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デカルトが「すべては夢である可能性」を乗り越えた手法

こんにちは。お世話になります。 デカルトは方法的懐疑により「全ては夢である可能性」を疑ったとのことですが、デカルトは「全ては夢である可能性」を、どのような手法により乗り越えたのでしょうか。 「明晰かつ判明なものは確実に存在する」 「誠実な神が私を騙す訳がない」 「コギト・エルゴ・スム」 等までは理解できるのですが、これらの論拠から「夢説」を乗り越えるに至る過程が理解できません。 宜しくお願い致します。

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回答No.3

デカルトは最初にあらゆるものを疑います。 「考えている自分」も疑ってみる。 夢のなかで考えているんじゃないか、と。 この部分、『省察』にはこんなふうに出てきます。 わたしたちが目覚めているときに持つ思考は、すべて夢のなかでも現れうる。その夢のなかの思考は真であるとはいえない。 けれども、夢のなかでの感覚が偽であるとしても、感覚をもたらすわたしたちの身体は確かに存在しているではないか。 画家が想像力にまかせて頭のなかに絵を描いたとする。 確かにその絵はほんとうには存在しない。それでも彼が使用した「色」だけは現実のものでなければならない。 それと同じように「考えているわたし」がたとえ夢のなかの存在であったとしても、「そう考えているわたし」は確かに存在している。 だからやはり「考える」ということにおいて、わたしは存在しているのだ。 と、デカルトの論理の流れはこうなっていきます。 『方法序説』ではこの部分、すっ飛んでるから、ちょっと「え?」という感じがすると思うのですが、『省察』には上記のようになっています。 ここはすごくおもしろいところです。 デカルトは最初、あきらかに存在論(わたしがある、ということは、どういうことなのか)として、もんだいを立てている。 けれども、いつのまにか認識論(わたしが考える、ということは、どういうことなのか)にもんだいは移ってるんです。 事実、デカルト以降、近世の哲学は存在論から認識論に移っていくんですね。 回答はここまで。あとはちょっと余談です。 ところで「夢」、なんでここで出てくるか、ちょっと不思議な気がしません? わたしはしたんです。その昔、『方法序説』を初めて読んだときに、夢なんて話がいきなり出てくるのがすごく奇妙な気がした。 で、家にあったブリタニカを調べてみたんです(家にあったのはカナーリ昔の版なんで、いまのは変わってるかもしれない)。 そしたらこんなことが書いてあった(細かい記憶は全然なくて、日付や地名はこの文章を書くために確認をとってあります)。 デカルトは1619年、ドイツのウルムというところに宿泊してたんです。デカルトが23歳のときです。そのころデカルトは「自然を数量化すること」について、思索を重ねながら、数学の勉強をしていた。11月10日、昼間から霊感にとらわれていたデカルトは、夜、寝てから、三つの夢を見たという。 これで、自分が数学者・哲学者になる、という啓示を得た。 へえー、夢でお告げかぁ、と思って、このことはずっと記憶に残ってました。 ご質問をきっかけに、その夢の中味が気になって、ちょっと調べてみました。 原文は英語なんですが http://www.urantiabook.org/archive/science/binion1.htm ここのなかに夢の内容が詳しく出てきます。 ひとつは、突風に煽られて教会と、風にまったく影響を受けていないような人々のほうに押しやられる、という怖ろしい夢。 ふたつめは、落雷のような大きな音が聞こえて、たくさんの火花を部屋の中に見た夢。 みっつめは、非常に心地の良い夢で、自分が一冊の「辞書」と紙の束を持っている。そのひとつは詩で「人生ではどのような道に従ったら良いだろうか?」ということばで始まっていた。見知らぬ男が詩の断片を渡してくれる。それには「然りと否」と書いてあった。 デカルトはこの夢を解釈して、「辞書」というのは、雑多な知識を意味する。自分がその知識というものを改革し、科学のもとに統合するよう運命づけられている、と思うようになるんです。 ここらへんはデカルトの夢問題として、いろいろ研究されてるみたいですが、ともかく、デカルトはこの夢を「啓示」ととらえるんです。 啓示というのは、デカルトも学んだスコラ学にとっては、「神の直接の教え」として大変重く受けとめられるものだったようです。 デカルトにとって、夢というのは、自分の出発点をなす重要なものだったんですね。 ところでデカルトが始祖とされるこの合理主義によって、のちに宗教の根本原理はだれにとっても自明のものであるから「啓示」というものは必要ないと見なされるようになっていきます。 こんなところを見ても、みずからは前の時代に属しながら、新しい時代への転換の礎石を築いたデカルトという哲学者の存在のおもしろさがよくわかりますね。

参考URL:
http://www.urantiabook.org/archive/science/binion1.htm
majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 前回の質問ではお世話になりました。 デカルトは「この世界は夢ではない」ことを証明した訳ではないのですね。 お蔭様で「我思う、故に我あり」と「夢説」とをリンクさせることができました。 URLもありがとうございました。デカルトは10歳から研究を始めていたのですね。10歳から研究とは・・・ 10歳の頃、カブトムシを捕まえることにばかり熱中していた私には想像がつかない話です・・・

majissuka
質問者

補足

デカルトには限らず、「この世界は夢ではない」ことを証明した人は居るのでしょうか? ご存知でしたら教えて頂けないでしょうか。宜しくお願い致します。

その他の回答 (9)

回答No.10

#6、#13です。 夢についてもうひとつだけ。 デカルトのコギトには、やはり独我論に通じていく問題があります。 というのも、あらゆる存在の根底に「考えるわたし」を想定してしまったからです。 「自己」だけが確かなもの、という独我論は、どうしてもでてきます。 この独我論をつきつめて考えた人にウィトゲンシュタインがいます。 この人の独我論に対する考え方は、前期と後期では多少ちがうのですが、ここでは後期のウィトゲンシュタインの考えを、簡単に紹介することで、「世界が夢かどうか」は、実はそれほど大きなもんだいではないのだ、ということを書いてみたいと思います。 この世界も他者もすべてが「わたし」の意識の像にすぎない、というのが独我論です。 「わたし」が死んでしまうとする。世界はどうなるのか。 少なくとも「わたし」にとって、世界はもはや意味をもたない。 世界は「わたし」が存在する限りにおいて、存在する。 ところがこの独我論には、決定的な矛盾があります。 「この世界にはわたししかいない」とことばに出して言う。 それは、あくまで、聞き手の存在を前提としている、ということです。 「この世界に確実に存在するのは自分だけだ」と語ることは、他者に「わたし」の意志を伝達する行為なんです。つまり、独我論は、「語る」ことによって、誤ったものになるのです。 こうやって、ウィトゲンシュタインは、独我論を乗り越えていく筋道を示します(ここから先は、以前紹介した中山さんの本を読んでみてください)。 わたしが見ている世界と、あなたが見ている世界がちがっていても、実はたいした問題ではないのです。 今日わたしは帰りがけにオレンジを買ってきました。 わたしは、オレンジはオレンジ色だと思っています。 あなたも、オレンジ色だと思っていますね。 けれども、もしかしたら、わたしは緑色を「オレンジ色」と言っているのかもしれないんです。 わたしの目には、オレンジが緑色に映っているのかもしれません。けれどもわたしは、わたしの目に映るその色を「オレンジ」と呼んでいますから、だれにもわからないのです。 それでも問題は起きません。 それはわたしたちが言語という共通の基盤を通じて意志を伝達できるからです。 ここからはわたしの結論です。異論があるかもしれませんが(笑)。 この世界は、もしかしたらだれかの夢の世界なのかもしれません。 そのだれかが目を覚ますと、終わってしまう夢の世界なのかも。 けれども、たとえそれが夢だとしても、この世界のなかで生きる「わたし」とわたしではない「他者」が、言語を用いて意志を伝達できているわけですから、夢であるかどうかはたいした問題ではない、と思います。 たとえそのだれかが目が覚めて、終わったとしても、そのときに困る「わたし」はもはや存在していません。 そう考えてみると、世界が夢であろうがなかろうが、わたしにはたいしたもんだいではないように思うのです。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 ウィトゲンシュタインは、そのような方法で乗り越えようとしたのですね。 この世界が何であれ、この世界で生きていることには変わりませんよね。

回答No.9

どういうふうに回答したらいいか、ずいぶん悩んだんですが。 まず、「わたしのいる世界」と、「わたしの夢の世界」を考えてみましょう。 絵がかければ一番良いんだけど、書けないから想像してください。 「世界のなかにいるわたしが、夢を見る」 この場合は「世界」という一番大きな枠がある。 つぎに「わたし」がそのなかに入れ子のようにすっぽりと入る。 さらに、「わたしの夢の世界」は「わたし」の入れ子のなかに入ります。 そういう構造になっている。 そのとき、「わたしの夢の世界」は、「わたし」のなかに組み込まれていますから、「わたし」から離れて、単独には存在しません。 「わたし」が、目が醒めれば、その「わたしの夢の世界」は消滅します。 ところが、問題なのは、一番外側の「世界」です。 これがだれかの夢だと仮定する。 入れ子の「わたし」も「わたしの夢」も含めて、世界全体がだれかの夢、と仮定するんです。 それは「わたし」と同じような誰かなのだろうか。 それとも、まったくほかの、たとえばエイリアンの夢なのかもしれない。 もし、そのエイリアンが夢からさめてしまえば、「わたし」はもちろん、この世界そのもの、こうしたもんだいそのものが消滅してしまうんです。 そして、それが誰かの(もちろんその誰か、はわたしかもしれませんが)夢でない、ということは、どうやったって説明できない。 だって、「わたし」の知らないことがこの「世界」でおきる、つまりその「できごと」は「わたし」から独立してはいますが、「世界」のなかに含まれています。それをすっぽり入れ子のように包む何者かがいない、ということは証明できないんです。 ここまでいくと、SFみたいになってしまうんだけど。 どうかしら。納得がいきましたか?

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。お世話になっております。 まず、前回の質問「(前略)主体の知識に無いものを、客体が知識として持っていると言うことは、『私の居る世界は夢ではない』ことの証明にはならないのでしょうか?」についてですが、その後、「この理論では『私の居る世界は夢ではない』ことを証明できない」ことを理解できました。 次に、今回のご回答についてですが、色々と考えて見たのですが、現時点の私には「他者の夢説」も否定することはできませんでした。

noname#15238
noname#15238
回答No.8

おはようございます。 お礼拝見しました、なるほど、感心いたしました。 夢を見ているときに目を閉じていると認識できない 確かにその通りで、他人に登場してもらうしかありませんが、その他人も夢の中の登場人物かもしれないわけですね。 #1さんの仰るように夢と現実があって、他人が夢を見ている状態と自分が夢を見ている状態が同様なことや、何度も夢を見たり、夢から覚める経験から「了解」は出来ても証明できないのかもしれませんね。 う~んまたまた白旗ですかね(苦笑。

majissuka
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答ありがとうございます。 fishbowl66さんですら白旗なのですから、私に解けないのは当然ですよね。少し安心しました。(でも、解けなくて悔しいです)

noname#15238
noname#15238
回答No.7

またまたお邪魔します。 決してストーカーでは有りません。 単に、回答数を増やす為に、無駄な回答を書き込んでいます。 デカルトが乗り越えたのかどうかは解かりませんが。 すべてが夢である可能性は乗り越えねばなりません。 夢と現実の違いを比較すれば出来るのではないでしょうか。 私の考える限り、夢を見るのに「視覚の器官」つまり、「眼」を使用していません。 ほとんどの人が、夢見る時には目を閉じています。 夢は脳の中だけで、脳の視覚野の一部が「視覚の器官」からの刺激を受けずに反応しています。 ひとたび、眼をあければ、外から外的刺激が「視覚の器官」に殺到してきます。 ある種の光の波長を反射する何かがあるのです。 存在があやふやなのではなく、私たちの表象があやふやなのではないでしょうか。 他のご回答者様と意見が異なりますが、 私が思い違いをしているかもしれませんので、回答してみましたが、如何でしょうか。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一部、私の能力では理解しきれない部分があるので、もしよろしければ教えて頂けないでしょうか。 >私の考える限り、夢を見るのに「視覚の器官」つまり、「眼」を使用していません。(後略) 夢を見ている(寝ている)ときに、「現実(と思われる)世界では目を閉じている(眼を使用していない)」と言う認識はないように思います。つまり「夢を見ているときに目を閉じている」ことを本人が認識するには、「その夢から覚める」と言う条件が必要になるかと存じます。これを前提に思考を進めたのですが、私の頭では、ご回答の理論から「私の居る世界が夢である可能性」を乗り越えることはできませんでした。 この辺りについて教えて頂けたら助かります。宜しくお願い致します。

  • kigurumi
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回答No.6

頭の悪い私なので、本屋で哲学の本を手にとっても「一体何語?」ととても買う気にもなれず、我が家にある唯一の哲学関連の本は『ソフィーの世界』なのですが、確かそれ書いてあったなぁ。。と本を開いたら一発でその箇所開けました!(きゃー あたしってすごい と自画自賛) 他の方が既に同様の事を書いていますが、私なりの受け取り方を書かせていただきます。 えっと。 懐疑主義者たちは、2+3=5ということも疑いました。 本当は6かもしれない、でも神が私たちに5と思わせているのかもしれない。   ↓ でも神が悪さするはずがない   ↓ じゃあ 悪い霊が我々を真実から遠ざけているとすれば、我々はニセモノを本物と思い込んでしまっているのかも。   ↓ 全ては夢かも。何も信じられない   ↓ 思考停止に陥った。 デカルトも懐疑主義者でしたが、従来の懐疑主義者とはチトちがった。 確かに全て疑わしいが、一つだけ信じていいことがある。 我思う 故に我あり。 ソフィーは「だからなに? 別段珍しくもなんともない結論よ」と思った。 ソフィーはそんなこと当たり前だと思っています。  『じゃあ「私は散歩する だから私は存在する」とも「私は食べる だから私は存在する」とも言えるじゃないか。 それだって夢かもしれないじゃあないか。』  ↓ ブブー!  ↓ そういう言い換えは夢ではない証明にはならない。 もしそういう言い方で表現するとすれば「私は散歩していると考える。だから私は存在する」としなければならない。 散歩しているのも食事をしているのも肉体。 散歩していると思っているのは心としての私。 ここから思考を展開していったみたいです。 これだとまだ「そういう夢を見ることだって可能だから それも夢じゃないの?」って反論されますよね。 我思う ゆえに我あり 危うし! で、そのあとデカルトは神の存在を証明できれば、全ては夢というものを否定できるんじゃないかって考えたわけです。 えっと・・・ <考える私>以外の存在 つまり善の神の存在が証明できれば、一つじゃなく(夢じゃなく)とすることができる と。 つまり2+3=6ではなく5であるという感覚は夢ではないとすることができる と。 観念と現実が一致しているとなれば、私が私を思うときこの私は幻ではないとなるわけで。 で、デカルトは『神の存在』『私(心)の存在』『その延長の存在』は確実だとしました。 今回は夢か現実かって事なので、えっと・・・。 自分の外に存在する『現実』と思考の中に存在する『現実』は全く違う性質を持つとしました。 一つは思惟するもの→精神。 もう一つは延長(ひろがり)→物体。 例えば人間は悲しんだり喜んだりします。心がありそれは変化します。 石はどうでしょう。 だから心は実体だとしました。 デカルトは人間以外を物体だとしました。 他の動物は延長(ひろがり)だとしました。 だって動物は 我思うゆえに我あり なんて思わないから って。 ソフィーはちょっとまったー! と思いました。 日本の法律も動物は物品だとしていますよね。 したがって他人のペットを殺したら、器物破損罪になりこそすれ、殺人とかそういう重い罪にはならない。 デカルトはこうやって 我思うゆえに我あり に確信を持つ代償として、他の動物は物品であるとしてしまいました。 だと思います・・・ なんかアダムみたい。 イヴはアダムのあばら骨から作られた物体で心などないから粗末に扱っても神は気にも留めないだろう って思ったかどうか。 ユダヤでは女は人間として数のうちに入ってなかったという事実。 がーーーん! わたしゃ 物体かい!って物体と思われている私は果たして心を持たない物体、、、なわけないですよね~。 従ってわたしはアダムの延長(物体)なんかじゃないぞーー!と思っています。 証明しろって言われたら、ガンガン喋ってアダムの予想外の反論をまくしたてて、ねじ伏せちゃう。 あたしゃ アダムの世界のうち(夢)になどいないわい!です。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「ソフィーの世界」一冊で、これだけの知識を得てしまうkigurumiさんって天才ですね。 >がーーーん! わたしゃ 物体かい!って物体と思われている私は果たして心を持たない物体、、、なわけないですよね~。 本当ですよねw 相手が自分のことをそう考えていたら冗談じゃありませんよね。

回答No.5

>「私の居る世界」について証明できないのは、対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由との解釈でよろしいでしょうか まず「主観-客観」ということばを哲学の文脈で使うときは、気をつけた方がいい。 実は、カントのところで意味が大きく転換してるからなんです。 ギリシャ時代の考え方があって、デカルトがそれを引き継ぎつつ、転換を持ち込み(デカルト自身は前の用法で使っていながら)、カントがコペルニクス的転換をやってのける。 以降、哲学で「主観-客観」というときは、カントを踏まえたものになります。 まず主観、もともとギリシャ語ではhypokeimenon、この概念がラテン語に受け継がれてsubjectumとなります。「変化の底において同一であるもの」という意味でした。 桜は四月に花が咲き、五月に青葉になり、秋が来ると紅葉し、落葉する。けれども、「桜そのもの」は変わらずに存在し続ける。それがsubjectumです。このsubjectumは、さまざまな意味を持っているのだけれど、少なくとも今日で言う「主観」の意味は持っていなかった。 じゃあ、「主観」に当たる語は? objectumです。 subjectumが、わたしたちの心に現れるありよう、花が咲き、青葉となり、紅葉し……と「外界に実在するものの観念」がobjectumだった。そうなんです。今日の「客観」はここから来ている。 へ? 主観、というのは、変化しない「(いまでいう)客観的なもの」? 客観、というのは、表象で「(いまでいう)主観的なもの」? 頭、こんがらがっちゃいそうだね。 だけど、デカルトもまだその使い方をしています。 デカルトは「変化の根底において存在し続けるもの」を実体と呼びます。subjectumだね。 ただし! デカルトの三実体。「神・物体・精神」。 意識する主体も、実体なんです。 「考えているわたし」という、もっとも「主観的なもの」がsubjectumとなった。 歴史が動き出しました。 ここでカントが登場します。 カントはこんなふうに考えるんです。わたしたちは桜を、表象(心に映るイメージ)としてのみ、とらえることができる。花も咲いていなければ、葉もついていない、落ちてもいない、「桜そのもの」を知覚することはできない。 わたしたちにできるのは、認識の形式(時間と空間)を通して、わたしたちに与えられている「桜の表象」を認識する、ということだけだ。 この、人間が認識しうる、花が咲き、青葉に変わり、落葉し、という「現象としての桜」は、主観によって支えられている。 (うつりかわっていく)現象の根底にあって、現象を支えているsubjectumは「主観」だ(おおっ、ひっくり返ったぞ!)。 そして、このような「主観」が、対象としてとらえるものは何だ? それは、この「主観」に対して「投げ与えられている」ものだ。「人間の表象」だ。それが「客観」だ。 え、待って待って。 「客観的」っていうでしょ?  「それは客観的に見て正しい」とかって。そういうときの「客観的」って、どういうこと? それもカントから来ています。 カントは人間の表象と「物自体」が一致することは証明できない、という。そのかわり、人間の表象の構造を分析して、これが普遍的なものであることを証明しようとした。 人間の表象は、個人的なものではなく、あらゆる人に等しく能力として与えられている(みんなが取り外せない緑のサングラスをかけているように)。だから、「主観」の作用とは独立に存在しうる。 わたしたちは「現象」として与えられている世界は認識できるけれど、「世界そのもの」は認識できない、とカントが言った、っていうのは、そういうことです。 でね、ここから >対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由 ということが出てくるまで、またいろんな人が出てきて、それこそ主観-客観が主体-客体として訳し分けられるようになった経緯とか、すんごいいろいろあるんです。 だから、そうとも言えるし、そうでないとも言える。#2の方が書いていらっしゃるのは、おそらくハイデガーのことだと思うんですが(ちがってたらごめんなさい)、ハイデガーみたいにデカルトのコギトを受け継いで、「存在者」であることについて考えるひとも出てきます。 ごちゃごちゃしてるんです。ほんと。哲学に「すっきり」を求めてはいけません。 哲学を勉強したら、自分のまわりの現象を、きちんと理解するための概念が手に入るような気がする。 だけど、そんなことはできません。かならず、もっと知らなければならないことが出てくるし、おまけに、これまで自分が「知っている」と思っていたことさえ、打ち壊していくようなものなんです。 ただ、「いまわからないこと」が、いろんな本を読んだりしているうちに、いつの間にか自分のなかに定着している。ふりかえってみると、なんとなく整理できている。だけどそのころ、自分はつぎの「わからないこと」に頭を悩ましてるんですが。 だから、ゆっくり、焦らないで。 ごめんなさい、いよいよわからなくさせちゃう回答を書いたかもしれません。 わからないところがあったら、なんぼでもつきあいますんで。

majissuka
質問者

お礼

度々ありがとうございます。 コペルニクス的転換の件、了解致しました。 哲学では同じ言葉でも哲学者によって意味が異なる場合が多いので訳が分らなくなりますね。 本当、一つのことを考えているうちに、別の疑問が湧いてきますね。

majissuka
質問者

補足

夢の件ですが、当質問において、ご回答者様から頂いたご回答の内容には、それ以前の私にとっては未知なる知識が含まれております。「私の居る世界は夢」なのであれば、ご回答者様から頂いたご回答の内容は、既に私の知識に含まれているものでなければおかしいように思います。主体の知識に無いものを、客体が知識として持っていると言うことは、「私の居る世界は夢では無い」ことの証明にはならないのでしょうか? 宜しくお願い致します。

回答No.4

>「この世界は夢ではない」ことを証明した人は居るのでしょうか?  これ、すごくおもしろい質問です。 まず結論的に言って「この世界は夢ではない」ことは証明できないと思います。 というのはね、「この世界は客観的に存在している」ということは証明できないから。 「あなたが見ている世界」と「わたしが見ている世界」が同じものであることは証明できないんです。 まずカントは、人間は、世界そのものは把握できない、と考えるんです。人間の理解する「世界」は、人間が自分に理解できるかたちで認識した「現象という世界」だ、と。 ここでの「世界」というのは、つまり人間が認識できる総体なんです。 このあいだのおさらいですが、デカルトは明晰で判明な観念にもとづいた推論を展開すれば、確実な真理にたどりつける、と考えました。ここでの「観念」というのは、ものごとが心に映った像です。 この「観念」(心に映る像)と、物そのものが一致するとどうして言えるのか? デカルトは神の存在が、そのことを保証してくれている、と考えるんですね。 でも、もう少し時代がくだっていくと、「神様が保証してくれてるさ」では通らなくなってしまう。 デカルトのころには物が心に映った像も、外から受け取った情報をもとに自分が考えたことも、まとめて「観念」と呼んでいましたが、カントのころになると、それを分けて考えるようになります。 事物の像は「表象」、知覚情報をもとに「表象」を形作っていく人間の精神作用を「感性」、この「感性」で得た情報をもとに判断したり推理したり、という思惟作用を行うものを「悟性」と呼ぶようになります(ことばがごちゃごちゃしてるけど、いったんことばが指し示す範囲を呑み込むと、ずいぶんスッキリ考えられるようになるから、焦らないでがんばって)。 カントは「表象」と物そのもの(カントの用語では物自体)が一致することを証明することは出来ない(人間は、物自体を考えることはできない)とするんです。 そのかわり、すべてのひとが同じ表象を持っている、そのことを証明しさえすれば、表象は客観的に保証される、と考えたんです。 心に映ったある像(表象)を、悟性が分類し、整理してたとえば「木」という概念を割り当てる。 この思考能力は人間が普遍的に同じだ。だから、この概念は普遍的なものなのだ。 つまり、物=表象、かどうかは証明できないけれど、みんなが同じ概念を持っているから、だいじょうぶ!というわけ。 だけどね、これも実は危うい。 カント自身も言ってるんです。すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている、と。 つまり、これって「人間が認識する世界も、人間の感覚器による一種のバーチャルな世界である」ってことなんですね。 となると、世界のリアリティっていったい何なんだ、って話になってくる。 世界が夢ではない、なんて、だれにも証明できないんです。 たとえばバークリーなんかはもうはっきり、主体が意識し、知覚している間だけ世界は存在する、なんて言っています。こういう考え方を「独我論」っていうんだけど、またこれはこれで長い話になってしまう。 だから本を一冊紹介しますね。中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』(ちくま新書) 「〈ぼく〉は現実の〈ぼく〉ではなく、ほかの誰かの夢かもしれない。だがそれなら、ほかの誰かとは誰だろう……」 こんなふうに始まります。書いてあることはむずかしいところもあるけど、相当わかりやすく書いてあります。哲学史のなかでは、圧倒的におもしろいよ。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。いつもお世話になっております。 「私の居る世界は夢ではない」ことの証明はできず、行き着く果ては「独我論」になる訳ですね。そして独我論を否定することもできないのですね。 今読んでいる本を読み終えたら、教えて頂いた書籍を読ませて頂きます。(しかし、私にとって哲学書は難解過ぎる為、いつになるか分らない状況です。言葉の意味を辞書で引きながら読んでいるレベルですので・・・)

majissuka
質問者

補足

少しこんがらかってきた為、確認を頂けたら助かります。デキの悪い生徒で申し訳ありません。 「私の居る世界」について証明できないのは、対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由との解釈でよろしいでしょうか? 逆に、「夜寝ているときに見る夢」が、本当に夢であることの証明もできないと言う解釈でよろしいでしょうか?

回答No.2

私は何も分からないのですが、認識主体の自己不可知性という言葉があるそうです。要するに認識するための主体は客体(すなわち認識の対象)にならないからこそ認識というもの(の存在)が可能になるということらしいです。私はこれはコギトエルゴスムの意味することかなと思っています。主体以外は夢でもよいのではないでしょうか。逆説ですが、主体は認識の対象にはならないが、だからこそ主体として存在することができるということではないでしょうか。主体も夢であるということはできますが、そのときそれは主体ではなくなっているはずです。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 主体以外は夢であろうと現実であろうと、大きな問題ではないのですね。 参考にさせて頂きます。

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.1

私はデカルトについてはよく知っていません。ただ少し助けになればと思います。 夢の対比として現実というものがあります。例えば、あなたが今いる現実は夢の出来事かもしれないと疑うことはできるでしょう。しかし、その夢から覚めた現実というものをそのとき同時に前提としていないでしょうか?もちろん夢から覚めた現実もまた夢だったということは可能性としては消えないでしょう。そして永遠に現実にはたどり着けないかもしれません。それでは、現実とは一体何だったのでしょうか?現実がないとしたら夢もまたなくなってしまうのではないでしょうか?ゆえに「全ては夢である可能性」はなくなってしまう。

majissuka
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 「夢がある」と言うことは「現実もある」と言うことですね。 参考にさせて頂きます。

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    哲学者のデカルトについてですが、かれは方法的懐疑で少しでも真実でない者を省いて真実を追い求める考えでしたよね??確か(間違っていたら訂正お願いします。)それで、われは思うとか思われるだったり、彼についての本を読んだのですが、ぜんぜん理解できなく、わかりませんでした。そこで最終的に彼は何を追い求めたのでしょうか?また彼は神をやはり一番と考えていたのでしょうか?詳しい方お願いします。

  • デカルトのコギトはどこが独自性なのか

     アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。  ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。  精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考    する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。  或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。  それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:  ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ● (パスカル) ~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・  なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。  《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。  デカルトのコギトに独自性はあるのか?

  • デカルト and self

    今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。 デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。 i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes). 蝋燭に火を灯せば、やがてその物体は以前とは違う形に変わって行きますが、その残り(remain)から、私たちはそれが何であるか想像することができる、と述べた後のこの一節なんですが、”思考により理解する”また”目で見た物”とデカルトは述べていますが、”目で見る”行為はすでに五感の一つであり、これは体と思考の繋がりを述べているようにも思えるのです。デカルトは肉体と思考の関係(二元論)をどのように考えていたのでしょうか? またデカルトはselfとworldを分けて考えていたのでしょか?

  • デカルトの「コギト・エルゴ・スム」に関する質問です

    デカルトの名言とされている「コギト・エルゴ・スム」に関する質問です。 私の持っている本の解説で、 デカルトが、この名言の境地に到達するまでのことについて説明があったのですが、 この説明の意味が良く分からなかった(意味が上手くつながらなかった)ので、そのことについて お聞きしたく質問致します。 以下のような解説文なのですが デカルトはあらゆる物事を疑い抜いたあげく、それでもなお疑い得ないものとして実在する、 この「疑っている自分自身の存在」(=コギト的自己)を発見した。 「Cogito ergo sum」(思う、故に、我在り。)である。 まず、「疑い抜いたあげく」、「疑い得ないものとして実在する、この『疑っている自分自身の存在』(=コギト的自己)を発見した」とありますが、 「この『疑っている自分自身の存在』(=コギト的自己)」は本当に疑い得ないのかが疑問です。 確かに、例えば、自分が自分自身の疑っているかどうかを疑おうとしても、「自分は本当に今疑っているのか」と疑うことになり、結局は「疑っている」という意識作用が存在していると確実に言えることになります。 しかし、この『疑っている自分自身の存在』は確実な「実在」と言えても、「疑い得ない」ものではなく、 疑い得る対象になるとは思えるのですが、いかがでしょうか? なぜなら、「疑っている自己を疑う」という意識作用を通じて『疑っている自分自身の存在』の確実性を確認できた以上、「疑っている自己」は「疑い得る」と言わざる得なくなると思えるのですが・・・。 また、今度は逆に「疑っている自己は疑い得ない」と言えても、そのような自己は確実に存在するとは言えないのではないかという疑問です。 「疑っている自己は疑い得ない」ということを確認するために、 「自分がいま本当に疑っているかどうか」を疑おうとすると、疑う対象にするべき「疑っている自己」は既に過去形の「疑っていた自己」になってしまい、 本当に捉えたかった「疑っている自己」は、先程の「疑っている自己」とは別に新しく出現し、「疑っている側」に回ってしまいます。 このような意味においては、 現在進行形の「疑っている自己」は「疑い得ない」(=疑うことが人間の認識能力的に不可能という意味で「できない」)と言えます。 しかし、「疑っている自己は疑い得ない(=疑えない)」と言えても、 このような自己が確実に存在するとは言えないのではないでしょうか? なぜなら、今回の「疑い得ない」は、そもそも人間の能力的な制約から「疑えない」の意味であって、 「疑っている自己」自体が確実に存在することを積極的に支持するものではないと思えるからです。 (「疑う」という「ふるい」から逃げられ続けるために「疑えない」ので、「疑っている自己」自体がそもそも「実在」しているかどうかは別問題。) 以上の2点の疑問なのですが、まとめると、 「疑っている自己」の「実在」性に重点を置いて意味を解釈すると、それは「疑い得る」のではという疑問が湧き、 また、「疑っている自己」が「疑い得ない」という点に重点を置くと、それは「実在」しているのかが疑わしくなります。 この2点を意味上上手くまとめることができれば、解説文の意味もスッキリと理解できるようになりそうなんですが・・・。 それは可能でしょうか? それとも、私の疑問自体がおかしいでしょうか? (自分で打ち込んでいてなんですが、質問文の意味に違和感が湧きっぱなしでした(汗)。) 長々とまとまりのない質問で申し訳ございません。 お知恵をお貸しください。 宜しくお願い致します。

  • "cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?

     命題 「我思う、ゆえに我あり」 (コギト エルゴ スム=cogito ergo sum )は真でしょうか? 我の精神の存在だけが疑いようのない事実なら、世間の常識はすべて曖昧なわけです。 人生をどう過ごすべきか、何が大切か、わからなくなります。  また、cogitoは、アウレリウス・アウグスティヌス=Aurelius Augustinus 以前、パルメニデス=Parmenidesの "to eon" や "to hen" がルーツでしょうか?それとも、更に遡ることが出来ますか?  よろしくお願いします。

  • デカルトの《明証性》って何ですか?

     デカルトの思想を批判します。当否を問います。  ▽ (ヰキぺ:ルネ・デカルト) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88  §3 思想  §3.1.2 方法  ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。    1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4)については 《すべてを見直した》あと なお《何も見落とさなかったか》を確認するのが ふつうである。《気をつけて事例の枚挙やその吟味をしましょう》というのと変わりない。つまり 何ら特別なことではない。  (3) 《単純なもの》か《複雑なもの》かを判定するには その判定の能力について判定しその結果を自覚しなければいけない。つまり 判定能力次第である。つまり 何か意味のあることを言ったとは思えない。  (2) 《考える問題》を《小さい部分に分ける》と言うけれど 《小さい》というのは 量の問題だけではないはずだ。ということは その大きい小さいの判断そのことが 《考える問題》になっている。何をか言わんや。  (1) 《明証的に真であると認めた》と言っても すべては主観である。明証性も 本人の主観次第である。何をか言わんや。  もういっちょう行きましょう。  ▽ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  §3.2 形而上学  §3.2.3 神の存在証明  欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。  第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。    第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▽ 第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)  ☆ というのは その《観念が われわれ人間の想像力の翼が飛び行くところまでは伸びて行く》と言っているに過ぎない。  《表現的実在性》とは どこまで行っても 《観念》のことである。  その神なる観念は  ▽ 対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。  ☆ だろうか? 阿呆なことを。  《神》が どうしてこの経験世界における現実的実在性と対応すると言えるのか?  それはせいぜい《観念》が 対応するだけである。《神》が《上》や《髪》や《守》や《紙》と――観念のあそびの上では――対応するに過ぎない。  われわれ人間の知について  ▽ この「有限」であるということを知るためには  ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。  考える葦であろうがなかろうが 死ぬべき身と心なら それゆえにこそ《永生なる無限》を想定してみるということである。《無限》を知ってから わが身の限りあるを知ったというのは 生活歴史的な順序ではないだろう。  ▽ 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  ☆ その神が 無でもありうる。と言わねば議論にならない。  ▽ 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  ☆ 観念の中にまた観念を放り込んだだけ。観念があれば 《存在》を言えるのか? そういうことは休み休み言って欲しい。  ▽ 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。  ☆ おままごとにあっては そう言えるのだろうか? 観念のお花畑には そういう花が咲いたと見えたのだろうか? バカらしくて話にならない。のではないだろうか?  (もし観念が現実的実在性と対応する(第一証明)なら 《悪い霊》なる観念も ただの仮定ではなく 現実であると言わねばならない)。  (もし《神》をまじめに想定したならば その神のもとには 人間の善悪が繰り広げられている。それを神は 何もしないかたちで見守っているとでも言うしかない)。  なんでこんなおとぎ話に われわれは振り回されているのか?

  • デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった

     次の議論が 《コギト 〔エルゴ〕 スム》のアンチョコだった。どうでしょう?  ▲ (アウグスティヌス:《欺かれるなら われあり) ~~~~~~  『神の国』 第11巻 第26章  ――人間精神の中に見られる三位一体の似像・・・存在・知識・愛――  わたしたちはたしかに わたしたち自身の中に神の似像(イマゴ・デイ) すなわちかの至高の三位一体の似像があることを知る。それは神の造ったものの中で神にもっとも近いものである。それはむろん神と等しくなく それどころかはるか遠く離れて 神と等しく永遠であるのではない。要約して言えば神と同じ実体ではない。けれども それが更新されて完成を目指すとき いっそう神に似るものとなるのである(*1)。  すなわち わたしたちは存在し その存在を知り かつその存在とその知識とを愛する(*2)。わたしたちはここにあげた三つの実在(存在・知識・愛(*3))に関して 真理の仮面をかぶった虚偽によって惑わされることはない。なぜなら わたしたちはこれらを外界のもののように 身体の感官によって接触するのではないからである。例えば 色は目で見 音は耳で聞き 香りは鼻で嗅ぎ 味は舌で味わい 硬さと柔らかさは手で触れて感じ取り さらにまた これらの知覚対象と同じではないが しかしこれらに酷似する映像に思考を向け 記憶によって保持し かつその映像をつうじて知覚対象への願望が呼び起こされるのである。けれども わたしが存在し わたしがその存在を知り愛するということは こうした実在的な像や非実在的な像(*4)をもとに遊び戯れる想像作用によっては 全然確実ではないのである。  これらの真なる実在に関して わたしはアカデミア派(*5)の議論を少しも恐れない。彼らは言う。《もしきみが欺かれているとしたらどうか》と。しかし もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在する( Si enim fallor, sum. )(*6)。なぜなら 存在しない者が欺かれることは まったくありえないのだから。それゆえ もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在するのであるから どうしてわたしが存在するというそのことについて欺かれるだろうか。というのも わたしが欺かれるとき わたしが存在するのは確実なのである。したがって 欺かれるわたしが たとい欺かれるとしても存在するのであるから わたしが存在することをわたしが知っているというそのことで わたしが欺かれていないことは 疑われない。  ここからしてまた わたしが知ることをわたしが知っているそのことにおいても わたしは欺かれないのである。すなわち わたしはわたしが存在することを知っているが そのようにまた わたしが知るというそのこと自体をも わたしは知っているのである。  そこでわたしは この存在と知識との両者を愛するとき この愛を同じ価値を持つ第三のものとして わたしの知っている両者に加える。というのも わたしがわたしの愛するものにおいて欺かれない限り わたしが愛するということは欺かれないのである。またたといその愛するものが真実でないものであるとしても わたしが真実でないものを愛しているというそのことは真なのであるから。    そもそも わたしがその両者(存在とその知識)を愛していることが嘘であるとしたら わたしが真実でないものを愛しているといって批難されたり抑えられたりすること自体 まったく不当なことではないか。しかしかの両者(存在とその知識)は真であり確実であるから それらが愛されるとき それらに対する愛もまた真であり確実であることを だれが疑いえようか。  さらにまた至福であることを望まない人はひとりもいない(*7)ように 存在することをこばむ人もひとりもいないのである。なぜなら 存在しないならば どのようにして至福であることができるだろうか。   (泉治典訳(註もほぼ訳者による) 1981 )  *1:いっそう神に似るものとなる: 『三位一体論』14・12-19参照。《更新》= reformatio 。これは《新生 renovatio 》に続いて起こる聖化の過程として考えられている。  *2:その存在とその知識とを愛する: 『三位一体論』9・2-5参照。  *3:存在・知識・愛: これは 記憶・知解・愛(または意志)に対応すると考えられる。  *4:実在的な像や非実在的な像: 《実在的な像 phantasia / 非実在的な像 phantasma 》。いづれも直接の知覚像ではなくて 内的な再生像である。両者の区別については 『三位一体論』11・2・4以下 12・2・2参照。  *5:アカデミア派: 『アカデミア派駁論』2・4・10以下参照。ここに言うアカデミア派はアルケシラオス(前315-240)に始まる第二アカデミアをさす。  *6:Si enim fallor, sum.: デカルトのコギトに対比される有名な命題。『至福の生』2・2・7 『ソリロキア』2・1・1 『自由意志』2・3・7 『真の宗教』39・73 『三位一体論』15・12・21 『エンキリディオン』7・20など参照・  *7:至福であることを望まない人はひとりもいない: キケロの『ホルテンシウス』(『断片』69-70)の核心としてアウグスティヌスが学んだ命題。『三位一体論』13・3・6参照。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • デカルトはアウグスティヌスをパクッたのではないか?

     ふるい議論つまり 自然科学の歴史のなかでの一ページとしての議論に過ぎませんが アリストテレスの天体論をめぐって デカルトがこれに楯突いたとすればそれは すでに大昔にアウグスティヌスがおこなっていたのではないだろうか。という問いです。  つまり ルネくんは――そのいわゆるコギトの命題を やはりアウグスティヌスの《あやまつなら(欺かれるなら) われあり( Si fallor, sum. )》から取って来たように――やはり次の議論を成したアウレリウスをパクッたものと思われる。  どうでしょう。  ▲ (アウレリウス・アウグスティヌス:アリストテレスの天体論について) ~~~~~~  〔1〕 あの理屈屋ども――主は彼らの思いの空しきを知りたもう――は 神のこの大いなる賜物に反対して 元素の重さについて論じ立てている。彼らはむろんそれを師のプラトンから学び知ったのであるが 宇宙の両極にある二つの大きな物体(大地と天体)が中間にある空気と水の二つの元素によって結びつけられているという。  そこで彼らの言うところによれば 下から上へ向かって最初にあるものは土 次にあるものは水 三番目が空気 四番目が天の空気で ここには地上の物体は何ひとつありえない。なぜなら それぞれ元素が自分の重さにふさわしい場所を占めるようにと定められているからである。  ああ 何という論拠でもって その思いの空しい弱い人間が神の全能に異議を申し立てていることだろう。  空気は土から数えて三番目にあるが その空気のなかには多くの地上の身体があるではないか。神は地上の身体をもつ鳥どもに軽い羽と翼を与えて飛ぶのを許したのであるから この神が不死のものとなした人間の身体〔* これは《自然の身体に対する霊の身体》と呼ばれるものである〕に天の高きに住む力を与え得ないということがあろうか。  プラトン派の主張によれば 飛ぶことのできない地上の動物――人間もその一つである――は ちょうど水の動物である魚が水のなかにいるのと同じように地上に生活しなければならないとされる。しかし 地上の動物が二番目の水のなかだけでなく 三番目の空気のなかでも生活するようになったのはどうしてであるか。土に属しているものが土の上にある二番目の元素のなかで生きるよう強制されたならばすぐに窒息してしまい かえって三番目の空気のなかで生きることができるのだが これはどうしたら理解できようか。  そこでは元素の順序が狂っているのか。それとも 誤謬は自然界にあるのではなくて むしろプラトン派の議論にあるのか。わたしはすでに第十三巻で 重い地上の物体の多く――例えば鉛――が適当な形(* たとえば船)を与えられれば水に浮かぶことができると述べたが これを繰り返すのはやめよう。だがいったい 天に昇ってそこに住む能力を人間の身体に与えることは 全能の創造者に矛盾することなのだろうか。  〔2〕 わたしのいま述べたことに対して 彼らは自ら確信する諸元素の秩序について思いをめぐらし 議論を組み立てるが 結局 有効な反論は見出せないでいる。なぜなら 下から上へ向かってまづ土が 次に水が 三番目に空気が 四番目に天があるのだとしても 魂の本性はこれらすべての上にあるからである。  アリストテレスはそれを五番目の物体と呼んだ(* 『天体論』四・六.さらにキケロ『アカデミカ』一・七・26 『トゥスクルム論談』一・一〇・22)が プラトンは物体とは呼ばない。五番目のものがあるとすれば それは他のすべてのものの上になければならない。しかしそれは物体ではないのだから 他のすべてをはるかに越えているであろう。  ではそれは 地上の身体のなかでは何をするだろうか。他のどれよりも精妙なそれは この物体の塊のなかで何を働くだろうか。他のどれよりも軽いそれは この重いもののなかで何を働くだろうか。他のどれよりも速いそれは この動きのにぶいもののなかで何を働くだろうか。これほどすぐれた本性の能力によっても 自ら持つ身体を天にまで上げることはできないであろうか。現在地上の身体の本性が魂をこの地上にとどめ置くことができるのだとすれば 魂はいつかは地上の身体を上にあげることができるのではないだろうか。  (アウグスティヌス:『神の国』第22巻 第11章 泉治典訳( 1983 ))  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちデカルトの次のような議論をめぐっての問題です。  ◆ (【Q:ヒラメキとは 天使のことかなぁ。】回答No.8) ~~~~~~~  デカルトは[・・・]それまでのアリストテレスの「自然学」の世界観、地上の空間が四層に分かれていて、互いに違った法則で運行されていて、地上の空間と天上の空間が別な空間と考えていたのを地上の空間も天上の空間も、同じ一様で無差別な空間と考えることでニュートンの絶対空間の考えを先駆けてそれを地ならしした人なんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  《五番目の〈物体〉――〈エーテル〉――》は 《地上の四層にあるそれぞれのもの》をはるかに超えているのであるからには その視点から見れば 《地上の空間も天上の空間も 同じ一様で無差別な空間と考えること》は オチャノコサイサイだったのではないでしょうか。  コギトのときと同じように だまってコピペーしたものと考えられますか?

  • 神様とノアの方舟

    ノアの方舟で堕天使やネフィリムが暴虐を行って神様は 全てのものを拭い去ろうとした、結果 大洪水を起こして ノアと限られた 動物以外は滅ぼされたとあります。 この時 堕天使や ネフィリム や 地上にいた人々が行った 暴虐とか悪い行いっていうのは 具体的にどんなものだったんですか? 神様は とても 寛容で誠実な方だと聞いているんですが、動植物全てを殺してしまう って結構 残虐な行為 なんじゃないかと思うんです。 であれば それ相当の悪事が働かれていないと整合性が取れないというか。 神様がノアたち以外を殺してしまう 滅ぼす というのが安直に語られることは、神様への信頼を損ねるし、神様の寛容さに疑問が呈されることもあろうかと思います。 そうではなくて 神様が実に豊かに寛大な方で許容することのできる誠実な方だとすれば、ノアの方舟のお話に少なからず 懐疑的なものを感じます。 あるいは救いようがないぐらいの悪事を 僕はちょっと想定できないんですが、それらが働かれていたということなんでしょうか? 1つ目は どのような悪事が働かれていたのか? 2つ目は 神様の 滅ぼす という取り計らいは妥当なものだったのか? 3つ目は ノアの方舟の逸話自体 信憑性のあるものなのか? ということでご回答ください。 その他の意見も歓迎します。 よろしくお願いします。 ありがとうございました