• 締切済み

士族の反乱目的

明治政府ができ武士特権が廃止され、のち九州を中心に反乱が起きるわけですが、あの反乱の目的はなんだったのでしょう。 明治政府を倒す、または独自政権樹立をめざしていたのか、それとものちの講和により士族への権利をある程度認めさせるつもりだったのでしょうか。

  • napoli
  • お礼率33% (110/324)
  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数1

みんなの回答

  • snowbees
  • ベストアンサー率22% (173/760)
回答No.1

下記ウエブをお読みください。不満と陳情でしょう。出世した一部の士族に対する嫉みもあります。特に、薩長土肥では、恩賞の期待も大きいのでは。

参考URL:
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj011112.html

関連するQ&A

  • 不平士族の反乱

     某歴史参考書をボーと眺めていて、ふと、下の図が気にかかりました。「なんで、西日本なのだろうか???」という疑問が湧いてきて、また、ふと、大村益次郎を描いた司馬遼太郎の小説「花神」を、思い出し、小説の下巻を最終から逆に追ってみました。 下記はその一節です。            記  エネルギーというものは結局それが消滅するまで存在しつづける。このエネルギーの方向を倒幕にむかって方向づけたのは西郷であったが、しかしその旋回運動はなおもやまず、つぎの方向をもとめ鬱屈していた。  「つぎは反乱へむかう」  蔵六がそう予測した。  エネルギーに方向をあたえる者がつまり英雄といわれる存在であったが、いったんは倒幕へ方向づけた西郷もあとの始末にこまり、苦慮したあげく征韓論へそれをむけようとした。しかしそのことが空発してしまったあとはついにエネルギーそのものに身をまかせざるをえなくなり、明治十年の西南戦争で暴発し、エネルギーもろとも消滅した。蔵六の予言どおりであった。それが窮理学です、と蔵六はいいたいかもしれないが、しかし西郷の死よりもはるか前に蔵六は死んでしまって、その当時はいない。  しかしながら蔵六は歴史の上では西郷と相打ちであった。  蔵六の死は、いそがしい。  年表ふうにいえば、明治二年五月に五稜郭の榎本軍が降伏して戊辰戦争が終了し、蔵六の歴史における役割はおわった。で、この男は明治二年九月に遭難するのである。  榎本降伏から遭難までわずか四ヵ月しかない。この四ヵ月のあいだに、かれは新政府の軍務官副知事あるいは兵部大輔(軍事大臣)として日本の兵制をととのえ、さらにはかれがひそかに予見する明治十年の西南戦争に対してほとんどの手をうってしまった。  かれは軍事上の重要施設を東京に置かず、大阪に置いた。大阪は大阪湾にのぞむ町で、兵器や物資を瀬戸内海経由で九州へ直送することができる。  かれが大阪に置こうとした軍事施設は、陸海軍練兵所、兵学寮、兵器工場、それに火薬庫であった。火薬庫だけはその性質上宇治に置き、淀川経由で大阪へはこぶようにした。                                 (以上) 「花神」の中で、他にも、西郷隆盛の反乱を予測した前提に立った大村益次郎の行動に関する記述は何か所かあるのですが、「小説」なのだから、と思いながらも気になって、調べるとWIKにも 臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」と船越衛に後事を託した とありました。 「大村益次郎」は、質問の本旨ではありませんが、大村益次郎のことも念頭において、私が疑問に思ったのは、次の3点です。 1 参考書などで、「維新期の不平士族の反乱」は、「名字帯刀などの特権を奪われた士族の反乱」と記述されているものもあり、私もそう理解していたのですが、下の図を見て、そうではなくて、単に、薩長土肥で構成される維新政府に乗り遅れた薩長土肥の士族の反乱が主因だったのではないか???と。 2 そして、「担ぎ上げられた」という側面は否定しませんが、西郷隆盛自身にも不満があったのではないか???と。単に「乗り遅れた士族だったのではないか???」と。 3 1と2の疑問とは関係なく、そもそも、士族の反乱の主体が、「なんで九州なのだろうか???」と。「士族は全国にいたのではないか???」と。「東日本の士族にも、不満はあったけど、戊辰戦争で負けて、体力・気力ともに失ってしまったのだろうか???」と。 「正解」をお願いしますというよりは、「ご意見」をお願いします、という感じではないか???と思うのでBAは選びません。それでもよろしければ沢山のご回答をお願いします。

  • 平民の恩恵

    明治時代初頭、明治維新によって四民平等の考え方は、当時の武士階級の者達にとってはあまり喜ばしい出来事ではなかったようです。 結果的には西南戦争により士族の反乱は終結しますが、一方で国民の多くを占めていた農・工・商人などの平民の生活は明治維新によってどのような恩恵があったのでしょうか?とかくこの時代、士族にスポットが当てられ、平民の生活をうかがい知ることが難しいように感じます。 当時の平民達は職業・金銭・生活面で士族と肩を並べるだけの選択の自由はあったのでしょうか?軍・警察・官吏への登用、幹部への道など。 ただでさえ失業士族の対策に追われる政府にとって果たしてどれほどの平民救済措置が行われていたのでしょうか?一部の突出した平民がという話は聞きますが、いわゆる現代のような士族・平民の差別がなくなったのはいつ頃なのでしょうか?教えて下さい。よろしくお願いします。

  • 卒族を「士族」と「平民」に分けた。

    1872(明治5)年、新政府は、卒族の名称を廃止し、彼らを士族と平民に分けて編入する措置を進め、1875年までに完了したそうです。 分ける基準は、それまで身分を世襲していた者は「士族」に、一代限りの家臣は「平民」にしたそうです。 では、士族になった人が多かったのですか、それとも平民になった人が多かったのですか。 wiki「壬申戸籍」の「4.族籍別人口と割合の変遷」を見ると、卒族の大多数、9割以上が士族に編入されているようですが、よく分かりません。 よろしくお願いします。 「壬申戸籍」 4.族籍別人口と割合の変遷 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E6%88%B8%E7%B1%8D#.E6.97.8F.E7.B1.8D.E5.88.A5.E4.BA.BA.E5.8F.A3.E3.81.A8.E5.89.B2.E5.90.88.E3.81.AE.E5.A4.89.E9.81.B7

  • 明治維新直後の武士の生活

    明治維新後、それまでの武士階級が華族、士族、卒族の別に区分されるようになりましたが、その際、公方や藩主から貸与されていた土地や建物を明治政府に返還したのでしょうか? もしそうであれば、救済策として、代替地や住まいを明治政府から貸与されたのでしょうか?

  • 明治維新や戊辰戦争のときの町人って

    勤皇や佐幕とか明治維新や戊辰戦争というのは武士が行ったものですが。 歴史で習うこと、テレビでとりあげられることは武士や士族のことばかりです。 そのときの町人はどうしていたのですか。 戊辰戦争に参加したのは武士だけですか。町人も参加したのですか。勤皇方は長州は奇兵隊に町人もいたそうですが、他の藩から参加したのは武士だけでしょうか。 また、維新後、新政府に登用されたのは薩長ほか勤皇藩の士族だけですか、町人も登用されたのですか。 佐幕方も会津、白河、長岡とかで戦場になったのですが、戦ったのは武士だけですか、町民は農村避難していたのですか。それとも攻めてきた官軍は規律よく町人には略奪とかしなかったのですか。 また、維新後の佐幕藩出身者は士族も町人も冷遇されたですか。 会津の町人も長州を憎んでたんでしょうか。

  • 武士の凋落

    こんにちは。 時代劇で、明治初期、遊郭には武士の奥方や、娘が多かったという話が出てきましたがまじですか?その実態を教えていただければ幸いです。 なぜ誇り高い武士がそこまでしなければ生活できなかったのでしょうか?西南戦争など武士の反乱は特権を奪われたことへの復しゅうだったのか、それとも惨めな生活を強いられたことへのプライドの爆発だったのか? きたの0年でももと家老が元低い身分の男に雇われ、頭を下げているシーンが出てきますが、そういう話もご存知でしたら教えてください。 よろしくお願いします

  • 現政権が日本の権利を売り渡す事盛んにしてます。

    現政権が日本の権利を売り渡す事盛んにしてます。 衆議院予算委員会は終了してしまいました。 コロナウィルス騒ぎで政府の行こなったた政策は歴史の汚点になる可能性は大きいと思います。 古くは郵政民営化が小泉政権の時にありました。 わたしが把握してたのは水道水の権利や種子法廃止に至ったアメリカの圧力。 政府は何を考えてるのかと思います。 アメリカに守られてるから何でも従ってしまう。 本当にこれでいいのでしょうか。

  • 明治初期の戸籍

    土浦藩の明治初期の戸籍の身分表です 見方が分かりづらいのですが、士族卒族の他に兵士卒の人たちがいたみたいです その兵士卒のかたは、後に士族や卒族に分けられたということでしょうか? 因みに土浦藩には郎党や夫卒という人たちもいまして合計で800人くらいいました、城の士分、足軽とは、別の人達みたいです 私のご先祖も、土浦藩の村地域の武士でしたが、土浦藩では、どんな呼び方をされていたのか、分かりません

  • 朝鮮半島が統一となった場合の質問です。

    朝鮮半島が統一された場合ですが、 拉致問題以外に、例えば、 (1)本国への帰還推奨 (2)在日特権の廃止 (3)日本と韓国の2重国籍の廃止 (4)外国人参政権不可 (5)本国への帰還推奨 などの 日本側に残る問題点を、アメリカ・日本政府は真剣に考えてくれますかね? どうでしょうか?

  • 最後の武装蜂起?

    日本史における最後の武装蜂起は明治10年の西南戦争というイメージがありますが、そのわずか7年後の明治17年にも群馬事件や、秩父困民党事件という「革命」戦争がありました。前者は困窮した不平武士の反乱、後者は農民の困窮と自由民権運動という階層性の違いはありますが、 西南戦争の終結で日本が平和になったわけではないように見えます。 両者に共通するのは、明治政府の苛性、近代化の無理が祟っているように見えます。 幕末の終わりで歴史を切らないで、続けて観る視点は近代史学にあるでしょうか?