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戦国期の兵農分離について
MUD-Waterの回答
兵農分離について10年ほど前は、農家の次男坊・三男坊を集めた兵隊という説が有力でした。 しかし、今は農家の次男坊、三男坊を集めたという説は否定されています。 井沢元彦氏の説も確か「信長は農家の次男坊・三男坊を集めた兵農分離の軍隊を作ったのだ。」というものでした。 農家の長男と父母だけで 「田起し~代掻き~籾撒き~田植え~雑草取り~稲刈り~乾燥~脱穀~籾摺り~精米」 の作業をすることは不可能です。 当時、一般の民衆の大部分は農民であり、土地に密着していました。 従って、兵農分離が出来る職業と兵農分離が出来ない職業があった。 土地をもった農民兵は、農繁期には自分たちも田畑を守らなければならないので、農繁期は田畑に帰らなければなりません。 よって1年中の戦争はできません。 必然的に兵農分離か可能な雇われ兵は定住地を持たない人々を雇わなければなりません。 当時、土地を持たず、定住地を持たなくても生活を成立させることができる職業は数限られていました。 輸送業者、托鉢などを生業とする僧侶、油など特殊な独占事業をもった神社関係です。 (油の専売は八幡神社関係者が独占販売していた。) 信長は熱田神宮に深く関わりを持つ家筋であったため、わたり、山人、坂の者、神社の神人などと呼ばれる農地を持たない特殊な人々を集めるのに極めて優位な立場にありました。 神社の神人は神社に仕える人々で油などの独占商品の販売に携わる人々、わたりは陸運に携わる人々、山人は鉄鋼や鍛冶、鉱山開発に携わる人々、坂の者は甲冑製造などに携わる人々です。 信長は、坂の者を多く熱田神宮の所領に住まわせ、その棟梁の娘を側室にしていた。(信長公記) 信長軍の遊撃隊はほぼ神道に関わる人々によって構成されていました。 佐治水軍や川並衆などもこの部類の人々に属し、彼らは神社と深いかかわりがありました。 河野水軍が大山祇神社を奉じ、熊野水軍が熊野権現を奉じたように、尾張の物流業者も熱田神宮や津島神社と深いかかわりがあったのです。
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