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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:禅での「悟り」と「智慧」)

禅での「悟り」と「智慧」

noname#88701の回答

noname#88701
noname#88701
回答No.4

般若智は無分別智のことで、智慧が対象そのものになっている状態を指します。 悟りというものは、この無分別智によって直感的に把握されたものとされます。 悟りと智慧は不可分のものです。 因位には識といい果位には智という 智即ち、覚なるが由えに。 悟りとは覚性そのものとも言われます。 高度な覚性の世界がそのまま悟りの世界でもあると思います。 道元は成仏の境地に至った人と言われていますが 中国へ行ったのは、自らが得たものを確かめに行ったのではないでしょうか。 仏が仏である事を確かめてくれる人を求めて行ったのではないでしょうか。 >悟りを背にして、仏の光に照らされて・・・ 道元は、法が仏を行じる、とも言いました。 悟りの世界から仏が現れる、と言うのです。 これは従果向因の見方です。 真理を求めようとする時、真理とは不可得という形でしか現われて来ない、ただ真理に照らされている事を知るのみである。 このような境地においての座禅だったと思われます。 付け足しになりますが 般若心経の智慧の世界は二つに分けて書かれています。 般若智の表現を二つに分けています。 顕了般若と秘密般若です。 通常の言語による表現と真言による表現です。 一つのものとすれば文字般若という見方もできます。 詳しくは、窪内密雄著、般若心経のこころ、を参照して下さい。

psuedoase
質問者

お礼

お礼が遅れてしまい申し訳ありません。。 んーまだ浅い知識しかない私としては難しいですね。。 しかし、悟りと智慧は不可分だということはよく分かりました。 悟りから仏が現れるというのはなんとなく分かった気がします。 ありがとうございました!

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