- ベストアンサー
戦国期の兵農分離について
outerlimitの回答
- outerlimit
- ベストアンサー率26% (993/3718)
井沢元彦の「逆説の日本史」シリーズ 特に文庫版の最新刊をお読みになるのがよろしいでしょう 兵農分離は、織田信長以前は そのような発想すらなかった 信長の時代でも、やりたくてもできなかった 傭兵比率は、雇い主の経済力そのものです(生産には全くかかわらず、ただ消費するだけの集団ですから、それを維持する費用をどう捻出するか、捻出できるか) 農繁期に戦闘を行っていれば、それは農民兵ではありえません 刀狩の目的は 兵農分離よりも 認められた武士以外の 武装解除です
関連するQ&A
- 戦国期の兵農分離について
戦国期の兵農分離について 巷では農民兵で構成されている戦国大名は、 農繁期には軍事行動できないという定説が主流であり、 それは代表的戦国大名の軍事行動でも証明されています。 が、数々の戦があった室町時代初期から応仁の乱に至るまで、 また上洛した大内義興についても、軍事行動が農繁期に当たっていることがありますが、 この矛盾はどう説明されるのでしょうか。 応仁の乱で足利将軍の権威が完全失墜して、戦国時代へと転換する過程で、 軍の編成に変容があったのでしょうか。 そもそも鎌倉時代や室町時代に戦に駆り出された末端の兵士達は、 戦国期と同様農民兵達だったのでしょうか。 ご回答願います。
- ベストアンサー
- 歴史
- 戦国時代、兵農一致の大名でも農繁期や長期の軍事行動が可能だった理由
一般に兵農分離の織田家以外は、農閑期しか行軍できないとされていますが、全国所々で農繁期や一年丸々の対陣が行われています。 (武田や毛利、上杉など) 農民主体の軍では物理的に農繁期は田畑を離れられないのに、何故そんな事が可能だったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 羽柴秀吉の苗字の由来
羽柴秀吉の「羽柴」という苗字は、柴田勝家と丹羽秀長から一字ずつもらって付けたと聞きます。 しかし、当時の織田家の序列を考えると、地位の高い「柴」田の方を下に置くのは、随分と失礼な話だと思うのですが、何故この並びになったのでしょうか? 最終的には天下人になった秀吉ですが、少なくともこの時点では織田家の家臣として生涯を終えられるだけでも充分だったわけです。そのような中で織田家の譜代の重臣である勝家の不興を買うような真似は避けるべきだと思うのですが、何か特別な意図があったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 信長の兵農分離と生糸は、関係ありますか?
先日、NHKラジオで加藤某氏は、下記のような講演をしていました。(聞き間違っているかもしれません。) この説明では、生糸が兵農分離に影響を与えた、ということで、この様な説明は今まで読んだことがありませんでした。考量すべきことなのでしょうか?、諸兄の御意見をお聞きしたいです。 * 濃尾平野には、狭い間隔で、3本の大河が走っており、たびたび洪水を起こしていた。 その際、稲は根が浅いので流されてしまう。桑は根が深いので流されないので、稲でなく桑を栽培していた。 桑の栽培から、蚕の育成、生糸の製糸、機織りまで、女性の仕事であった。男性は暇まであり、土着性が無い。 したがって、信長は、兵農分離が容易にでき、常備軍を作ることができた。
- ベストアンサー
- 歴史
- 長篠合戦 武田軍の敗因は?
長篠の合戦で武田軍は何故敗れたのでしょうか? そもそも織田信長による鉄砲隊の一斉射撃は無かったわけだから だとしたらいくら勝頼が愚将でも山県や飯富、馬場美濃に高坂といった武田二十四将や 甲陽五名臣といった最強クラスの武将が そうあっさりと織田 徳川軍に負けるでしょうか? 織田軍には当時 中国計略中の羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家 前田利家らのエース級の武将が不在だったわけで どう見ても織田軍に勝ち目はなさそうなのですが…
- ベストアンサー
- 歴史
- 豊臣秀吉と織田信長の息子達との関係
日本史にあまり詳しくありません。質問よろしくお願い致します。 織田信長が本能寺の変で自殺した後、豊臣秀吉が彼の後継者として諸侯をまとめ天下統一したことは 誰でも知っている話ですが、そもそも織田信長には自分の息子がいますよね? なぜ信長の息子たちが後を継がず秀吉が後継者になれたのでしょうか。 信長の息子を差し置いて秀吉がしゃしゃりでたら秀吉には後継者を名乗る道理も大義もないと周囲から非難されそうだし、秀吉が信長の息子をリーダーに立てて織田の名の下に天下統一、ということにならなかったのは理由があるのでしょうか? もう一つ、柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 戦国武将の具足。
信長や秀吉が活躍した戦国時代、大名やその近習たちが着用した具足について教えてください。 1.総大将や大将クラスの武将は、どんな時に具足を着用したのですか。 戦場の陣地では常時、具足姿で指揮していたのですか。 真夏では暑くて堪らない、敏捷に動けない、のではないかと思います。 いざ出陣で、城館を出るときの具足はいわば儀式用で、戦場用とは異なるのですか。 2.軍服の階級章のように、具足を一目見ると、位 (序列) を識別できたのですか。 そんな識別は無かったように思うのですが、それでは、下位の者が、上位の人の具足より立派な具足を着用することが無いように気遣いしていたのですか。 例えば、信長配下の武将では、織田信孝、丹羽長秀、秀吉、光秀、柴田勝家、滝川一益などが一堂に会するときです。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
経済力に着目したご意見は納得でした。 誤解とy有り難うございます。