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最後の武装蜂起?

日本史における最後の武装蜂起は明治10年の西南戦争というイメージがありますが、そのわずか7年後の明治17年にも群馬事件や、秩父困民党事件という「革命」戦争がありました。前者は困窮した不平武士の反乱、後者は農民の困窮と自由民権運動という階層性の違いはありますが、 西南戦争の終結で日本が平和になったわけではないように見えます。 両者に共通するのは、明治政府の苛性、近代化の無理が祟っているように見えます。 幕末の終わりで歴史を切らないで、続けて観る視点は近代史学にあるでしょうか?

  • gesui3
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  • ベストアンサー
  • fumkum
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回答No.2

『岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代15』の中にある、「地方自治制と民権運動・民衆運動」(松沢裕作 著)の、「はじめに」に次のような文があり、自由民権運動と、民衆運動についての現在の研究動向についてまとめられています。 この『岩波講座 日本歴史』は現在5次版が完結し、「多数の研究者・専門家が書き下ろした専門的な内容の論文を分野別・テーマ別に並べ」たものですが、現在の研究の動向をも提供しています。 「長く自由民権運動の研究の中心にあったのは、政治参加論的資格であった。すなわち、絶対主義国家=明治政府とブルジョア民主主義運動=自由民権運動との対立を基本的な構図とし、政府と民権派の政治参加をめぐる綱引きとして明治前期の政治過程を理解する視覚である。 こうした研究潮流においては、地方制度の変容は、政府と民権派の力関係の変化の結果として位置づけられることになる。たとえば、地方新法による府県会の設置は民権派への「譲歩」であり、明治一七年(一八八四)の改革による戸長の官選化は、民権派への「弾圧」の一環である、といった理解である。 しかし、一九八〇年代以降、民権研究運動は大きく変容した。第一に、民権運動と民衆運動を区別することが定着した。前者が、近代的な価値観にもとづく近代的な政治参加の運動であるのに対し、後者は近世以来の伝統的な民衆的価値観にもとづく運動であり、両者は時として「共振」「スパーク」を起こすことはあっても、それぞれ自律的な運動である、とされたのである。第二に、民権運動の画期性を、新聞、演説会といった新しい政治文化の創出に見ることである。第三に、以上の点にかかわって、民権運動を近代的な国民国家の形成運動としてとらえることである。近代国民国家の形成という目標については、政府と民権派の間には大きな差異はなかったとされ、その主導権と内容をめぐる対立が両者の対立の本質であるという理解が提示された。-以下略-」 この中の「民衆運動」とは、近世では「百姓一揆」、近現代では「農民運動」とも言われ、身近で言えば「成田闘争」にまで続くとされます。群馬事件や秩父困民党事件は「民衆運動」であり、「民権運動」との「共振」「スパーク」であると考えられています。この「民権運動と民衆運動」の違いは、農民の階層性-特に豪農と呼ばれる層の位置付け・動向がポイントとなっています。 今日は時間がなく、中途の回答ですが、しばらく時間を頂けたらと思います。なお、以下は中途ではありますが、今まで回答のために書いたものです。 慶応3年(1867)10月14日に最後の将軍である徳川慶喜が大政を奉還し、ここに江戸幕府は消滅し、江戸時代は終わるわけですが、時代区分としては近代史学ではあまり重要視しません。幕末から明治にかけては、「明治維新」または「近代国家の始まり」ととらえています。この明治維新の始まりは、嘉永6年(1853)の黒船来航におくことは学会の主流ですが、中にはアヘン戦争におく学者もいます。要は国外の圧力を受けて、封建時代から近代の国民国家体制への変換が行われ始めた時期と認識されています。 では、明治維新の終わりというと、明治4年(1871)の廃藩置県におくことが定説視されています。前代が幕藩体制と定義されていますので、幕府に続いて藩が消滅することにより、幕藩体制が崩壊したと考えられています。ここでは、慶応3年の大政奉還による区分は用いられていないのです。短い期間ですが、江戸と明治をまたいでいます。 ところで、群馬事件や、秩父困民党事件は現在2つの考え方があります。1つが自由民権運動の流れに位置づける考え方。今一つが一揆の流れに位置付ける考え方です。 明治6年(1873)に征韓論から、明治6年政変(征韓論政変)で、西郷・板垣らが下野すると不平士族と結びつき反政府活動を行います。西郷たちの士族による武力反乱の道を行くものと、板垣たちの言論による自由民権運動派に分かれますが、この時期の反政府活動を行う勢力としては、さらに農民(百姓)一揆があります。大きく分けて三つの勢力があったわけですが、この内武力反乱派と自由民権運動派は、活動の主体が士族であったことから容易に結びつきやすかった半面、農民(百姓)一揆とは一線を画しています。そのため、この時期の自由民権運動を、士族民権と定義することがあります。 これに対して農民は、明治5年(1872)の学制発布、明治6年(1873)の徴兵令の負担による負担増加に反対して多くの一揆=血税(徴兵令反対)一揆をおこした。さらに、明治6年(1873)の地租改正は、その拙速的な進行と高米価での地租決定、その後の米価の下落による負担が増加した明治9年(1876)に大規模な地租改正一揆に発展した。これに対して明治政府は軍隊を出動させて一揆を鎮圧するとともに、士族の反乱との連携を嫌って地租の軽減を実施し、反乱士族との連携阻止に成功します。 西南戦争が終了し、武力反乱が終わると、自由民権運動と農民が結び付き、豪農を中心に自由民権運動が再編され、この時期の運動を豪農民権と呼びます。この自由民権運動も過激派が台頭し、政府との対立が激化し、群馬事件や秩父困民党事件などにつながるということが今までの理解でした。

gesui3
質問者

お礼

『岩波講座 日本歴史』という最も権威ある叢書を引き合いにご回答いただき、ありがとうございます。もう5次版が完結したのですか。 そこでは、士族の武力反乱、民権運動、民衆運動の3つのカテゴリーで分析しているようですね。後者はときに合流しスパークしたり、離れたりしたとみているようですが、私の問題意識はむしろ「お上」のスタンスです。 幕末にも農民騒擾が激発し徳川幕府倒壊の原因となっていますが、それは明治時代も通奏低音として続き、内乱群の原因となっています。為政者たちは常に無理な課税を民衆に強いたのではないでしょうか。むしろ明治政府の方が顕著。それが内乱が続いた真因と見る視点の存否を問うています。 (憲法発布によって内乱がなくなったとすれば、不完全ながらも民意を国政に反映する道が少し開けた、ということかもしれませんね。)

その他の回答 (1)

回答No.1

>幕末の終わりで歴史を切らないで、続けて観る視点は近代史学にあるでしょうか? ありますと言うかむしろどこで区切るかということに関して定説がありません。 一般論として明治維新をもって近世と近代の区切りとしていますが、何時から何時までを明治維新とするか見解が分かれています。 御質問で「幕末の終わり」とありますが何時から何時までを幕末とするかも定かではないということです。 元号でいいますと明治元年に出された改元の詔書で「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となります。 改元されたのが慶応4年9月8日ですがこれを西暦で考えますと1868年10月23日に相当します。 このようなカレンダーの区分で江戸時代と明治時代を区切って考えるということはされていません。 明治維新期には中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多くの分野で変革が行われていましたので、どこまでが明治維新に含まれるのかは分野毎に違ってきます。 >西南戦争の終結で日本が平和になったわけではないように見えます。 両者に共通するのは、明治政府の苛性、近代化の無理が祟っているように見えます。 変革期ですので新政府の苛性や近代化の無理というよりも改革に取り残されたり適応できない階層が生まれて騒乱が起きるのはやむを得ませんでした。 武士であるというだけで収入(俸禄)が保証されていた階層の人達の収入が廃藩置県で途絶えました。 これに代わるものとして公債が支給されましたが(俸禄処分)満足なものではありませんでした。 一方地租改正が行われ、従来は村落単位で米で収めていたものが個人単位で現金による納税となり百姓、町人階級の人達が困窮しました。 言い換えると新政府になった結果膨大な数の貧窮者が生じました。 ご指摘のようにこれ等の人達が徒党を組んで騒乱を起こしたり現代でいうテロ行為に走りました。 騒乱の規模は西南戦争に比べれば小規模なものでした。 やがて自由民権運動という政治闘争に代わっていきました。 憲法が制定され国会が開催されるようになって武力闘争は終焉しました

gesui3
質問者

お礼

ありがとうございます。 やっと歴史学の分かる人の回答を一件いただけました。 そうです、明治維新の始期と終期自体に多様性があります。 ただ、西南戦争で内乱が終わったかのごとき描かれ方がドラマなどでされることへの違和感からの質問でした。 自由民権運動は武装闘争に走り、政府打倒から天皇制否定という思想性までも伴って、刀を抜いての「戦い」であったことに留意しました。

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