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士族の反乱目的
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- snowbees
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下記ウエブをお読みください。不満と陳情でしょう。出世した一部の士族に対する嫉みもあります。特に、薩長土肥では、恩賞の期待も大きいのでは。
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某歴史参考書をボーと眺めていて、ふと、下の図が気にかかりました。「なんで、西日本なのだろうか???」という疑問が湧いてきて、また、ふと、大村益次郎を描いた司馬遼太郎の小説「花神」を、思い出し、小説の下巻を最終から逆に追ってみました。 下記はその一節です。 記 エネルギーというものは結局それが消滅するまで存在しつづける。このエネルギーの方向を倒幕にむかって方向づけたのは西郷であったが、しかしその旋回運動はなおもやまず、つぎの方向をもとめ鬱屈していた。 「つぎは反乱へむかう」 蔵六がそう予測した。 エネルギーに方向をあたえる者がつまり英雄といわれる存在であったが、いったんは倒幕へ方向づけた西郷もあとの始末にこまり、苦慮したあげく征韓論へそれをむけようとした。しかしそのことが空発してしまったあとはついにエネルギーそのものに身をまかせざるをえなくなり、明治十年の西南戦争で暴発し、エネルギーもろとも消滅した。蔵六の予言どおりであった。それが窮理学です、と蔵六はいいたいかもしれないが、しかし西郷の死よりもはるか前に蔵六は死んでしまって、その当時はいない。 しかしながら蔵六は歴史の上では西郷と相打ちであった。 蔵六の死は、いそがしい。 年表ふうにいえば、明治二年五月に五稜郭の榎本軍が降伏して戊辰戦争が終了し、蔵六の歴史における役割はおわった。で、この男は明治二年九月に遭難するのである。 榎本降伏から遭難までわずか四ヵ月しかない。この四ヵ月のあいだに、かれは新政府の軍務官副知事あるいは兵部大輔(軍事大臣)として日本の兵制をととのえ、さらにはかれがひそかに予見する明治十年の西南戦争に対してほとんどの手をうってしまった。 かれは軍事上の重要施設を東京に置かず、大阪に置いた。大阪は大阪湾にのぞむ町で、兵器や物資を瀬戸内海経由で九州へ直送することができる。 かれが大阪に置こうとした軍事施設は、陸海軍練兵所、兵学寮、兵器工場、それに火薬庫であった。火薬庫だけはその性質上宇治に置き、淀川経由で大阪へはこぶようにした。 (以上) 「花神」の中で、他にも、西郷隆盛の反乱を予測した前提に立った大村益次郎の行動に関する記述は何か所かあるのですが、「小説」なのだから、と思いながらも気になって、調べるとWIKにも 臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」と船越衛に後事を託した とありました。 「大村益次郎」は、質問の本旨ではありませんが、大村益次郎のことも念頭において、私が疑問に思ったのは、次の3点です。 1 参考書などで、「維新期の不平士族の反乱」は、「名字帯刀などの特権を奪われた士族の反乱」と記述されているものもあり、私もそう理解していたのですが、下の図を見て、そうではなくて、単に、薩長土肥で構成される維新政府に乗り遅れた薩長土肥の士族の反乱が主因だったのではないか???と。 2 そして、「担ぎ上げられた」という側面は否定しませんが、西郷隆盛自身にも不満があったのではないか???と。単に「乗り遅れた士族だったのではないか???」と。 3 1と2の疑問とは関係なく、そもそも、士族の反乱の主体が、「なんで九州なのだろうか???」と。「士族は全国にいたのではないか???」と。「東日本の士族にも、不満はあったけど、戊辰戦争で負けて、体力・気力ともに失ってしまったのだろうか???」と。 「正解」をお願いしますというよりは、「ご意見」をお願いします、という感じではないか???と思うのでBAは選びません。それでもよろしければ沢山のご回答をお願いします。
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