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第2次世界大戦での戦没者の定義 丙種合格

祖父は、終戦の直前8月5日から6日にかけての米軍空襲で、防空壕に住民を案内していて 焼夷弾にて 亡くなりました。 倒れた体の下には、残る疎開させた祖父自身の家族のための幾分の蓄えが きんちゃく袋にいれてありました。 祖父が、どういう理由で戦地に赴かずに国内にいたのかはわかりませんが、燃料問屋を商い、また酒造会社にも近かったことは分かっています。 検査にて甲ではなくて丙種なら 国内での勤めであったと最近情報をえましたが、祖父がその丙種かどうかは 何の記録をみればわかるのでしょうか。厚生労働省でしょうか? 除籍謄本でしょうか?

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  • KITAIKKI
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回答No.1

 当時の日本は「兵役法」によって、戸籍上の適用を受けるもので年齢が17歳から40歳までの男子が、特例を除いた全ての国民が兵役に服さなければなりませんでした。  当時の徴兵検査は戦争の状況により、数度の細かい変更が行われていました。あなたのおじいさまが亡くなられた当時の年齢がお幾つかは分かりませんが、確かなことは必ず満20歳(戦況の悪化により「適齢臨時特例」が公布され、満19歳に繰り下げられましたが)の「徴兵適齢」に徴兵検査を受けていたということです。  戦争が始まった昭和16年当時身体検査の区分は以下の通りでした。 1、現役に適すると認められた「甲種または第一・第二・第三乙種」 2、国民兵役に適するが、現役には適さないと判断される徴兵免除者である「丙種」 3、兵役には適さない「丁種」 4、兵役を判定しくい者であるが、翌年になれば甲・乙のいずれかに合格する見込みのある「戊種」(この場合徴収の可否が決定されるまで、毎年徴兵検査を受けなければならない)  したがっておじいさまがもし3,4,5のいずれかであったならば、とりあえずは「兵役」は免除されていたことは確実です。免除の主な基準は病気と身体検査でその詳細は省略しますが、徴兵検査は受けていたことは間違いないと思います。とはいえ大雑把に言えば、もしおじいさまが身長150センチ以下のとても小柄な方だったとか、大病を患っていたとかであれば、徴兵は免除されていたと思われます。  当時戸籍上の戸主は家族の中にその年度の徴兵適齢者がいる場合、前年の11月までに「徴兵適齢届」を届け出なければならなりませんでした。その届けはかなり詳細な、今で言う個人情報を記載しなければならなかったのですが(その詳細も省きますが)、その届けに基づいて市区町村長、実質的には戸籍係と兵事係が調査を行い、「壮丁(元気な若者といった意味です)名簿」を作成しています。  おじいさまが「服役」(刑務所みたいですが、当時は兵役に就くことをこう言ってました)または戦地へ「出兵」していれば現在の厚労省(旧厚生省)にお尋ねになれば何とかなるかとは思います。しかし「服役」の事実がないということですので、その記録を探すとなればやはり、まずおじいさまの本籍地の戸籍上の戸主(曽祖父だと思いますが)が住んでいらっしゃった市区町村に当たってみることをお勧めします。「召集」される場合でも、市区町村の各役所や役場を通して召集令状が届られるケースがほとんどでしたので、おじいさまの記録が市区町村の役所や役場に残っている可能性は大きいと思います。そのなかにおじいさまの検査結果が記載されていればいいのですが、ただし申し訳ないのですが、所有の資料にはその徴兵検査の詳細や合否の結果までその名簿に残っているかどうかという記載は載ってはいませんので、ここで明確な回答をすることができません。  また全国には予備役や退役軍人などや、第一国民兵役に服する者たち、いわゆる在郷軍人がつくる「帝国在郷軍人会」がありました。これらは現在でも各自治体の図書館などに名簿などが残っていることがありますので、その方面も一度当たって見られてはどうでしょうか。  自信のあるお答えができなく申し訳ないのですが、何かの参考になれれば幸いです。

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質問者

お礼

回答をありがとうございます。回答者さんは、おいくつぐらいの方でしょうか。^^)文字も使われる一方で、昔のことご存知で。私の余計な関心でした(失礼)。 インターネットで、不足する情報を集めたいのですが、何かHPがあればいいなと思い検索しましたが、どうも勝手がいきません。 当時を知る方に本来なら直接お会いしてうかがいたいですね。 空爆されたエリアの地図、当時祖父が住んでいたところも調べました。全国的に有名な酒造産地で、いくつかの酒蔵で資料をみると、蔵が破壊され、もう一面が焼け野原でした。 疎開させて家族の命を守った祖父、激動の時代を生きた祖父には、感謝するばかりです。

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質問者

補足

KITAIKKIさん 回答ありがとうございます。 祖父について記憶をもつ私の親の話によれば、 祖父は、兵隊服を着ていて、足にはゲートル?ガートル?という包帯のような巻物をしていました。また、焼夷弾で 防空壕の入り口でなくなったときには、ヘルメットを被っていました(血だらけ)。8月6日の朝です。だから、兵役についていたのだと想像します。 市役所に尋ねようと思います。祖父は、明治38年8月生まれ。

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