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。 :私たちがコミュニケーションしようとし、コミュニケーションできたという経験さえあれば、それは他者に意識があったことにならないのでしょうかね。 (たぶん)非常に初歩的な疑問で申し訳ないのですが、とりあえずそう感じました。   

  • riddle09
  • ベストアンサー率32% (105/320)
回答No.15

三度♯2です。 わたしが言っている「他者」とは、単に自分以外の存在のことです。 人間にも限りません。それこそ犬猫でも構わない。 周りの世界を認識している「自我」があって、その世界における 「自我」の存在範囲(または「うつわ」)を「自分」と定義します。 「自我」はまた、「自分の意識」と言い換えることが出来るかも しれません。 さてこの世界には、「自我」の認識によると「自分」以外の「他者」が 存在しているようです。またそれらの「他者」もみな、「自我」と 同じようにそれぞれの「意識」を持っているように思われます。 しかしそれらは全て「自我」が認識しているに過ぎず、それぞれの 「意識」が存在する事も、「意識」を持つ「他者」が存在する事も、 それどころか「自分」やこの世界が存在する事すら、客観的に証明 するのは不可能なので、もしかすると全部「自我」の幻想に過ぎない のかもしれないのです。 逆に、その部分(「自我」の認識しているものは全て存在している)さえ クリアしてしまえば、「自分」と同等の「他者」が存在するのだから、 それらの「他者」にもそれぞれに自我が存在するのは必要充分条件と 言えます。つまりこの「他者の意識は存在するのか」という命題は、 私にとっては「自我が認識している世界は客観的に存在しているのか」 という命題に等しいのです。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.14

2つ疑問があります。 「意識」が存在することは確かだと思いますが、それが、「自分の意識」だと言えるかどうかそこに疑問があります。「意識そのものは、既にそこに在るものであり、自分で創ったものではないし、自分では如何ともしがたいもの」だと思います。「意識」は目の前にある「石」と同じで、それを「自分のものだ」と言い張れば、そう言えないことはないですが、本来はそれは「自分のもの」ではなく、「天のもの」ではないかと思います。 他人の意識を前提にしている「心の哲学」が具体的に何を意味しているのかは、よくわかりませんが、逆に他人の意識を前提にしない「心の哲学」というものが現実に可能なのかどうか疑問に思います。それは、観念的には可能かも知れませんが、現実的には不可能に思えます。 すなわち、目の前にいる人を「意識の無いもの」として受け止めることは現実的には不可能だということです。

  • dsu323
  • ベストアンサー率0% (0/13)
回答No.13

「意識」について、哲学・心理学であれば、多彩な視点(=回答)が出るので驚きです。それぞれの「主張が、言葉による定義」を踏まえているので、議論に参加する理解力もありません。医学的には、他者の「意識の消失(=死)」を確認できないけれども、「死の結論(決断)を下し、証明する必要」があるので、「脳波、瞳孔反射、呼吸、心音」などを確認するわけですよね。哲学的には、「多種類の意識」に分類されているのかもしれませんが、単純に「存在」という点では、「意識が存在するか、しないか?」は、「生命が存在するか、死んでいるか?」だと思うんですが?さらに、「他者の脳波が、フラットになる」場合には、「客観的に、脳死が宣告」されます。「他者の意識状態(睡眠か覚醒)も、客観的に、脳波」で確認できます。ただ、聞き耳を立てるだけで申し訳ありませんが、この質問に関連して、「意識の形成機構(メカニズム)」に言及する「新見解の回答」が登場しないかどうかに注目しています。

回答No.12

哲学的には「他者の意識の存在は証明できない」という論調が主流のようですね。 当方は「存在の証明」にはとんと興味がありませんから「確かめる」方法を考えてみました(というか殆ど考えてない。まぜっかえしてるだけ)。 身近な人をとりあえず一人用意します。欲をいえばあなたを心底恨んでいる方が望ましい。 で、その方にこうお願いするのです。 「あとで文句言ったりしないから、思いっきり殴ってくんない?」 相手が実行したら、少なくともその行為の結果もたらされた「痛み」によって、他者の意識の存在があることを「確かめられた」とは言わないですかぁ。 証明しなくても確認できればいいんじゃないですか? (えっ、思弁的な確認を聞いている? 失礼しました~(^^)/)

回答No.11

 回答番号:No.10、現時点でのみなさんのご回答と質問者さんのご返事を拝読しました。  やはりご回答者の指摘は正鵠を得ていると存じます。  要するに質問者といわれている一主格的存在は何か。  それは意識を持っている、というなら持っている存在は何か。  そして自分というのをどう説明するか。  そして自分だというものは何か。    むしろ自分というのは考え、知覚し、経験し、認識し、判断している諸々の経験とその結果、内容なのか。  それともそれをしているある存在なのか。  そのある存在は、質問者からは他者という我々に出なくていいので提示できるのか。出来ないのか。  できないなら、あれとか、これとかいう指し示しや、こんなものということはできないのか。  そういうことが、今までまともな宗教が何とかいおうとしてきたことでもあろうかと存じますが、インテレクチュアルを標榜する哲学のカテで、質問者さんに片鱗を提示していただければ幸甚です。

taka-kazu
質問者

お礼

kryaさんが言われているように、意識についての私の説明が足りなかったです。さっそく補足してみました。 ご指摘ありがとうございます。今後の議論のたたき台にしたいです。

  • riddle09
  • ベストアンサー率32% (105/320)
回答No.9

ふたたび♯2です。 私が言いたかったのは、他者の存在自体が客観的に証明できないので、 存在すら定かでない他者に意識があるか確かめることなどできるはずも ない、ということです。 例えるなら、「隣の家の猫は黒猫だ」と言い張る相手に、「隣の家に 猫がいることが証明できなければ、それが黒猫かどうか議論すること さえ無意味だ」と言っているようなものです。

taka-kazu
質問者

補足

二度にわたる補足をさせてしまい、申し訳ありません。 riddleさんの議論の筋は了解しました。 >>他者の存在自体が客観的に証明できないので、 >>存在すら定かでない他者に意識があるか確かめることなどできるはずも ない、ということです。 この一文が簡潔にご主張を伝えていると思います。 私が伺いたいたかったことはriddleさんの言うところの「他者」とは何を指している概念なのかということです。 「他者」というのは1.単に自分以外の人間のことを指しているのでしょうか。それとも、2.自分と同様の意識を兼ね備えた自分以外の人間を指されているのでしょうか。 私が読むところでは、riddleさんの「他者」とは、2のことを指すように思えます。そうだとすれば、 「存在が証明されてすらいないもの(=他者)に意識があるかどうかを議論する事は」 という文は 「自分と同様の意識を兼ね備えた人間に意識があるかどうかを議論する事は」 となり、同語反復になってしまいます。ということは、他者とは2ではないということなので、「他者」が何を指すのかわからなくなってしまいます。そこで、「他者」と「他者の意識」の区別についてお伺いしたわけです。 間違いをご指摘していただけると幸いです。よろしくお願いします。

noname#194289
noname#194289
回答No.8

漢字の存在という言葉ですが、在の方は空間的存在、存の方は時間的存在を意味するという話を聞いたことがあります。西洋科学の方法論で在の方は簡単に扱えますが、存の方は手に負えていないのではないでしょうか。かといって本家の中国やインドが西洋化に血眼になっているので案外日本にだけ時間的存在の概念は現存しているのかもしれません。日本でもほとんどの人が自我意識(俗にいう心)の存在なしでも生きていけると考えていると思います。本当は(人間として)生きているということは自我意識があるということだと思うのですが・・・

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