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なんで命が大切なのか分かりません。

こんにちは。 別に精神的に病んでいるわけではなく、最近ふと思ったのですが、命の大切さが分からなくなりました。 なぜ大切なのでしょう? 人はみな、「生きていれば楽しいことや、幸せなことがあるよ」と言いますが、幸せを得たからなんなのだ・・・という結論に達しました。そう考えていると、とっても孤独な気持ちになります。誰かのために何かを得たり、行ったりすることで、自分の存在意義を確かめながら生きている意味すら分からなくなります。 最近ではバイオレンスなゲームで人は簡単に死にます。映画でもそうです。 何か皆さんの考えを教えてください。なぜ命が大切なのか、そしてどんなときに大切だと思ったかなどを教えていただければ嬉しいです。

みんなの回答

noname#38692
noname#38692
回答No.22

誰かのために何かを得たり、行ったりすることで、自分の存在意義を確かめながら生きている意味すら分からなくなります。 幸せを得たからなんなのだ・・・>これらは すべて 人生の上塗り作業ではないでしょうか?それは生と言えるでしょうか コペルニクス的転回が必要?? 生の焦点を見極めなければ 世界はツルツル滑っていきますw 命もまたしかり。。 命の価値を考える前に 自分の命の性質、幅を知る必要があるのではないでしょうか

  • gooquest
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.21

「命はなぜ大切か?」 という問いには答えられません。  なぜなら、命を大切だと思う必要はないと思うからです。 「なぜ生きるのか?」 という問いに変えて答えさせていただくと、 ●それはただ「成長するため」です。 人生は楽しさや喜びだけを得るためのものではなく、悲しみや苦しみも含めた全ての経験から成長するためのものです。 >幸せを得たからなんなのだ・・・ と言われていますが、その幸せというのは現時点での自分が想像できるレベルのものでしかないと思います。成長の先にには今の自分からは想像もできない幸せ、喜びがあるのです。そんな世界があるのに命を粗末にするのはとにかく ”もったいない”とは言えると思います。

回答No.20

こんにちは。 「命は大切だ」という命題を少し分析してみます。 「命」は何をさすのか たとえば、全ての生命か、人の生命か、自分の生命か 「大切だ」とはどういうことか たとえば絶対的な大切さか、相対的な大切さか もっと細かく分析することもできるでしょうがとりあえず、これでも、「生命は大切だ」という命題は以下の3通りを含むことになります。 全ての生命が等しく大切だ 人の生命は人以外の生命より大切だ 自分の生命は自分以外の生命より大切だ 命が大切と思う人も、全ての命が等しく大切だと思う人、命によって大切さに違いがあると思う人など、様々でしょう。 逆に命は大切でないと思う人も、全ての命が等しく大切でないと思う人、人の命以外は大切でないと思う人、自分の命以外は大切でないと思う人、自分の命も大切でないと思う人など、様々でしょう。 人間は生まれながらに平等である。 なんて大嘘です。 人は生まれながらにして不平等です。生まれた時代、生まれた場所、どの親の子として生まれるか、どのような遺伝子、能力を持って生まれるか、人は自分で選ぶことはできません。 それでも、人は生まれながらに平等であるなどと言われるのは、人はなるべく平等でありたいと願っている人が多い、というだけのことです。 命が大切と言われるのも、命を大切にしたい、命以外のもの(空気、水、土、石、火、太陽、地球)よりも命を大切にしたい、命に大切な何かを感じてしまう人が、そうでない人よりも多いということでしょう。 続きはまた後ほど。

回答No.19

命が大切なのはそれに対して重みを感じるからですよ。 死にたいですか?私は死にたくないです。だから自分の命を大切に思います。そして人の立場に立って自分と照らし合わせ、この人も死にたくないんだろうなと考えます。だから人の命もそれなりに大切にします。あくまでも自分優先ですが。 >最近ではバイオレンスなゲームで人は簡単に死にます。映画でもそうです。 ゲームで殺しを楽しむ人、映画で死ぬのを見る人 その人たちもまた命の重みを程度に差はありますが感じているようです。 命に重みがあるから殺すことに快楽を得、また殺されるシーンにショックを受ける。大事なものだからいいんですよ。 >人はみな、「生きていれば楽しいことや、幸せなことがあるよ」と言いますが、幸せを得たからなんなのだ・・・という結論に達しました。そう考えていると、とっても孤独な気持ちになります。誰かのために何かを得たり、行ったりすることで、自分の存在意義を確かめながら生きている意味すら分からなくなります。 人生に意味なんてありませんよ。ただ生まれてきただけです。それに本当は気づいているから、必死に人生に意味を付けたがるんです。 だって無意味なんて嫌ですよね! すべてのことに意味があってほしいし、人間は解らないものが嫌いです。 すべて知りたい、解明したい、そういった衝動があります。だから生まれてきた意味も見つけます。結果それがこじつけでも、思い込みでも、第三者に丸投げでも(宗教)いいんですよ。 >幸せを得たからなんなのだ? それが生きる目的ですよ。すべてに人がそうです。 何に幸せを見出すかの違いであって、みんな幸せを得るために生きてるんですよ。突き詰めれば自己満足を満たすために生きてます。しかし欲は際限なく出てきます。だから際限なく生きていくんですよ。 ただ、まれに死ぬことに自己満足を得てしまうこともありますし、欲より苦痛から逃れるほうが優先されてしまうこともありますが・・・。 さらに言うと、苦痛さえも自己満足を満たすという風に、価値観を変えたりもします。 >何か皆さんの考えを教えてください。なぜ命が大切なのか、そしてどんなときに大切だと思ったかなどを教えていただければ嬉しいです。 なぜ大切なのか? 自分が死にたくないからですよ。 どんなとき大切と思うか? 死にかけたとき 他人の死を身近に感じそれを自分に置き換えて考えたとき むかし聞いた話に面白いのがあります。 人間には悲しいという感情はないそうです。 ドラマや映画で人が死ぬのをみて観客が悲しんで泣くとき 実は喜んでいるそうです。こいつは死んだ、でも自分は生きてる。 生きてる俺は幸せだな、だから嬉し泣きなんだそうです。 人の不幸は蜜の味、人間の根本を現した言葉かもしれません。

回答No.18

自分はもうダメだと思っている人でも。生きているうちは、よい方向に変わる可能性を持っています。 もう死にたいと考えている人でも、生きているうちは、死なない方向に変わる可能性を持っています。 絶対に私の性格は変わらないと信じて疑わない人でも、生きているうちは変わる可能性を持っています。 それは、あなたにも言えることですし、他の人にも言えることです。 私達の、死ぬまでの貴重な時間は現実的な可能性に満ちています。 変化するのは「こころ」です。 気持ちが変わった後、変わったと感じたとき、そのように思いました。

回答No.17

一般論としての「命」についての質問でしょうか? それともある個人についての「命」のことでしょうか? >生きていれば楽しいことや、幸せなことがあるよ」と言いますが、幸せを得たからなんなのだ sometimespage3様の幸せの定義は一体どのような事を考えられているのでしょうか? 幸せとはと聞かれて「大人になること。」と答えたマニラのストリート・チャイルドの幸せはsometimespage3様の答えに合致しているのでしょうか? 24秒に一人の子供が飢餓で死んでいるときに、「日本人」は食べ残し、余りあるほど廃棄し、満腹になってからデザートを食べる。地球の裏側まで行かなくても、東南アジアでも飢えで死んでゆく「命」との比較の上に「命」は大事かとの問い掛けをされているのでしょうか? 一つの「命」は地球より重いのか、羽より、いやタンポポの種より軽いのでしょうか? 回答者の皆様のお答えは、目の前の「命」について語られているように思われます。即ち、家族・知人・恋人などについては正しいのでしょう。しかし、見えない所の「命」についても考えた時には、少しも大事に思っていない、若しくは知らないで通り過ぎてゆく。牛肉100グラム食べると言う事は、人間の食べられる穀物1.5キログラム消費することになります。と言う事は我々日本人は「眼に入らない命」を食べて幸せな事があると言っている様に思えませんか? 仰る様にバイオレンス・ゲームや映画等で簡単に殺してしまうのには私も眉を顰める一人ですが、それだけでなく日本に現在生きているものとして無知であってはならない事柄もあるという認識も必要だと思っています。其の上で「命」は大事かと問われると、困惑の方が先に立ってしまいます。 強引にお返事するとすれば、“大事に思っているけれど、ちっとも大事にしていない自分がある。”と言う事でしょうか・・・ 質問ばかりでまとまりが無くてすみません。お返事になっていませんね。

noname#143232
noname#143232
回答No.16

あくまでも個人的な考えで「正しい」発言ではないと思うので、削除されるのを覚悟の上で意見を述べさせていただきます。 病んでる考えであることは重々承知のうえです。 命がなぜ大切か? 多分この答えは永遠に出ないと思います。 人間というのは答えのない疑問をあえて抱くようにプログラムされた哀れな生き物のようにも感じます。 もう悩むのも面倒臭いから宇宙まるごと消滅してしまえば、全て解決するんじゃないかなと自分は考えてます。 命が大切かどうかという以前に命という概念すらない世界だったらよかったのにと思います。 回答になってないですね。 ごめんなさい。

noname#155689
noname#155689
回答No.15

まず自分のスタンスを明確にしておきますと 私は命を大切に考えています。 ですからご質問者様にも命を大切にして欲しいと思います。 そのような前提の上にあえて考察しますが ●命は大切 という命題は普遍的なものではないと思います。 他の方も仰っていますが、過去、命を大切にしなかった時代も沢山あります。 私たち日本人だってほんの70年前には「国のために死んで来い」みたいなことを 言っていたわけです。 つまり ●命は大切 というのは過去の戦争体験等の反省から来る 現代人の「願い」「約束」「規範」だと思うのです。 ですから、命の大切さを考えて、その根拠を見失うことは 決しておかしいことではないと思います。 絶対的根拠はないわけですから。 私はむしろ「命は大切」と無根拠に信じてしまう感性の方が 危ないのではないか?ぐらいに思います。 そういう感性は、「国のために命を捧げろ」という時代には 国のために命を捨てろと無根拠に信じかねないと思うのです。 ただ、とにかくも、私たちは自分の意思とは無関係に命を授かりました。 存在が意味に先立つのであり 存在に意味を与えていくのは個人の生き方だと思います。 私は、どうせこの世の生を授かったのであれば 納得いくまで生きて行きたいと考えています。

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.14

sometimespage3 さまが述べている「命」とはおそらく物質的、肉体的なものについてだと思います。 人の本質、つまり意識、精神が物質的肉体にある思っている限り、ご質問の答えはいつまでも分からないのではないでしょうか。 私は、人の本質つまり精神、意識は物質的肉体を越えたものだと思っています。 ですから肉体が滅んでも(死んでも)人の本体つまり意識(魂)は存続し、向上し続けると認識しております。 そして人の真の幸せとは、自分自身の魂の向上、進化を心からしみじみと感じられたその瞬間にあると思っています。 以前より瑣末なことに心がとらわれなくなった・・・ 以前より他者にたいする嫉妬、妬みから解放された・・・ 弱者にたいする哀れみや優しい慈悲心をもてるようになった・・・ 人の心の痛みにたいし、我がことのように同情できるようになった・・ 平凡な日常の中にこそ心の平和と幸せが感じられるようになり感謝の念が増した・・ などなど・・自分自身の魂の向上が感じられるときはいくらでもあるでしょう。 そういう発見をすることこそが >楽しいことや、幸せなこと< なのだと思います。 物質的に豊かになったり、社会的に成功すること、勝者になることのみが幸せのようによく語られますが、そういう表面的な幸せには何かしら精神的な苦痛や苦労、喪失感、孤独感が伴いがちです。 そういう表面的な幸福状態で心から幸せを味わうためには、その成功するまでの過程、成功にいたるまでの他者との関係、どういう心の状態で何を目的としてきて、それが他者にどういう影響を与えて来たかが重要になってくると思います。 もし、他者をないがしろにした犠牲の上での成功ならば、心の内に平安は無く、心からの幸福は味わえません。 ですから、幸福とは運ではなく自分で作り上げていくものだと思います。 真の幸福は物質にではなく、心の中にこそ存在します。 そして心(魂)は滅びることなく、自分自身(魂)は未来永劫向上していくことが出来ます。 向上とは心の幸福度を増していくことです。 ですから魂が安定すればするほど、将来幸せ状態が増していくということです。 多分、おそらく、魂の幸福が増していけば、物質的肉体、物質的環境にもそれが反映し、やがて物質的にも心の幸せを伴った真の幸福を実現させることが出来ると思います。 ですから、もし現在の状況が不幸に思えても、諦めることなく自分の心の状態を幸福で満たせるように努力してみてください。 先は長いですよ。時間はいつまでもたっぷりとありますから、努力したこと、苦労したこと、悩んだことは全て無駄なく、将来に生かすことが出来ます。 焦らず、あきらめず、気長に頑張ってくださいね。 参考になれば幸いです。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.13

「大切である」、価値がある、と感じる時もあれば、吹けば飛ぶように軽く扱われる時もある。 命も他のものと同様、変動相場制を取っています。 状況次第で大切だったり大切でなかったりするにもかかわらず、それをあえて「命は普遍的に大切なものだ」と主張するのは欺瞞です。 結論を言えば、命というのは、大切か大切でないかという尺度で測るべきではないし、ついでに言ってしまえば、命というのは大切さとは全く関係のないところにある。 しかし、「大切である」という思い込みをすることによって、大切であるという考えによって、命に手が届くつもりになれるので、そう思い込んでいるのです。 幸せを得たからなんなのだ。 目先の楽しみなど長いスパンで考えると虚しいものばかりです。 こうした考えをできるのは、俗物から一歩抜きん出ている証拠なのかもしれません。 しかし、どうやらその先でつまずいている様子。 「自分の存在意義」を確かめようとしている。 存在意義もあると言えばあるしないと言えばないことになってしまう、蜃気楼のようなもんです。 そんな幻を追っかけて、確かめようとしながら生きたって、答は出ません。 どんなことも存在意義にならないし、また逆にどんなことも存在意義にしてしまうことができるのです。 生きている意味? 同じことです。 だから、誰かのために何かをしても、それに価値を置いている間はいいけれども、その相場が大暴落したら、どうなることやら。 命が大切だと思い込んでいる人達が命を大切だと叫んでいるにほかならないわけで、もし命が大切でないなどと少数派の意見を言おうものなら、たとえそれが真実だとしても大いにバッシングに遭う。だから言い出さない人も十分潜在していると思いますよ。 だから、周りの声にあまり惑わされないことですね。

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