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"cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?

 命題 「我思う、ゆえに我あり」 (コギト エルゴ スム=cogito ergo sum )は真でしょうか? 我の精神の存在だけが疑いようのない事実なら、世間の常識はすべて曖昧なわけです。 人生をどう過ごすべきか、何が大切か、わからなくなります。  また、cogitoは、アウレリウス・アウグスティヌス=Aurelius Augustinus 以前、パルメニデス=Parmenidesの "to eon" や "to hen" がルーツでしょうか?それとも、更に遡ることが出来ますか?  よろしくお願いします。

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回答No.5

 No.3です。  アウグスティヌスに通じておられるようで 必要ないとも思いましたが このスレッドとして もう少しくわしい議論をと かえって 思いました。   以下のようです。  アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。  ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。  精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   *(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力    を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが  ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ● (パスカル) ~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・  なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。  《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。

6ii
質問者

お礼

 私は決して偉大な聖者に通じているわけではありません。ただ彼の若い頃の生き方、考え方に相通ずるものがあり、非常に人間臭い親しみを感じるのです。  偉大な聖者とデカルトとの見解の相違をパスカルは見事に暴いています。しかし彼らの天才的な発想に、この天才は少しく嫉妬しているようにも感じます。  閑話休題。巷の書店に並ぶ小賢しい哲学書と異なり、洗練された哲学の講義を聴講しているようで、ありがたく拝見しました。天才達が残してくれた考えをヒントに、最終的に「我考う」べきであります。そして、その刹那刹那、所謂「我あり」となるのですね。

その他の回答 (7)

  • ga111
  • ベストアンサー率26% (247/916)
回答No.8

>我の精神の存在だけが疑いようのない事実なら、世間の常識はすべて曖昧なわけです。 世界は我が表象(想像、イメージ)である、といった人がいますが、、、私はとても納得できる言葉だと思います。よって、世間の常識はすべて曖昧なもの。その西洋人(ショーペンハウエル)は、結局は東洋哲学を西洋に紹介した感じになっています。つまりインド哲学で諸法無我、諸行無常においては、「我思う、ゆえに我あり」は究極的には偽です。

6ii
質問者

お礼

 ありがとうございます。  Schopenhauer の表象としての世界には納得できます。意志としての世界も含め、そうでない可能性もありますが確実ではありませんよね。  >つまりインド哲学で諸法無我、諸行無常においては、「我思う、ゆえに我あり」は究極的には偽‥  この部分がよくわかりません。「インド哲学では」ですか? 調べてみます。

回答No.7

>皆さんはご自分なりの答を持ってらっしゃいますか?  光、歓喜、祝福に溢れた神々しさの中に生きていますよ。当たり前じゃありませんか。  それが私の本体なのですから。 

6ii
質問者

お礼

 ukiyotonboさんのように達観し、強く生きることができればいいのですが‥。  理論と現実とのgapに悩まされております。  ありがとうございます。

回答No.6

>藤村操のいう通りなのか、 answer to life the universe and everything=42 なのか‥ ですから、人に問う無意味とその呪縛を解きはなったら如何ですか。 あなたは、そういう意味で、完全に自由なのではありませんか? 答えはあなた側にある。直ぐそばに。 誰もあなたの答えをもってなんかいやしません。 強いて言えば、あなたは、あなたのこの質問の答えの真っ直中に生きているということでしょう。 >何が大切か・・・ あなたは、唯一の大切の中を今生きていて、その大切を人に聞いています。

6ii
質問者

お礼

 ありがとうございます。  質問サイトに、或いは他人に問う種の質問でないことは重々理解しています。ただ、ちっぽけな自分の頭で考えてもいつも堂々巡りで、納得のいく結論は得られません。こういう疑問に一生向き合うことなく、生きていける人はある意味羨ましくもあります。かかわらぬよう生きていくのが賢いのかも知れません。でも気が付くと、むくむくと頭をもたげてくるのです。  皆さんはご自分なりの答を持ってらっしゃいますか?  

回答No.4

我思う、ゆえに我あり それが真かどうかを他人に問えないってことですよ。 なぜなら、 たぶん存在するあなたがおそらく思っているんだろうから、あなたも存在していると思っているのかい ってことになっちゃうから、他人からの回答が如何なる答えでも、我ってのは、その答えをもってして、真かどうかの核心に迫ることは出来ません。 あなたが真であるような気になりやすい命題なのです。 おっと、どんな回答をしても無駄だったんだっけ。

6ii
質問者

お礼

 ありがとうございます。  これは私がいつも繰返し考えてしまうトラップであり、勿論おっしゃる通りだと思います。その上で敢えて質問させていただきました。他の誰でもなく、私が(私の精神が、現在)存在するということについてです。  一つには、例えば学問的に現在、どういう見解であるかということ。  次に、現実的にどう考えて生きていくべきかということです。  或いは藤村操のいう通りなのか、 answer to life the universe and everything=42 なのか‥    ただ、こういった本質をついたお答えはとてもありがたいです。

回答No.3

 こんにちは。  古代ギリシャの思想は知りません。  アウグスティヌスの議論についてしるします。  わたしとは何か? わたしが存在するとは どういうことか? この問いに答えるものです。  《あやまつならば われあり》または《あざむかれるなら われあり》: Si fallor, sum.  と言いました。  あやまちに気づくとき われは われに還る。あるいは 人にだまされたとき われはあざむかれることを欲していないということは もはやあざむかれることはない。  相対性の世界にあってですが この経験的な存在も このいまの《われ》については もはやうたがう余地はないと考えられる。というものです。それこそが 《わたしがわたしである》そのものであると。  デカルトは ひとがみづからについてあやまちを侵したと考えるとき・あるいは あざむかれたと考えるとき その考える行為をもって われないしわが存在の確実性を示したというように――デカルト自身がどう言っているかを別にしてでも―― 考えられます。  焦点が 《われ ないし その存在》からその思考という行為能力ないし能力行為にずれたように見られます。  問題は 《われに立ち帰る》ことではないでしょうか?  《世界をあらしめる者が きょう わたしをあらしめた》という自己表現で生きることをあらたにこころみる場合も ありえます。  世界をあらしめる者は 言います。《わたしはある》 それがわたしである と。    あるいは 《もののあはれを知った》と自己表現して われに立ち帰る場合もありえると思います。  われに立ち帰ったあとは そのときの境地の感覚をうっすらとでもおぼえていて そこから逸れないようにというきよらかなおそれをもって生きる。のだと考えられます。

6ii
質問者

お礼

 ありがとうございます。  非常に丁寧なご回答でしみじみと拝見しました。Augustinus には随分傾倒しました。肖像画を集めたりもしました。"Si fallor, sum." ですね。  「われに立ち帰る」とあります。おっしゃることはよく理解できますが、こうなりますと倫理的な議論となり、私の求める回答とはやや異なるようです。  ps お名前の bragelonne さんはDumas の「ブラジュロンヌ子爵」からとられたのですか? 詩編も少しかじっただけですが、素戔嗚の活躍した古事記、日本書紀などはとても面白いです。

回答No.2

「我あり」と言っても、何があるか分からずに何かがある と言うのなら、それは正確には「我思う、ゆえに思いあり (=何か分からない我と何か分からない他を結ぶ相互 作用あり)」です。 相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対に よってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数h の収束の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は光 になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完として の時空仮説=宇宙を認識するのです。 通常、人は「世界とは外に根拠がある=答えは外から与え られる」と考えます。 しかし、量子論的世界像において、本質的原理性を確定し ようとすると、無限不確定に発散(=無)し、不完全な認識に おいて階層現象を表面的(=経験的)に定性化する事で、 有限な存在性は派生する事が明らかとなっています。 その無=無限不確定の潜在としての認識可能性(感受表面 (量子相互作用)=現在=光速)から、自我仮説(時間的流れ =記憶=過去=超光速)と時空仮説(空間的広がり=予測= 未来=光速下)の相補分化しているのです。 世界は、「何かあるんじゃないの」という疑問として発生し、 その相殺=「本当はないんだけどね」という物理が存在と して映ずるのです。

6ii
質問者

お礼

 ありがとうございます。  物理学における「存在」の解釈はとても興味深く拝見しました。こういった議論は大好きです。趣は異なりますがParmenidesを想起させてくれます。  ただ、物理学も数学をも疑い得るという前提での本命題ですから、私の求める回答とはやや異なるようです。 ps 私も海外経験が結構ありますが、psytexさんもバラエティーに富んでらっしゃいますね。写真にあるのは製図板ですか? 包帯が痛々しいですが、早く治ることをお祈りします。

  • manuke22
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.1

我が存在することは疑えます。デカルトの議論は方法的懐疑によって「を疑う」という意識作用がつねにすでに働いていることを示しましたが、その「について疑う」とか「について思う」などの意識作用の主体すなわちegoが実体であることは示せていません。 また、「思う」という意識作用cogitationから遡行して、その意識作用の主体を実体としての我だと推論することは、因果的な推論なわけですが、その推論は算数という演繹的推論すら疑いうると見なした方法的懐疑からすれば疑いうる推論です。 つぎに、1時間前の我や1年前の我が「考える」という述語の主語だからといって、今の我と1時間前の我と1年前の我が同一であることは言えません。記憶は誤ることがあるので、「私を一度でも欺いたことのあるものは疑いうる不確実なものとして扱う」というデカルトの方法によれば、自分の記憶や想起は1時間前の我aと1年前の我bと今の我cの同一性を我cの記憶によって根拠あるものとして扱うことはできないからです。したがって我はすくなくとも実体ではありません。 厳密に言えば、「我ありsum」ではなく「我ありと我思うcogito sum」が真です。 デカルトなら質問者さんの疑問には神の存在証明によって答えるでしょうが、彼の「証明」はすでに論点先取として批判されています。また、彼の証明には結果から原因へ遡行するような推論がなされていますが、その推論は誤りうるので、彼による神の存在証明は彼自身の方法的懐疑によって不確実な証明だということになります。彼がもちだした欺く神という作業仮設は、彼が神の存在を証明しようとしている最中でも有効なわけですから、因果的な推論をデカルトが遂行しているまさにそのとき、デカルトが欺く神によって誤った推論をさせられているということは十分にありえるわけです。したがって、第一実体としての神も第二実体としての精神も第三実体としての物質(延長)も、実体だとは言えません。 したがってデカルトによれば、「私は自分の生年月日を知っている」とさえ言えず、「私は自分の生年月日をa年b月c日だと思っている」としか言えません。 質問に答えるなら、「我あり」という命題の真偽すら不確定です。ほかならぬデカルトの方法的懐疑によって不確定に、懐疑できるものになるわけです。 しかしすべての事実や知識が疑いうる事実や知識だからといって、自分がどう生きるべきかの問題にはならないと思います。また、知識とか事実とかにデカルトはあまりに高すぎる基準をもちだしてしまったのだと私は思います。それでもデカルトの意見は現代でも検討するに値するでしょう。

6ii
質問者

お礼

 ありがとうございます。  神の存在証明は哲学者、自然科学者、数学者でもあるデカルトらしからぬ蛇足だと思います。そういわざるを得ぬ事情でもあるのでしょう。  >「我あり」という命題の真偽すら不確定‥  >デカルトの方法的懐疑によって不確定に、懐疑できる‥  私は「我あり」は質問者である「私」にとっては真であると思うのです。方法的懐疑によって確定的に懐疑しているのではありませんか?  >すべての事実や知識が疑いうる事実や知識だからといって、自分がどう生きるべきかの問題にはならない‥  これも私には納得出来ません。学校で習ったことや、質問サイトにある膨大なQ&Aもすべて嘘かも知れません。酷い罪を犯しても実はいいことをしたことになっているのかも知れません。世のため他人のためにと、実直に生きているつもりでも、実はよくないことをしたことになっているのかも知れません。大いに、どう生きるべきかの問題になっていると思います。  ただ、「常識」的に考えるとmanukeさんのおっしゃる通りと思います‥

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    これを批判するとしたら どういったところを批判しますか? 雑な質問ですみません。

  • デカルトはアウグスティヌスをパクッたのではないか?

     ふるい議論つまり 自然科学の歴史のなかでの一ページとしての議論に過ぎませんが アリストテレスの天体論をめぐって デカルトがこれに楯突いたとすればそれは すでに大昔にアウグスティヌスがおこなっていたのではないだろうか。という問いです。  つまり ルネくんは――そのいわゆるコギトの命題を やはりアウグスティヌスの《あやまつなら(欺かれるなら) われあり( Si fallor, sum. )》から取って来たように――やはり次の議論を成したアウレリウスをパクッたものと思われる。  どうでしょう。  ▲ (アウレリウス・アウグスティヌス:アリストテレスの天体論について) ~~~~~~  〔1〕 あの理屈屋ども――主は彼らの思いの空しきを知りたもう――は 神のこの大いなる賜物に反対して 元素の重さについて論じ立てている。彼らはむろんそれを師のプラトンから学び知ったのであるが 宇宙の両極にある二つの大きな物体(大地と天体)が中間にある空気と水の二つの元素によって結びつけられているという。  そこで彼らの言うところによれば 下から上へ向かって最初にあるものは土 次にあるものは水 三番目が空気 四番目が天の空気で ここには地上の物体は何ひとつありえない。なぜなら それぞれ元素が自分の重さにふさわしい場所を占めるようにと定められているからである。  ああ 何という論拠でもって その思いの空しい弱い人間が神の全能に異議を申し立てていることだろう。  空気は土から数えて三番目にあるが その空気のなかには多くの地上の身体があるではないか。神は地上の身体をもつ鳥どもに軽い羽と翼を与えて飛ぶのを許したのであるから この神が不死のものとなした人間の身体〔* これは《自然の身体に対する霊の身体》と呼ばれるものである〕に天の高きに住む力を与え得ないということがあろうか。  プラトン派の主張によれば 飛ぶことのできない地上の動物――人間もその一つである――は ちょうど水の動物である魚が水のなかにいるのと同じように地上に生活しなければならないとされる。しかし 地上の動物が二番目の水のなかだけでなく 三番目の空気のなかでも生活するようになったのはどうしてであるか。土に属しているものが土の上にある二番目の元素のなかで生きるよう強制されたならばすぐに窒息してしまい かえって三番目の空気のなかで生きることができるのだが これはどうしたら理解できようか。  そこでは元素の順序が狂っているのか。それとも 誤謬は自然界にあるのではなくて むしろプラトン派の議論にあるのか。わたしはすでに第十三巻で 重い地上の物体の多く――例えば鉛――が適当な形(* たとえば船)を与えられれば水に浮かぶことができると述べたが これを繰り返すのはやめよう。だがいったい 天に昇ってそこに住む能力を人間の身体に与えることは 全能の創造者に矛盾することなのだろうか。  〔2〕 わたしのいま述べたことに対して 彼らは自ら確信する諸元素の秩序について思いをめぐらし 議論を組み立てるが 結局 有効な反論は見出せないでいる。なぜなら 下から上へ向かってまづ土が 次に水が 三番目に空気が 四番目に天があるのだとしても 魂の本性はこれらすべての上にあるからである。  アリストテレスはそれを五番目の物体と呼んだ(* 『天体論』四・六.さらにキケロ『アカデミカ』一・七・26 『トゥスクルム論談』一・一〇・22)が プラトンは物体とは呼ばない。五番目のものがあるとすれば それは他のすべてのものの上になければならない。しかしそれは物体ではないのだから 他のすべてをはるかに越えているであろう。  ではそれは 地上の身体のなかでは何をするだろうか。他のどれよりも精妙なそれは この物体の塊のなかで何を働くだろうか。他のどれよりも軽いそれは この重いもののなかで何を働くだろうか。他のどれよりも速いそれは この動きのにぶいもののなかで何を働くだろうか。これほどすぐれた本性の能力によっても 自ら持つ身体を天にまで上げることはできないであろうか。現在地上の身体の本性が魂をこの地上にとどめ置くことができるのだとすれば 魂はいつかは地上の身体を上にあげることができるのではないだろうか。  (アウグスティヌス:『神の国』第22巻 第11章 泉治典訳( 1983 ))  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちデカルトの次のような議論をめぐっての問題です。  ◆ (【Q:ヒラメキとは 天使のことかなぁ。】回答No.8) ~~~~~~~  デカルトは[・・・]それまでのアリストテレスの「自然学」の世界観、地上の空間が四層に分かれていて、互いに違った法則で運行されていて、地上の空間と天上の空間が別な空間と考えていたのを地上の空間も天上の空間も、同じ一様で無差別な空間と考えることでニュートンの絶対空間の考えを先駆けてそれを地ならしした人なんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  《五番目の〈物体〉――〈エーテル〉――》は 《地上の四層にあるそれぞれのもの》をはるかに超えているのであるからには その視点から見れば 《地上の空間も天上の空間も 同じ一様で無差別な空間と考えること》は オチャノコサイサイだったのではないでしょうか。  コギトのときと同じように だまってコピペーしたものと考えられますか?

  • コギトと アリストテレスの真理の対応説

     真理とは何か? これを《対象とその認識とが対応すること》と説いたのは アリストテレスであると言われます。  これは いわゆる経験合理性としての妥当性というような意味において 事実認識が《信憑性を持つ ないし 真実である》ということを言おうとしているようです。  ヰキぺの《真理》なる主題のもとには アリストテレスについての解説が 《経験事実についての真実》だけではなく 《経験世界を超えた場としての真理》についても触れていますので その項目を全部引いたあと問いをかかげます。(5)を問います。  ▲(ヰキぺ:真理) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86#.E3.82.A2.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.86.E3.83.AC.E3.82.B9_.E5.AF.BE.E5.BF.9C.E8.AA.AC.E3.80.80  § 2 歴史   § 2.1 古代  § 2.1.3. アリストテレス 対応説   (1) アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)は、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンがイデアが個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。    (2) まず、彼は、学問体系の整備を始め、「論理学」は確実な知識を手に入れるという目的のための「道具」(organon)であるとする。論理学においては、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しい。真理に到達するためには知識は確実なものでなければならないが、そのための道具の性能をまず問題にしたのである。彼のこのような着眼点は現代真理論における記号論理学の発展を準備したものともいえる。  (3) ついで、彼は、学問を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分した上で、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。  (4) そして、その著書『形而上学』において、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知であるとし、「PはQである」という命題は真か偽かのどちらかであり、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。  (5) そこでは、存在者の「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され、真理論と認識論と存在論がロゴスにおいて一体不可分のものとして語られていたのである。  (6) そして、彼は、プラトンのイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえ、その上で、世界に生起する現象には「形相因」と「質量因」があるとして、これを分け、前者をさらに「動力因」、「目的因」に分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(『形而上学』Α巻・『自然学』第2巻第3章等)。これを四原因説という。  (7) 例えば、家という存在者の形相因は家の形そのものであり、質量因は木・鉄等の材料であり、動力因は大工であり、目的因は住むことである。その上で、存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが素材としての可能態であり、それとすでに生成したもので思考が具体化した現実態とを区別した。  (8) 例えば、家を作るため大工が木を切り倒して切り出して材木を作っても、家はまだ完成していないのであるから、それは可能態であって現実態ではない。壁や瓦などの材料と組み合わさって家になって初めて現実態となるのである。  (9) 彼は、すべての存在者が可能態から現実態への生成のうちにあり、すべて現象に四つの原因があるという。すべての現象の目的をたどっていくともうこれ以上遡ることができない究極の目的が存在するはずである。それは、すべての存在の動力因であるが、自らは動く必要がなく、自らのことだけを思惟すればよく、他のものを思惟しない質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(不動の動者)があるはずである。これを彼は「神」と呼んだ。  (10) アリストレスの学問体系は、その後、中世のスコラ学に引き継がれ、近代認識論が成立するまでは長らく支持されていたが、その後も現代にいたるまで唯物論的見地から主張された模写説(素朴実在論)・反映説(マルクス主義)や観念論的見地から主張された構成説など様々なバリエーションの対応説が主張された。バートランド・ラッセル、前期ウィトゲンシュタインも言語論の研究成果を受けて修正されているものの、対応説の一つに数えることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  質問( a ) ▲ (5) ・・・判断は真であることによって知識となるのであるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され・・・  ☆ この《真理の対応説》についてですが 《思惟と実在の一致》の当否を問います。これは 事実についての認識が その事実としての《実在》に言葉による表現として対応しているということを言っているのではないですか?  ( b ) すなわち 《事実についての認識》について 《真であるかどうかが問われる判断》を経て来ているとは言っていますが それは要するに事実認識の妥当性が問われているということであるのではないか?  ( c ) 妥当な事実認識は その対象とされた事実(つまりヰキぺの解説では 実在)とその認識内容ないしその説明内容や規定内容と過不足なく対応している。つまり マチガイなく事実(実在あるいは存在)を 合理的に説明しているという意味ではないか? つまり 《真理の対応説》がです。  ( d ) つまり (5)では 《思惟と実在との一致》というふうに《一致》という表現を用いていますが これは何も《思考(考える・つまりコギト)》が《存在(有る・つまり スム)》とひとしいと言っているのではない。  これを問います。どうでしょう。  なお (9)項における《神》の定義について ご見解がある場合 あるいはその他その他の論点についてもそうである場合には そのお考えを述べてください。互いに問い求めます。

  • エルゴ買う?買わない?迷っています。。

    3人の子供の母です。 上2人はベビーカー好きだったのですが、現在9ヶ月の末っ子の抱っこちゃんぶりに手こずっています↓↓ お出かけの時も常に抱っこ。家でも抱っこ。家事の時はおんぶ。。 一番上の子の時に買ってほぼ使わなかったニンナナンナの抱っこバンドを使っていますが、そろそろ肩が悲鳴を上げだしました。 旦那と出かけるときは交代で抱くので、長時間になると2人とも腕がダルダルです。 でも使える抱っこバンドがあるので今さらエルゴを買うのは少々もったいない気がして、なかなか思い切って買えません。 一番の迷いどころは、一人歩きでも始まったら抱っこする機会が減ってあんまり使わないような事になると本当にもったいないかな…と思うので。。(うちにとってエルゴは結構高級なので汗) 後少しの間ならこのまま頑張ろうかと思うのですが、果たしてこの抱っこの日々、いつまで続くんでしょうかねぇ…。 先が見えません(笑) 抱っこばかりのお子さんや、バギー嫌いのお子さんををお持ちの方、皆さんの経験を教えて下さい。 よろしくお願いします。

  • スム-スニットについて

    洋裁の初心者です。 先日、スム-スニットの生地を買いました。 帰宅後、生地を広げたところ、「わ」になっていました。 スム-スニットって、いつも「わ」になっているのでしょうか? 「わ」になっているので、どんな使い道がありますか? ベビーのロンパ-ス作る予定で購入しました。 どなたか、ご存知の方、教えていただけませんでしょうか? よろしくお願いいたします。

  • エルゴの抱っこ紐

    エルゴの抱っこ紐をネットで購入したいのですが偽物が多く出回っているようで、どこで購入したらいいのか分からりません。正規品が買えるおすすめのショップを教えてください。