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tabioの回答

  • tabio
  • ベストアンサー率29% (5/17)
回答No.21

再度のお邪魔をします。 自殺に限定せず、勝手ながら「死」というエリアにまで若干足を広げて。 アメリカの精神科医、エリザベス・ロス(だったかな?)という人が、病気で死の宣告を受けた人の精神状態の移り変わりを調査したところ、そこに五つのステップがあることを見付けたそうです。 【否認】「クソ医者め、最近流行の誤診でもしとるんやろ。余命何ヶ月なんて、      間違いに決まっとるわい」と、自分の死を否認します。 【怒り】「なんでオレが死ななあかんねん! オレよりも先に死ななあかん奴      がぎょうさんおるんと違うんかい!」と、激しい怒りがこみ上げてき      ます。 【取引】「先生、何とか一年は保たせてくれよ。お金をたんまり包むから」。      これは先生だけではなく、神頼みをしたりして、生の引き延ばしを図      ろうとします。 【鬱】 「やっぱり、あかんのか……」と、深い悲しみに打ちひしがれ、鬱に      陥ります。 【変容】「しゃあない」と、自分の運命を受け入れ、ポジティブなほうへと精      神状態が変容します。 否認→怒り→取引→鬱→変容という五つのステップを経て死を迎えるそうですが、六つめのステップとして、死後の世界を信じる人の場合には「期待・希望」もあるそうです。 「死」というものを真剣に考えることは、すなわち、「生」というものをよりよく輝かせようとすることだと、私は思っています。そういう意味では、自殺とは何ぞやということを考えることも、案外、可なのかとも思います。 ところで、この論議を読ませていただいて、ふと、「自由」があまりにも無頓着に拡大解釈されているような感じがしました。人間は本来自由なんだ、だから生きることも自由なら、死を選ぶことも自由だろう、何を思ったって、何を行なったって自由なんだよ、みたいな。でも、生まれてきたこと、それ自体は自由意思の結果ではありませんよね。「私は私の自由意思によってこの世に生まれてきた。よって、その生を終わらせるのも私の自由だ」というのなら、何となくわかるような気がしますが。 「自由」という言葉を、この場合「権利」と置き換えてみてもいいかと思いますが、権利というものは義務の上に────。これは強引に結び付けてしまうことになるのでやめておきます。要するに、生きていることは当たり前なんだということから、すべてがスタートしているのではないでしょうか。 また、「動機と行為の一致に至上の喜びを感ずる」という文言がありましたが、これは誰しもそうだと思います。「動機と行為の一致」のあとに「目的の達成」という言葉を加えればということですが。「行為」とは「目的」を達成せんがための「手段」と考えることができますよね。 「“これをするには、あれがいる、あれがいるから、それをしないと”というのは面倒くさい事には変わりありません(それをしている間は、満たされていません)」 とありましたが、「あれがいる、あれがいるからそれをしないと」ということ、それがまさしく「行為」であり「手段」なのではないでしょうか。しかし、それで得られるという至上の喜びも、すべて生きているからこそなのだと思いますよ。もちろん、私は死んだことがありませんので、死んだ後にその喜びが得られるかどうかはわかりませんから。 ただ、浅学な私には一向わからないのは、「アッ、気が付いたら死んどった」という自殺の場合です。ま、それも死んだあとのことですから、気が付くかどうかもわかりませんが。

caballero
質問者

お礼

再びご回答ありがとうございます。死へのステップですか、知りませんでした。 >でも、生まれてきたこと、それ自体は自由意思の結果ではありませんよね。 私もそう思います。生まれたのは偶然だと。だから、自殺をしても次は選べないと思っております。「生まれる」の反対は「生まれない」だと(「死ぬ」じゃない)多くの人が語られてきたように、私もそう考えております。 >「行為」とは「目的」を達成せんがための「手段」と考えることができますよね。 書き方が悪かったです。ごめんなさい。『目的と行為が一致すること』が至上だという事です。その行為そのものが目的である場合です。非常に単純なことで、多くの人が経験しておられると思いますが、例をあげると以下です。(あくまで例えです) 一致していない場合:サッカーにおいて優勝(勝利)することを至上の目的として、サッカーの試合に臨むとき、試合をするのは勝利を得るための「手段」である。 一致している場合:サッカーをすること自体を至上の目的として、「サッカー」をする場合、試合をするのはそれが「目的」だからである。  両者の違いは明白です。前者は勝てなかったらがっかりするわけで、後者の場合は「敗北」も「サッカー」の一部なので、結果としての「勝ち負け」に左右されず、サッカーをしている間はずっと楽しい(満足している)状態なのです。彼らの場合、試合が終了すると、がっかりします。 >ただ、浅学な私には一向わからないのは、「アッ、気が付いたら死んどった」という自殺の場合です。 私も不思議に思います。ふらっと落ちるのです。「やっっちゃった!?」みたいな。私も高い所に行った時に、好奇心?で落ちそうになる10%くらいにはなります。これが、100%になってもおかしくないという(考えうる)のがおそろしい所だと思うのです。私の場合は、他にやりたい事がたくさんあるので、落ちない自信はありますが、考えるとぞっとします。 >それで得られるという至上の喜びも、すべて生きているからこそなのだと思いますよ そうです。「喜び」に限定しませんが、だからこそ、「自殺」できるのは生きているうちで、「自殺」すること自体が目的になっている人が仮に(あくまで例えです)いるとしたら、彼らには生きている間が、望みをかなえるチャンスなのです。 自殺から少しはなれたついでに言いたいのは、『やりたい(好きな)事は選べない』という事実です。わさびを好きになろうとしてもなれません。嫌なものは嫌なのです。しかしある時から、わさびが好きになっていました。勝手に、いつの間にか『好き』になっているのです(例えば)。「お前こんなん好きなん?」というようなシーンはよくあることです。 ついでに言えば、『好きになる人』も同じく選べません。

caballero
質問者

補足

お礼の補足です。目的が何らかの「結果」であれば、それに到達するまでの過程(行為)は、「手段」となり「意味」を持ちますが、目的が過程を含まない「行為」そのものであれば、「行為」はあくまで「目的」自体であり、それには「意味」はありません。分かりにくくてごめんなさい。

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