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阿南陸軍大臣について

終戦時、陸軍大臣だった阿南惟幾大将は降伏反対の陸軍の代表者だったにもかかわらず、なぜポツダム宣言の受諾に同意したのですか? それに鈴木内閣は阿南が辞表を出して、後任を出すことを拒めば、倒閣になるわけですが、阿南はその素振りも見せていません。 (確か、部下が辞表を出せと突き上げているはずですが・・・) 結果的には阿南が鈴木内閣を守ったことになると思うのですが、 阿南も内心は終戦やむなしと考えていたのでしょうか? 終戦時の阿南陸軍大臣について詳しい方教えて下さい。

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回答No.2

 鈴木貫太郎が侍従長をしていた時、阿南は侍従武官であったという事からある程度の信頼関係があったと思われます。また二人とも政治的な中立性を持ち、天皇の信頼が厚いということも共通しています。  鈴木貫太郎は海軍出身の親米派であり、戦争終結がこの内閣の使命であり、天皇もそのことを期待していました。徹底抗戦を主張する陸軍の抑えに気心知れた阿南を陸相に迎えました。性急に講和を進めようとすると二二六事件のようなクーデターが起きる可能性もあったため戦争は継続されます。  原爆投下、ソ連参戦によりポツダム宣言の受諾について話し合われます。ポツダム宣言には天皇制の保持が記載されておらず、このことで即時受諾か、条件をつけるかで揉めます。阿南の内心については推測になりますが、天皇制の保時が保障されていないこと、陸軍内部がそれでは説得できないという事のため反対にまわったと思われます。結局、8月9日の御前会議で天皇の聖断が下りポツダム宣言即時受諾という方向に向かいます。天皇の聖断が無ければ収まらない為です。  8月10日「天皇大権を変更しないこと」を条件にポツダム宣言受諾することを中立国へ向けて発信。連合国側の回答は国体護持について確証なく、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は回答文に反対であることを奏上。阿南は陸軍省内でも受諾阻止するよう中堅将校に突き上げを食らい、クーデター計画までほのめかされます。そのため阿南も受諾阻止を奏上します。8月14日再度、御前会議を開き受諾反対の意見を述べますが天皇の発言によりポツダム宣言受諾が決定されました。会議後、中堅将校の一人に陸相辞任を要請されますが「聖断が下った」として拒否します。  推測ですが天皇が戦争終結を望んでおり、鈴木貫太郎もそのことをわかってて組閣しているので阿南も戦争終結に関しては了解していたのではないでしょうか。ただ天皇制の保持について確証なく、それでは陸軍内部を納得させられないために反対をしなくてはならなかったのではないでしょうか。陸相を辞任しなかったのは天皇と鈴木の信頼に応えたからだと思います。

dosanpin
質問者

お礼

大変詳しくご回答頂きありがとうございます。 日本が救われたのは阿南の御蔭でもあったのですね。

その他の回答 (2)

回答No.3

 ご経歴をhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BEにて拝読すると、自分の個人性やそれでの恣意的な秩序の否定をすることは許さない哲学があったようですね。  最後までともにおられた部下の井田正孝陸軍中佐がもっとも阿南陸軍大将のご真意を理解されていたことが拝察できます。  恣意性や情動を国政に持ち込まない、それは当時の軍人としては国体護持でしょうね。  吉田茂ですか、それは混乱の中で抹殺するほどのものではない。まぁ後で何かの役に働くかもしれなかろうし、と言うくらいの憐憫ではないですか。  阿南陸軍大将からみれば、小童(こわっぱ)ですね。どうってことないものを抹殺することもあるまい、と。  流れは決まった。今は国体と国民をなんとか、犠牲を少なくしたい。  それだけではないですか。  やはり同じ軍人地位ランクにおられた二人の方と二十歳代(もう50年以上前)ともに仕事をし、反体制の活動もともにしながら、公私においてご指導を頂いた中で、痛いほど阿南陸軍大将のお気持ちを理解できます。  そういう人たちを私たちのこの日本は、曽っては育てることができたのですよ。とても懐かしい想いです。

dosanpin
質問者

お礼

ご回答頂きありがとうございます。

  • nishikasai
  • ベストアンサー率24% (1545/6343)
回答No.1

詳しくはありませんが、映画「日本の一番長い日」を40年前くらいに見ました。そして阿南陸軍大臣についてちょっと調べたことがあるのですが、彼は昭和天皇の侍従だったそうです。それで天皇陛下には絶対服従でした。ご聖断が下った以上、逆らうことはできないと悟ったのです。映画では三船敏郎が阿南陸軍大臣の役を務めましたが、決まってましたねえ! しびれました。 しびれたところは三箇所です。 1.海軍が認識派で陸軍が抗戦派で、御前会議で徹底的に論戦しました。米内海軍大臣が「負けているのは事実だ」というような意味のことを述べると三船が「かかる事態はわが陸軍としては想定内のことであり、対策はある」みたいなことを述べ反論するところ。セリフははっきり覚えていませんが、「かかる事態は」と言うセリフは40年経ってもはっきりと覚えています。 2.紛糾した御前会議を終え、鈴木貫太郎総理に葉巻をプレゼントし、お詫びをするところ。武人らしいさばさばとした別れの言葉でした。 3.切腹のとき、佐官クラスの部下が「私もお供を」と言ったところ平手打ちをくらわし、「お前たちがこれからの日本を再建するのだ!」と強く戒めました。「日本の一番長い日」ぜひ見てください。ビデオになってます。

dosanpin
質問者

お礼

「日本の一番長い日」は一度見たことがありますが、白黒で生々しさが凄かったですね。

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