江戸時代の幕府御用達商人とは?御用達商人の決め方や発行物について知りたい

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の幕府の御用達商人の決め方や選定方法については諸説あります。一般には商才や実績、信頼性などが考慮され、幕府が任命したと言われています。同業者を複数選ぶこともあったとされています。
  • 幕府の御用達商人には任命書が発行されていました。この任命書は幕府の奉行所が出していたとされています。また、任命書のことを「御用達状」と呼ぶこともありました。
  • 御用達商人が城に登城する際、通行手形のような物が発行されていたとされています。この通行手形は「内之状」と呼ばれることがありました。
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江戸時代、幕府の御用達商人はどう決まったのか、幕府から御用達商人を証明する物は発行されていたのかについて質問です。

江戸時代、幕府の御用達商人について以下の三点を知りたいと思っています。 ご存知の方、お教えいただければ嬉しいです。 1.御用達商人はどのように決められていたのでしょうか?  また、同業者を複数選ぶようなこともあったのでしょうか? 2.御用達商人の任命書のような物(書状)が幕府から発行されていたようですが、幕府の何という部署が出していたのでしょうか? またその任命書は何と呼ばれていたのでしょうか? 3.御用達商人は、御用を聞いたり、品物を納めるために登城したと思うのですが、その際、城に入るための通行手形のような物は発行されていたのでしょうか? 発行されていたとしたら、それは何と呼ばれていたのでしょうか?

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回答No.1

こんばんわ。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、正式には「御用商人」と呼ばれました。 「御用達商人」とは、明治以後、宮中への出入りを許されたり、商品を収めたりする人たちを指しました。 >>1.御用達商人はどのように決められていたのでしょうか? (1)大きな店構えをしていて、品数も豊富で、武士や庶民から信用されている「大店(おおだな)」と呼ばれる人たちが選ばれました。 (2)老中とか側用人の屋敷に出入りを許され、それ相応の信用のおける、と思われる「店」などが選ばれました。 (3)従って、そうした利権を得るために「賄賂」が横行しました。 (4)かの有名な「紀文(きぶん=紀伊国屋文左衛門)でさえ、当時の側用人柳沢吉保に「賄賂」を贈り、御用商人になっています。 >>また、同業者を複数選ぶようなこともあったのでしょうか? (1)取り扱う商品により、基本的には1軒でしたが、「表向き御用」と「奥向き御用」とに分かれていました。 また、場合によっては、「御本丸御用」「西御丸御用」「奥向御用」とがそれぞれ1軒ずつの場合もありました。 (3)しかし、幕府も安定してくると(主に、元禄時代頃以降)、同じような商品を扱う大店に数軒で競い合う・・・つまり、現代の「入札」のようなことも行われました。 (4)また、材木商などでは、寛永寺の修復と東照宮修復が同時進行するような場合は、それぞれに選定されました。これも「入札制」でした。しかし、現代でもそうですが、「談合」が堂々と横行しました。 >>2.御用達商人の任命書のような物(書状)が幕府から発行されていたようですが、幕府の何という部署が出していたのでしょうか? またその任命書は何と呼ばれていたのでしょうか? (1)発行部署は「勘定奉行所」でした。 (2)任命書のことは「鑑札」と呼ばれました。 3.御用達商人は、御用を聞いたり、品物を納めるために登城したと思うのですが、その際、城に入るための通行手形のような物は発行されていたのでしょうか? 発行されていたとしたら、それは何と呼ばれていたのでしょうか? (1)御用を聞きにお城へ行く時は、門番に「鑑札」を見せて通してもらいましたが、何度も出入りするうちには、門番も御用聞きの顔を覚えてくれて、いわば「ノーチェック」でした。店側もお城の担当者を1~2名と決めていました。 (2)また、品物を運び込む時は、商品が多い場合は「御本丸御用者」などという小さな「幟(のぼり)」や「木札」を立てて運び込みました。 (よもやま話) (1)御用商人は、商品を売るだけの店もありましたし、「蔵元」「掛屋」「札差」などの商売の人たちも「御用商人」と呼ばれました。 (2)「蔵元」・・・江戸や大阪などの「蔵屋敷」に出入りし、蔵物の出納をつかさどった商人。掛け屋を兼ねる者も多かった。 (3)「蔵屋敷」・・諸大名が年貢米や特産物を売りさばくために江戸・大坂・大津などに設けた、倉庫と取引所を兼ねた屋敷。特に、大坂に集中した。 (4)「掛屋」・・・幕府や諸藩の蔵屋敷に出入りして、蔵物の処理や代金の出納に当たり、また金銭の融通や両替をした御用商人。 (5)「札差」・・・受取人の名を記した札を蔵役所の蒿苞(わらづと)に差したことから呼ばれるようになりましたが、旗本や御家人の俸禄たる蔵米の受領から換金に至る一切の手続きの請負を業務とした、浅草蔵前在住の商人に対する呼称。本業よりもむしろ旗本・御家人を対象とする高利の金融によって巨利を得たが、幕府倒壊とともに廃絶した。 (6)魚などの新鮮さが必要とされるものは、例えば、鎌倉で獲れた魚を馬で運ぶような時は、「奥向御用者」などという「木札」を馬の背に立てて、早馬で日本橋の魚河岸へ届けました。 (7)また、房総などで獲れた魚を舟で運ぶような時は、中川を通過する必要がありましたが、「中川番所」という船舶の「関所」があり、夜間は門を閉じました。しかし、「御本丸御用者」などという「旗」を立てていると、「中川番所」では特別に、夜でも通行することができ日本橋の魚河岸に届けました。

juan_sara
質問者

お礼

早速ご回答いただけて、とても嬉しいです! ありがとうございます。 分かりやすいご説明でしたし、拝見していて感動してしまいました。そもそも江戸時代、「御用達商人」は誤りだったのですね……。勉強不足でした。 本丸、西の丸、奥向きそれぞれ指名された店などもあるとは……詳細な情報までいただけて、助かりました。 疑問点もすっきりし、大変参考になりました。 初質問でしたが、思い切って質問してみてよかったです。

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