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認識者を想定しない「客観的実在」とは?

serpent-owlの回答

回答No.16

 んー、なんか爆走している「心の哲学」の最近の流れにかぶるような質問ですね。(って、飛び火したりして…)  ちょっと思いますのはですね、「客観」という言葉と「普遍」という言葉の、重なる部分と重ならない部分とを考えておく必要がありそうだ、ということです。「客観、必ずしも普遍ならず」と。  「客観的に正しい」という言い方は、「誰が見たってそうじゃん」という感じで、もお、めちゃめちゃ正しいやんけとゆー意味合いで用いられることが多いです。特に自然科学や数学の世界での「客観的」って、ほぼ「普遍的」という意味に重なるでしょう。mori0309さんの数学カテでのご質問にも、そうした視点からの回答が多かったように思います。  「普遍」という言葉の辞書的な意味で言えば、それは「時・所に関わりなく、遍く妥当する」ってことです。これが硬い意味における普遍。(文学的な局面で「普遍」というとまた違った意味合いも出てきますが、それはここでは置きましょう。ぽいっ!)  そういう意味で「普遍」を捉えておきますと、「客観即普遍とは言えない」事例がいくらでも出てくると思います。例えば「ここに薔薇がある」とか。これは「ここ」じゃなけりゃ妥当しないし、過去や未来に妥当するかも保証していません。仮に「今、ここ」で客観的に真であったとしても。  一般に、時空間の「中で」現象として現れている「客観性」は普遍的ではないと思います。それは主観との相関関係において客観的と「される」ものであろうと。時空間の中で主観が「経験」することを通じて、初めて構成されうる認識としての客観性です。これが個人の経験を超えて、より多くの人々に共有されるようになると、同意を介した「共通認識」という意味での客観性にもなりましょう。で、もうちょっと言ってしまうと、ここでの「客観性」という言葉は「間主観性・相互主観性」という言葉に置き換えられるべきです。  ところがぎっちょんぱっ。  「科学者はんが仰る法則やら何やらの客観性かて、こないなもんでっしゃろ?」ゆーたら、科学者はん、怒りまっせ。「人間なんかおらへんでも、それはあるんやで!」言わはるに決まってます。  ああ…やめよう、インチキ関西弁は。  ここで科学者さんが言うことは正しいと思います。科学の世界で「発見」の対象となるような法則や定理は、「ベールに隠された形で、自然の中にあらかじめ横たわっていたもの」と考えるべきでしょう。(もっとも、カントに言わせると自然法則も「人間の立法による」となりますが、ややこしくなるのでこれも置きます。ぽいぽいっ!)  「直角三角形の斜辺の2乗は、他の辺の2乗の和に等しい」ということは、別にピタゴラスがいてもいなくても宇宙が始まったときからそうだったんです。太陽系惑星の運行を司る法則だって、チコ・ブラーエやケプラーがいてもいなくても太陽系が始まったときからそうだったんです。e=mc^2だって、e^(iπ)=-1だってそうです。あらかじめ宇宙の中に、自然の中に、それはあった。それをたまたま、ピタゴラスやケプラーやアインシュタインやオイラーが「発見」したのです。「客観的にあったものを拾い上げた」。百円玉を拾ったり、犬の雲恥を踏んだりするのと同じことです。  こういうものは「客観的かつ普遍的」と言ってよいでしょう。硬いです。とても硬い。一ヶ月つき固めた雲岩くらい硬いです(えと…わかんなくていいです、これ)。  でもね!  …おっと、へびくん電波が漏れました。しかしですね、です。  こういう局面で言う「客観的かつ普遍的」という意味での客観性は、時空間の「外に」ございます。いやいや、「ございます」とはもはや言えないものです。「存在」とは言えない、抽象的な原理であるからです。  ケプラーの法則は太陽系惑星の運行を説明しますが、「今」における諸惑星の位置を直接物語るものではありません。数値を代入すれば答えは出ます。百年後だろうと、千年後だろうと。  ピタゴラスの定理だって、実際に図を書いて証明の手助けにはしますが、かと言って実際に辺の長さを物差しで測って計算して「証明したよ」と言ったらバツでしょう。いくら正確に作図したとしても。図を手助けにしたとしても、あくまでも「証明」はイデアの世界でロゴスによってなされねばなりません。現実の、言い換えれば「時空間の中で経験可能な三角形」なんて、アテにならないからです。  数学者や科学者が「発見」してきた法則や定理は、特定の時間・空間や物質的実在性を捨象して、それらを超越した次元に置かれています。誰かが触れようと触れまいとおかまいなしに、それ自体で完結して。  さて、少し話は飛びますが、今から七、八年ほども前でしたでしょうか、「物理学に終焉はあるか」という議論がありました。「物理学は完結し、それ以上の探究を終えるか」という論争です。…私には五歳ほど年下の「カオス道の師匠」がおりますが、思えばその入門の始まりはそのことに関する私の質問でした。  師匠の答えは、「要素還元主義的な意味では終わることもあるでしょう」とのことでした。「大統一理論」とか、よくは分かりませんが、そうした「究極の理論」が完成すれば、「自然の中にあらかじめ隠された、客観的かつ普遍的な原理」は拾い尽くされるということです。  が、師匠は「要素還元主義的な意味では」との限定を付しておられました。「それだけでは実際の物理現象は説明しきれない」。そこに還元しきれない現象が「カオス」というわけです。太陽系の惑星たちも、厳密に言えばケプラー法則通りではない「多体問題」に揺らいでいます。特に小惑星は。解析的に解くことのできない、すなわち「法則」として定式化できない、したがって原理的に予測不可能な「揺らぎ」です。現実の時空間の「中」では、こんなことがある。  ですから、「客観的かつ普遍的」な原理には無論大きな価値があるものの、「現実」を説明する仕方としては、それだけでは万全とはいえないのです。  というわけで、自然科学での法則・原理には「認識者を想定しない客観性」が認められると申せましょう。  そして「認識者を想定しない客観的《実在》」ということになると、法則や原理は「実在」とは申せませんので除外。…すると、地に埋もれた鉱石や未発見の新種生物がそれに当たりましょう。しかしながら、これは「決定不能」です。せいぜい、あると「推定できる」くらいのことしか言えません。なぜなら、それが発見されて初めて「やっぱあったじゃん」と言えることであって、果たして発見されなかったならば、それは「存在しなかった」ということと同値だからです。そういう意味で、時空間の「中に」あるものに関しては、やはり主観による経験の枠内にあるとしか申せません。  そういうことだと思いますが、いかがでしょう?

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