• ベストアンサー

インパール作戦の目的は何だったのでしょうか?

第二次世界大戦中のインパール作戦の目的は何でしょうか? ビルマからアラカン山脈を越えて、インドのインパール、コヒマを占領するのが目的でしょうが、 そんな出城のようなものを作ったとして補給がのぞめないので、巻き返しをはかる敵に包囲されてすぐに失ってしまうと思うのですが。 インパール、コヒマを占領したあと、どうする予定だったのでしょうか? さらに進撃をもくろんでいたのでしょうか。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.1

まさにその通りです。作戦が成功できても 結局は破滅します。そういうダメダメな作戦なんで 何人も反対したのですが、派閥・人脈がものを言って 牟田口のバカアイデアが通っちゃったというものです。 基本的な目的は、援蒋ルートの遮断ということなんですが、 ま、糸じゃないんだから、切ったら終わりってわけにはいきません。 同地域を制圧し続けなければならず、 その後のベトナム戦争の経験から言えば、 現地民の100%の協力なくして全く不可能なので、 日本軍には援蒋ルートの遮断そのものが実現困難だったいえます。 妨害程度はできたとしても、道が変わるだけです。 ちなみ援蒋ルートってのは中国(国民政府)に対して アメリカ、イギリスら連合軍が物資(武器・食料・医薬品等々)援助するための輸送路のことです。 当時の日本軍には支配地域を広げる余裕は全く無くて、 むしろ狭めたいというのが本音だったのですが、 ”転進”を嫌ったので、薄くひろーい防衛線をはって、 結局は大半が壊滅してしまうわけです。ま、終戦まで戦っただけ驚異的ですが 連合軍のほうは飛び石作戦よろしく、大きな損害の出るような性急な攻撃をしなかっただけというのもありますが。 側面

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (5)

noname#51386
noname#51386
回答No.6

>第二次世界大戦中のインパール作戦の目的は何でしょうか? 目的はとくにありません。 インパールをとれば武名が上がるという牟田口閣下の功名心。 それに河辺と参謀本部が乗っかった。 >そんな出城のようなものを作ったとして補給が・・・。 仰せの通り。 >インパール、コヒマを占領したあと、どうする予定だったのでしょうか? 考えていません。 何とかなるでしょうという無責任な話。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#125540
noname#125540
回答No.5

インパール作戦についてはよく存じませんが、無謀な作戦だったということで有名ですから、「なんでこんなことを???」と言いたくなるのは分かります。 しかし日本の戦い方全般において、補給が弱い&軽視しがちでしたから・・・・ 陸軍だけでなく海軍も。 ちょっと本を読んだだけでも「なんでまた・・・」「これはちょっと・・・・」というのが多いです。 渦中にいないで、後から読むからそうなのかな????

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

中国国民党軍への補給(援蒋ルート)を断つこととチャンドラボース率いる インド独立運動勢力を巻き込むことの2つが目的だったと思いますが。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • Yelm
  • ベストアンサー率19% (63/324)
回答No.3

純軍事的に見ると、大河メコンに分断された平野であるビルマは守りに不適な地形のため、ビルマ=インド間の交通の要衝であるインパールを制圧・維持することでビルマを守るという、攻勢防御そのものは合理性が無いわけでもありません。 逆を言えばそれ故にこそ、実現可能性には疑問のある計画が通ってしまったと言えるわけです。 日本陸軍が組織面で参考にした帝政ドイツ軍の参謀総長であったシュリーフェンは「必要であることは実行可能だ」と説き、それで実現可能性の薄いシュリーフェンプランにのめり込み、結果的に国策を誤らせる一因となりましたが、日本陸軍はそういう帝政ドイツ陸軍の悪い部分も引き継いでしまったと言えるでしょう。 それとやはりインパール作戦の二年前、ビルマのイギリス軍があまりにあっけなく崩壊した「過去の経験」もあったでしょう。 勿論、ビルマ戦時とインパール作戦時のイギリス軍は全く別物ですが、やはり「華々しい成功体験」と言うものは、簡単には無くならないものであり、その再現を夢見てしまうものなのです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • misa-on28
  • ベストアンサー率35% (227/640)
回答No.2

もともとの目的はビルマに最も近い連合軍根拠地のインパールを占領することでビルマの防衛をより安泰にすると言うものでした。 もちろん補給困難は作戦開始前から分かっていたことで、牟田口司令官は補給不能を理由に作戦に反対した参謀長小畑信良少将を罷免して作戦を進めました。 少なくともビルマ方面軍まではインパール占領までを目的とし、それ以上のインド侵攻はしないと言うことでしたが、第15軍の牟田口司令官だけはインパールからディマプールまで攻略のうえチャンドラボースのインド国民軍を進撃させると言う構想を持っていました。 補給計画も無く、運搬に困難として大口径の大砲も持たず、直接の司令官と上級司令部の目論みが乖離しており、しかも司令官が上級司令部の方針と異なった命令を平気で出すと言うとんでもない状態ですから、これで勝てる訳が無いと言うことになってしまいました。 と言う訳でインパール占領後は 大本営からビルマ方面軍まではインパール維持によってビルマ防衛を安泰にする。 第15軍牟田口司令官はさらに進撃をもくろむ。 という、ちゃんとした予定と言うか目論みがあったとは言えない作戦指導だったと言うことだったようです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 連合軍はジャングルでどうやって物資を輸送した?

    「第二次大戦中、連合軍は大量の自動車を配備し、物資を豊富に輸送できた。いっぽう日本軍は自動車が不足し、人力に頼らざるを得なかったため物資が欠乏した。」 と太平洋戦争の本には良く書いてあります。  しかし太平洋戦争で戦場になったのは、道路が殆ど整備されていない険しいジャングルや孤島だったはずです。こんな所に大量のトラックを持ってきても使いものにならないのではないでしょうか?実際大量の物資を連合軍はどうやって輸送していたのでしょうか? P.S.・・・特に不思議なのがビルマ戦線です。ビルマからインドへの道は険しい密林山岳地帯であり、牛や人力による日本軍の補給は困難を極めインパール作戦は失敗しました。しかし翌年になると英軍の大部隊がインドからビルマへ進撃してきました。戦車も沢山居たそうです。どうやって持ってきたのでしょう?

  • 独立自動車大隊

    私の故祖父は第二次大戦中、独立自動車第102大隊というところに所属していて、ビルマのインパール作戦に参加しました。しかし、私は知るのはそこまでで、いったい祖父がどのような場所でどのような任務をしていてのかがとても気になります。どこかで、大隊や中隊の行動を調べられる所や方法をご存知な方はいらっしゃいますでしょうか?よろしくお願い致します。

  • 第二次世界大戦で日本が戦った国は?

    第二次世界大戦で日本が戦った国は 中国、米英、オーストラリア、ソ連、それ以外にどこがありますか? フランスとは戦いましたか? インド、フィリピン、ビルマ、インドネシアなどとはどういう関係になりますか。 よろしくお願いします。

  • 大戦の戦死者の6,7割は餓死?

    第二次世界大戦で死んだ日本の兵隊さんの死因のナンバーワンは餓死で、その割合は6,7割だったと聞きました。 それって本当でしょうか?? だとしたら、日本の兵隊は敵との戦死ではなく、無謀な作戦に殺されたってことですよね。もっといえば、そんな無謀な作戦を考えた参謀ってことですか?

  • インパール作戦

    インパール作戦で日本が負けた要因を教えてください。

  • インパール作戦から

    インパール作戦はなぜおこなわれたのでしょうか? 近代兵学を知っているものならば 無謀だとはわからなかったのでしょうか? 牟田口の狂信的な熱意に大本営もビルマ方面軍も呑まれてしまったのでしょうか? そしてなぜ早く作戦中止にできなかったのでしょうか? 牟田口がガンだったのでしょうか? そのおかげでたくさんの兵隊さんが飢えて倒れて ビルマ街道は白骨街道と呼ばれるようになってしまいましたね。

  • インパール作戦から

    インパールから奇跡的に生還した兵士の方は、戦後問われるて牟田口の名前を聞くと激怒して「あんな奴が畳の上で死んだことは許せない!」といって涙を流したようですが、宮崎繁三郎の名前を聞くと安堵して怒りを納めたようです。その宮崎中将について教えて下さい。今日においても帝国陸軍の中では評判の良い人のようですが・・・

  • インパール作戦

    なんであんな無茶苦茶な作戦が起きたのでしょうか。 海軍のく○たと並んで陸軍の牟田○は責任も取らず 戦後を生き延びたそうですね。 あんなバカの命令で死んだ将兵達が成仏したとは思えません。 部下に暗殺されても文句言えないと思いませんか? せめて自決するとか。 こんなのがいたから自衛官の皆様が苦労してるのではないでしょうか。

  • 孤立したドイツ軍部隊の状態

    すごく気になったのですが、どこを探しても資料が見当たらないため、 ご存知でしたら教えてください。 第二次大戦末期、東西から進撃する連合軍によりヨーロッパ各地にドイツ軍部隊が本国から切り離され取り残されたようですが、以前に何かの本でブルターニュ半島のつけねの地域やチャネル諸島などにもそういった部隊があったという記述を見ました。(記憶ややあいまい) これら部隊の終戦までの戦況や補給状態、戦意、生活、包囲していた連合軍兵士との関係、兵員数、装備等わかる範囲で構いませんので教えてください。また、何か出版物ででているもの等がありましたら是非お願いいたします。

  • なぜドイツはWWIIで英国の補給線を潰さなかった

    ドイツはWWIIで世界の1/4を支配する大英帝国と交戦していました。英国本土の大ブリテン島の面積は日本の本州より小さいのです。その繁栄は英領インドなどからの収奪でした。「近代戦は補給線」というナポレオン戦争以来の大原則(クラウゼビッツ)からすれば、1)英領ジブラルタル 2)スエズ運河 を占領するべき、です。 なぜ、東側で侵攻し2正面戦争をする過ちをしたのか?それだけの軍事力兵力があれば、英領ジブラルタルとスエズ運河を占領できたはずです。 どうして、補給線を潰さなかったのでしょうか?