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認識者を想定しない「客観的実在」とは?

noname#8665の回答

noname#8665
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回答No.15

他のところにかかずらわっていて出足がおくれました。 >科学的な計測装置でとらえられないものは内的観念にすぎない >ということになると、民族・国家・法律・資産などといった >ものも内的観念にすぎないということになってしまうのでは >ないでしょうか。(事実、共同幻想なのですが) ふむむむ。これは話を広げ過ぎって気もしないでもないですが、 「色即是空、空即是色」なる巨大なお題目を持ち出しといてここで逃げたら あきませんな。つーことで「民族・国家・法律・資産」がいかに危うい観念であるかの解説。 1)民族 一般にはある種の人種的特徴を身体に持った人間のグループと見なされてます。 ですから、DNAの科学的解析が進めば、人種の科学的計測が可能になるやもしれません。 あくまでも仮定の話ですが。 しかし、知ってました?ユダヤ人って人種は存在しないんですって。 ユダヤ人ってのはそもそも「ユダヤ教を信じる人」って括りなんで、生物学的にいうところの 「アーリア人」とかの括りとかとは別個のものなんですって。 つーわけで、民族の物理的解析はやや困難。 ていうか、民族のつながりとか感じてる日本国籍の人ってすくないんじゃないかな? ん?●●県人会とかってのは民族意識か?あと民族主義右翼とか? つーか、「●●で生まれた」とか日本人だとかの理由で一致団結って難しい。<特に日本人 アメリカ人ってアメリカに誇りとか持ってるみたいだけど、あれ民族じゃないしなぁ。 てことは条件をうまく与えれば民族って意識は与えられるのかも? つーか、アメリカ人の人種差別の凄さは民族の結束の証か? だったら肯定したくないなー。<感情的 いずれにしろこんなもん、誰も見つけていないどっか遠くの惑星の存在の確かさには及ばない。 2)国家 物理的解析不能な理由は解説する必要無いか(笑) これぞ共同幻想。さてはて、日本国に属しているという意識を強くお持ちの方がいかほど いるのかがそもそも怪しいところ。パーセンテージは低そうだ。<かくいう僕はそのへん0です。 ところで、矢沢永吉はアメリカのどっかの市の名誉市民だとか聞いたことがありますが、 彼は何人なんでしょうか?そもそも、黄色人種らしい??って自覚がある程度にしか 民族意識も国家意識もないんじゃないでしょうか?みなさん。<自分基準<つーか主観 この意見に根拠はないけど、この意見に根拠ある否定をかますことも難しい。 てなれば、これはその土地に住んでしまったから生じる不可避的な強制力? つまり、しがらみ。全員が無視すれば消えてしまう程度のもの。 誰にも知られていなくとも地中深く存在する宝石の存在の確かさには及ばない。 3)法律 国家の後押しを計る強制力の支持基盤。んで、これ、誰決めたの? その人ホントに正しいの?ってなことが自民党のおっさんたちとかによって年中叫ばれてますな。 えー、国のトップなのに疑ってるの~~~? とか思うとこれも怪しい。なんら絶対的なものではない。 そもそも、下々の者を都合よく働かせるために作られた権力機構の統制にすぎない。 みんなが同等の権力を持ってたら結局御破算になっちゃう。 こんなの海の底を泳ぐ名前も知らない深海魚の存在の確かさには及ばない。 4)資産 お金って数字です。よーするに。だから、これは他のより確かっぽい。 でもね。お金ってそのお金で買えるものでその価値が決まる相対的なもの。 だって、占領地で発行された軍票なんて、その国が撤退したら、何の意味もない ただの紙切れですよん。そうしてもいいように軍票って発行されるんだよね。 もしものときに無責任になれるように。あと外貨獲得ってのも目的でもあるか。 でも、なにを言っても買い物できなくなった軍票にはなーんも価値なし。 それじゃぁ、まだ発見されてない高山植物の存在の確かさには及ばない。 かように考えていくと、人間が知っているかいないかは、存在しているかしていないか とはなーんの関係もないことはいかにも当然のような気がしてるんですが。 つーことは、「観測」と「存在」は当然のごとく切り離せます。 というか、切り離せなきゃ変。 切り離せないとなると、「知ると同時に存在し始める」というわけのわからんことになります。 つーことは人間は「存在」を「意識」から取り出すってことになっちゃう。 これはいかにも変です。 蛇足 「人間原理宇宙論」とかって物理学の学説があるらしいですが、 これは最後に挙げた論理に近いと聞いたことがあります。 「観測するだけの知能をもつ生物(人間?)がいて初めて宇宙は存在するのだから、 宇宙の起源は人間の誕生からである」とかなんとか。 いまや、邪道扱いだって聞いたような気もしますが、さて、どうなんでしょうかね??

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