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最高戦争指導会議等に反対した旧日本軍の思想について

広島に 原爆が投下され,旧ソ連が 参戦し,長崎に 原爆が投下されたさ中,最高戦争指導会議や御前会議で,昭和天皇や鈴木貫太郎首相等は,ポツダム宣言受諾を決め,終戦への舵を切りましたが,何故か,阿南陸軍大臣の影で?,松坂桃李さんの出演した日本映画にもあったように,草を食み 土を噛み 野に伏しても ‥‥‥ 云々 というフレーズなどが出て来ましたが,Web上で拝見した,当時の文中の文言などにも,けっこう違和感を感じましたが,当時の旧日本軍,特に陸軍内では,かなり,人々の精神状態や,脳?の状態などが,おかしくなっていたのでしょうか?

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回答No.3

>最高戦争指導会議等に反対した旧日本軍の思想について 「思想」というものではなく、陸軍という組織の「論理」ではないかと。 1.日本特有の、権力分散型組織であること。 東條は、戦争指導のヘゲモニーを完全に握ろうとして、総理大臣、陸軍大臣、陸軍総参謀長という「三職の兼任」を実行したが、しかし陸海軍、皇族、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。これからわかるように、戦争遂行に必須の強力な権力集中構造がなかった。 継戦、終戦の決断にしても、御前会議を設け、しかも投票で決定という、他国の総統、大統領、書記長の決断とちがい、権力が分散していた。 2.陸軍の「最高責任者」は、 一応、阿南が陸相であったが、軍政トップにすぎず、軍令系統を抑えることはできない。更に、ややこしいことに、平時から陸軍三長官制度なるものもあり、「最高責任者」があいまいにして、その上昭和の陸軍に蔓延した、中級佐官の「下剋上」の風潮に相まって、戦争遂行から、終戦に舵をきるため、トップダウンの強力な指導者・機関が存在しなかった。 ★要するに、「ぱぁら、ばら」だったということ。要するに、戦争中で、穏当な「継戦」より、反発・反抗の大きな決意のいる「終戦」という決断をだれもできなかったというのが、実態ではなかろうか。

kitsunetoneko
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  • staratras
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回答No.2

ひとことで言えば、陸軍の軍人は「臆病者だと思われたくなかった」ということに尽きるでしょうけれど、その「徹底抗戦」の言動により、8月10日の御前会議のポツダム宣言の受諾の決定から8月15日の玉音放送に至る過程には、後から見れば極めて危うい状況がいくつもありました。 細川護貞氏(細川護熙元首相の父で第二次近衛内閣で首相秘書官を務めた)は、昭和20年8月17日の日記に次のように書いています。(以下引用は「細川日記」中公文庫版 下巻) 扨て、聖上御放送の前後、軍は全力全軍を挙げて、方針の転換に反対し、阿南の如きは木戸内府に対し、戦争の継続を薦め、木戸内府より、然らば戦争継続の成算ありやと反問せられて、「是なし、然れども大義存すれば、日本国滅亡するも亦宣からん」との暴言をはく等のことあり、然し乍ら斯の如き考へは、全陸軍上下を通じての考へなり。嗚呼、何が大義ぞ!又、阿南は今月始め、石渡宮相を訪ね、「陛下の思想は平和主義であり、自由主義であらせられる。是を御変へする様、側近を取り替へねばならぬ」と語りたる由。石渡氏が軽井沢に来ての話なり。口に至尊の御親政を唱へ乍ら、自分等に都合悪き時は、ロボットと為し奉らんとする。是亦全陸軍軍人の常套語なり。(引用終わり) もちろん阿南陸相にも言い分はあり、戦争の継続を図った陸軍の一部将校らの暴発に賛同せずにこれを退けた行動などは正当に評価されるべきだと考えますが、重要なことは終戦直前の時点において、陸軍は天皇とその重臣と言われる人々の信頼を失ってしまっていたということです。戦争は始めるよりも終わらせる方がずっと困難であるという教訓を改めて痛感します。

kitsunetoneko
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  • SI299792
  • ベストアンサー率48% (715/1477)
回答No.1

>精神状態や,脳の状態などが,おかしくなっていたのでしょうか?  それはあると思います。勝てる相手でないことは最初から分かっていました。「反対できる空気ではなかった」という証言がありました。当時は、空気を読まない人がいなかったので、戦争になったと思います。 「草を食み 土を噛み 野に伏しても」戦争中だから、下の兵士にそう教えるのは当然です。  第二次世界大戦には、いろいろな見解がありますが、これはその1つだと思ってください。私の個人的見解ですが、覚悟は上層部もあったと思います。但し、勝つためではありませんが。  原爆が落とされたから日本は降伏したと言われ、ほとんどの人はそう思っていますが、違います。また、無条件降伏と言われていますが、日本は条件を出しています。  既にに日本は壊滅状態で、原爆が落とされる前から降伏しようと動いていました。しかし、アメリカは原爆の宣伝と実験のために、日本に原爆を落としたいと考えてました。(日本はイエローモンキーの国で、人間はいません。イエローモンキーなら、どれだけ殺しても良心の呵責はないし、実験動物として理想的です。また、天皇>全国民 というイエローモンキーの生態も研究していました。)それで、日本が絶対に飲めない条件を出しました。天皇制について言ってきたのです。天皇がどうなるかわからない、戦犯として処罰される可能性があるなら、何があっても降伏できません。  原爆を2発落として、満足したアメリカは、日本が出した唯一の条件「天皇制の維持」を飲み、日本は降伏しました。もし、この条件をアメリカが飲まなければ、原爆が何万発落とされようが、最後の2人まで戦ったと思います。

kitsunetoneko
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