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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:禅での「悟り」と「智慧」)

禅での「悟り」と「智慧」

tumaritou1の回答

回答No.8

二回目の回答になりますが、「修証一等」「本証妙修」と言う事を書いてみます。悩みの解消も、神経症の完治も同じ心の働きと言えます。それはお釈迦様の「一切皆苦」の解決が悟りにあったと言う意味です。 その中でも治り難いと言われている神経症の完治と言う事で説明してみます。神経症には多くの症状が在ります。それは「意識」した事が症状として顕れているせいです。ですが医学的な検査等をした場合には何処にも異常は認められません。是は医学的には異常がないと言う事になります。 ですが本人は異常を訴えています、この事を説明するなら、本人は異常を感じているという事実が在ります、症状は異常を感じている証拠となっています。処が症状には実体はないと言えます。何故ならば治った経験から言いますと、実態のないものを妄想の自分の心の中で作って苦しんでいる事です。 悩みなどや苦しみなどにも言える事です。人間の苦しみとは「今を受け入れられない事」が苦しみとなっています。その解決は実は簡単な事と言えます、悩んでいる時には分かり難いのですが、苦しんでいる事を受け入れたくない事が苦しみの元を作っています。 従って神経症の治りとは症状を受け入れた時が完治と言う事になります。症状を嫌がって心から追い出そうと言う心の働きが症状を作っているからです。症状を有っても仕方ないものと認めると言う事が治ったと言う事になります。症状が在ったままで本当は治っていた事に気が付く事が完治と言う事になります。 症状は有ってはならないもの、という決め付けが迷いと言う事になります。症状は誰にでもあるものと分かる事、或いは症状はなくすことが出来ないと分かる事、或いは症状が在ったままで既に治っていた事が分かる事が神経症の完治と言う事になります。 宗教的に言うならば救いを求めて苦しい思いをしている事が「迷いの世界にいる」と言う事です。その苦しい世界は無くならないと分かる時が「救いが成就」した事です。救いはなかったのだと体で分かる事です。もう天国は求めなくなったと言う事です、或いは地獄でも何処でも行く決心がついたと言う事になります。 元々天国にいたにもかかわらず天国を求めていた事と言えます。是が 「悟りを背にして、仏の光に照らされて修行すること、「修証一等」「本証妙修」といわれる。修行して仏になるのではなく、悟りを背にして、仏の光に照らされて修行するのである。したがって、その修行は、すでに仏であることに気づかされた本証の上の修行ということになる。」 と言う事です。元々悟っていたのにその事に気が付かないと言う意味でもあります。悟りも迷いも同じことと言う意味でもあります。確かに「悟り」はありますが、悟っている人には分かり難いと思います。「一切皆苦」と言う世界を通過しない人は元々悟っているから、分かり難いかも知れません。

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