信長の兵農分離と生糸の関係は?

このQ&Aのポイント
  • 信長の兵農分離と生糸の関係について、NHKラジオでの講演で新たな説明がなされました。
  • 生糸が兵農分離に影響を与えたという説明はこれまでになかったものであり、考慮すべき点です。
  • 桑の栽培から生糸の製糸、機織りまで女性の仕事であったことから、信長は兵農分離が容易にできたのです。
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信長の兵農分離と生糸は、関係ありますか?

先日、NHKラジオで加藤某氏は、下記のような講演をしていました。(聞き間違っているかもしれません。) この説明では、生糸が兵農分離に影響を与えた、ということで、この様な説明は今まで読んだことがありませんでした。考量すべきことなのでしょうか?、諸兄の御意見をお聞きしたいです。   * 濃尾平野には、狭い間隔で、3本の大河が走っており、たびたび洪水を起こしていた。 その際、稲は根が浅いので流されてしまう。桑は根が深いので流されないので、稲でなく桑を栽培していた。 桑の栽培から、蚕の育成、生糸の製糸、機織りまで、女性の仕事であった。男性は暇まであり、土着性が無い。 したがって、信長は、兵農分離が容易にでき、常備軍を作ることができた。

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  • tanuki4u
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回答No.2

牽強付会 って感じですよね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9 「幕府は蚕種確保のため、代表的な産地であった旧結城藩領を天領化し、次いで同じく天領で、より生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みた。これに対して仙台藩、尾張藩、加賀藩といった大藩や、上野国や信濃国の小藩などが幕府からの圧力にも拘らず、養蚕や絹織物産業に力を入れたため、徐々に地方においても生糸や絹織物の産地が形成された。」以上引用 引用文から推測されるのは、 江戸時代初期において有力な養蚕地区は 結城藩 陸奥国伊達郡であり、尾張藩領は有力な養蚕地区ではなかった、だから天領にもされず、尾張藩は幕府の圧力にもかかわらず養蚕に力を入れた。 勤勉革命 日本国内における生糸の生産は、実証的研究で江戸時代以降盛んになったとされています http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A4%E5%8B%89%E9%9D%A9%E5%91%BD 元の研究内容が見つからなかったが、 「江戸時代濃尾地方農村部に人口の増加に伴う家畜の減少を観察した歴史人口学者の速水融」に対して、生糸などの生産物での補強を行ったのが川勝平太。 こういった研究がなされるということは、江戸時代の直前においても濃尾地方で生糸生産が盛んであったというのは考えられない。 ※ そもそも信長の兵農分離ってのもどうなのよ?って感じですから。

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございました。 詳細に追いかけて頂いたように、 <江戸時代の直前においても濃尾地方で生糸生産が盛んであったというのは考えられない。> ということですね。 あの説明は <牽強付会> だったのですね。

その他の回答 (5)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

http://www.tvt.ne.jp/~gobanten/nae/ 「桑を栽培するうえでまず大切なことは、適地を選んで植裁を行うことが肝要であります。山桑の自生地をみると、石の多い傾斜した山を好んで多く生え育っております。このことを考えると、水はけのよい場所が栽培地の第一条件と思われます。湿田や平坦で水はけのよくない土地は、植裁を避けるのが賢明でしょう。」 洪水がたびたび起こるような場所に桑を植えるわけがない。 戦国時代で言うと、東濃の兼山あたりが生糸の生産地(濃尾平野に木曽川が出てくるような山麓部)で、明治以降も愛知県では三河地区が主生産地。三河というと、明治になって明治用水なんてのが作られるまでは水田に向かない地区だった≒水はけの良い土地

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 桑の栽培について、 <洪水がたびたび起こるような場所に桑を植えるわけがない。> なのですね。 兵農分離とは何の関係がないのですね。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.5

題「兵農分離について」 戦国時代の下級武士・農民兵は、村に住み、大名(支配者)側についたり、村(被支配者)側についたり、ふらふらした存在でした。大名側から見たら、戦争になった時に本当に何人来るかわからないし、長期の戦争になると「村へ早く帰りたい」とワガママを言い、勝手に敵地での略奪に励んで肝心な任務は手抜きのええ加減な兵隊。村側から見たら、時に、村を裏切って大名の手先になる厄介者。 この下級武士・農民兵の何割かを、完全に大名側にして城下町に住まわせて、武士化して、組織的な統治と戦争のための手足とするのが「兵農分離」でした。 「兵農分離」後の下級武士は、組織的にきっちりと徴税し、組織的にきっちりと戦いに参加するようになって、統治能力も戦争能力も高まりました。一時的に。 ☆村から離れた武士は、後に、村の正確な生産力を把握できなくなり、また、村をコントロールできなくなり、江戸時代は合法的な脱税が横行した時代になりました。

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 兵農分離により、下級武士について、 <統治能力も戦争能力も高まりました。> ですね。 そして、 <合法的な脱税> にも関連してきたのですね。これは、今まで想いもよらなかった説明でした。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.4

すでに指摘があるように、信長による兵農分離は史料的根拠のない俗説となっています。 したがってまったく意に留める必要はありません。 加えて言うならば、桑や生糸云々もまったく史料的な裏付けのない話で、もはや妄想の域に達しています。

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございました。 <信長による兵農分離> も <桑や生糸云々も> <史料的根拠のない> ものなのですね。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.3

信長の兵農分離という俗説なのですが・・・・ 1,この説は、 「上杉や武田の農民兵は農繁期に出兵できない。信長の常備軍のみ出兵できる。」 なのですが、 上杉対武田の川中島の戦いは、5回ともすべて出兵期間に重なっています。つまり、上杉も武田も農繁期に当たり前のように農民兵が出兵していた、と言うことです。 2,信長兵農分離説を主張していた歴史学者小和田哲男先生も、2008年の著作では、「信長の兵農分離は、尾張で数百人。」と、実質的には撤回しています。豊かな一国で数百人程度なら、どの戦国大名でもあり得ますから。 3,日本の戦国の傭兵は、西洋的な賃金払いの契約による職業傭兵とは異なり、農村から出兵する略奪目的の不安定雇用の農民兵であります。 4,おそらくすべての中学校教科書に、「兵農分離は豊臣秀吉。身分制度のため。」と書かれており、その通りなのでしょう。 ☆豊臣政権での兵農分離後でも、戦争への農民の参加の強要?は続いており、兵農分離は、農民を戦争に参加させない、のではなく、戦争に参加する家を確定するためのものだったのでしょう。中国でも東ローマ帝国でも似た政策がありますし。

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございました。 そもそも、信長の兵農分離はは俗説で、すなわち正しくない、ということですね。 兵農分離は、信長が実施したのではなく、かつ軍事上のためでなく、 <豊臣秀吉。身分制度のため。> ということですね。

  • DESTROY11
  • ベストアンサー率23% (785/3380)
回答No.1

生糸による収入のおかげで、職業軍人を養うだけの余裕があった。というのかもしれません。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 なるほど、生糸の生産・販売により税収が増え、財政の余裕ができ、職業軍人・常備軍を維持できた、ということですね。

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