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デカルトの「物体の延長」

質問はタイトルについてなのですが、端的に言いますとデカルトの 延長に代わる物質のもっとも一般的な概念を考えてみたいのです。 デカルトは物体が占有する長さ・幅・高さを「物体の延長」と呼び、「私の存在」と同程度に理性が明晰判明に理解できるものだと考えたそうですが、このため真空の存在を否定することになりましたよね。 その後の科学の世界を踏まえた上での、上述の質問のような概念を今考えています。 皆さんのご意見をお聞きしたいです。

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回答No.1

回答になっているかどうかは、わかりませんが、参考までに、現在の物理学的な「真空」概念について。。。 1.物理学的に「真空」という概念は、以下に述べる概念に基づき、そこにおいて両側の世界が分断されるようなもの(たとえば「無」とします)ではない。 2.宇宙全体が一つの時空連続体として「存在」している「塊」として考えるなら、その内部にある「もの」を「完全に切り分けて」考えることは不可能。 3.なぜなら、二方向に分裂して飛んでいく量子は、「空間」を隔てて「まさに一塊」として扱われるべきであることが示されているし、 http://nucl.phys.s.u-tokyo.ac.jp/sakai_g/epr/ 4.また、「真空」内部には無数の量子レベルの揺らぎが内在されている(たとえば、「カシミール効果」など) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A9%BA 5.さらに、エネルギー保存則など、「真空」であっても「物質内部」であっても、「時空連続体」内部の性質として記述可能な法則は、その基本に「対称性」があり、ネーターの定理と呼ばれる数学的な法則と密接に関連している。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa316948.html 6.したがって、「時空連続体」が分断されているような「無」が介在しているとすれば、その領域をまたいだ「対称性」は保たれ得ないが、「真空」と呼ばれる領域は、まさに、そういった「対称性」を保つような性質を含有する「空間」として「存在」している。 以上です。

shin-mind
質問者

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