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悪意に基づいて行動できないのはなぜでしょう
人はどうして悪に基づいた行動が取れないのでしょうか。 例えば、どんな悪人と言われる人もその人なりにはその行為を正しいと思っていたり、正当化したりします。 正当化するという意味で当人にとって正当な行為を行っているのです。 悪をなそうと悪事を働く人を自分も含めてみたことがありません。 悪の反対を善とするなら、なぜ人は他人の評価はどうであれ「良い」、「善」、「正しい」という行為しか選択できないのでしょうか。
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私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >そもそも、絶対的な善悪というのはあるのでしょうか? あっても無くてもどっちでもいいと思いませんか? 相対であろうと絶対であろうと私たちは善悪に縛られているのですから。 >善も悪も自分自身のエゴを中心にした相対的な思考だから、「悪意に基づいた行動ができない」のではないでしょうか。 この結論に至るのがちょっと良く分からないのです。 どんな悪事も見方によって善になりうるという意味でしょうか。 他者から見ればそうかもしれませんが、判断しているのは当人なので当人にとって悪であるはずがないと思うのです。