- ベストアンサー
戦国期の兵農分離について
kawakawakawa13の回答
- kawakawakawa13
- ベストアンサー率25% (514/2010)
織田信長の行った兵農分離の最も特徴的なのは、「季節に関係なく兵を動かせる」ことです。 それ以前では、農繁期に兵を動かすことは、農業生産高の低下を意味し、商工業の未発達な地域においては致命的ですらありました。 「楽市・楽座」の政策により、農業以外の産業を振興させることで、「ものを加工し、作り、それらを売ることにより」より大きな人口を養う力を得、「季節に関係なく兵を動かせる」ことにより、相手を消耗させ、より少ない兵力で相手を圧倒することを可能としました。 ですから、織田軍制内において、常備軍はほとんど職業軍人であり、同盟軍や外様武将では従来どおり農民兵です。 国を与えられた武将は、兵を自ら用意する必要がありましたが、その他は部下を与えられ、指揮官という立場で参戦したようです。
関連するQ&A
- 戦国期の兵農分離について
戦国期の兵農分離について 巷では農民兵で構成されている戦国大名は、 農繁期には軍事行動できないという定説が主流であり、 それは代表的戦国大名の軍事行動でも証明されています。 が、数々の戦があった室町時代初期から応仁の乱に至るまで、 また上洛した大内義興についても、軍事行動が農繁期に当たっていることがありますが、 この矛盾はどう説明されるのでしょうか。 応仁の乱で足利将軍の権威が完全失墜して、戦国時代へと転換する過程で、 軍の編成に変容があったのでしょうか。 そもそも鎌倉時代や室町時代に戦に駆り出された末端の兵士達は、 戦国期と同様農民兵達だったのでしょうか。 ご回答願います。
- ベストアンサー
- 歴史
- 戦国時代、兵農一致の大名でも農繁期や長期の軍事行動が可能だった理由
一般に兵農分離の織田家以外は、農閑期しか行軍できないとされていますが、全国所々で農繁期や一年丸々の対陣が行われています。 (武田や毛利、上杉など) 農民主体の軍では物理的に農繁期は田畑を離れられないのに、何故そんな事が可能だったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 羽柴秀吉の苗字の由来
羽柴秀吉の「羽柴」という苗字は、柴田勝家と丹羽秀長から一字ずつもらって付けたと聞きます。 しかし、当時の織田家の序列を考えると、地位の高い「柴」田の方を下に置くのは、随分と失礼な話だと思うのですが、何故この並びになったのでしょうか? 最終的には天下人になった秀吉ですが、少なくともこの時点では織田家の家臣として生涯を終えられるだけでも充分だったわけです。そのような中で織田家の譜代の重臣である勝家の不興を買うような真似は避けるべきだと思うのですが、何か特別な意図があったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 信長の兵農分離と生糸は、関係ありますか?
先日、NHKラジオで加藤某氏は、下記のような講演をしていました。(聞き間違っているかもしれません。) この説明では、生糸が兵農分離に影響を与えた、ということで、この様な説明は今まで読んだことがありませんでした。考量すべきことなのでしょうか?、諸兄の御意見をお聞きしたいです。 * 濃尾平野には、狭い間隔で、3本の大河が走っており、たびたび洪水を起こしていた。 その際、稲は根が浅いので流されてしまう。桑は根が深いので流されないので、稲でなく桑を栽培していた。 桑の栽培から、蚕の育成、生糸の製糸、機織りまで、女性の仕事であった。男性は暇まであり、土着性が無い。 したがって、信長は、兵農分離が容易にでき、常備軍を作ることができた。
- ベストアンサー
- 歴史
- 長篠合戦 武田軍の敗因は?
長篠の合戦で武田軍は何故敗れたのでしょうか? そもそも織田信長による鉄砲隊の一斉射撃は無かったわけだから だとしたらいくら勝頼が愚将でも山県や飯富、馬場美濃に高坂といった武田二十四将や 甲陽五名臣といった最強クラスの武将が そうあっさりと織田 徳川軍に負けるでしょうか? 織田軍には当時 中国計略中の羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家 前田利家らのエース級の武将が不在だったわけで どう見ても織田軍に勝ち目はなさそうなのですが…
- ベストアンサー
- 歴史
- 豊臣秀吉と織田信長の息子達との関係
日本史にあまり詳しくありません。質問よろしくお願い致します。 織田信長が本能寺の変で自殺した後、豊臣秀吉が彼の後継者として諸侯をまとめ天下統一したことは 誰でも知っている話ですが、そもそも織田信長には自分の息子がいますよね? なぜ信長の息子たちが後を継がず秀吉が後継者になれたのでしょうか。 信長の息子を差し置いて秀吉がしゃしゃりでたら秀吉には後継者を名乗る道理も大義もないと周囲から非難されそうだし、秀吉が信長の息子をリーダーに立てて織田の名の下に天下統一、ということにならなかったのは理由があるのでしょうか? もう一つ、柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 戦国武将の具足。
信長や秀吉が活躍した戦国時代、大名やその近習たちが着用した具足について教えてください。 1.総大将や大将クラスの武将は、どんな時に具足を着用したのですか。 戦場の陣地では常時、具足姿で指揮していたのですか。 真夏では暑くて堪らない、敏捷に動けない、のではないかと思います。 いざ出陣で、城館を出るときの具足はいわば儀式用で、戦場用とは異なるのですか。 2.軍服の階級章のように、具足を一目見ると、位 (序列) を識別できたのですか。 そんな識別は無かったように思うのですが、それでは、下位の者が、上位の人の具足より立派な具足を着用することが無いように気遣いしていたのですか。 例えば、信長配下の武将では、織田信孝、丹羽長秀、秀吉、光秀、柴田勝家、滝川一益などが一堂に会するときです。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
信長の経済力に注目して戦争のプロ集団を創り上げようとしたというのは納得です。 有り難うございました。