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戦国期の兵農分離について
eroero1919の回答
- eroero1919
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武士というのは元々が「武装した農民」あるいは「軍人化した貴族」であったわけです。ですから、武士と農作業ってのは基本的に切っても切り離せない関係にあった訳ですね。 ただ、室町末期いわゆる戦国時代には時代が乱れて人の出入りが激しくなります。合戦に敗れたり村を焼かれたりして、あるいは立身出世を夢見て、人々が活発に移動するようになります。するといわゆる「流浪の民」が出てきますので、そういう人たちが「傭兵稼業」をしたりします。これが足軽の多くと一部の武士です。いわゆる「かぶき者」なんかはこういう人たちだったわけです。 まあいってみれば「土地持ちの武士」が正社員、「一時雇用の武士」が契約社員、「足軽」がアルバイトみたいなもんでしょうか。 織田信長は他の戦国大名に比べて兵農分離という視点からは非常に有利な位置にいました。信長初期の根拠地清洲は、伊勢湾と東海道によって交易が盛んな商業地だったのです。商業地でしたからまず現金が手に入りやすく、また交易が盛んということは都市つまり人が多かったということです。 そういったわけで、信長軍は良くいえば常備軍、悪くいえば傭兵隊中心の軍隊となったのです。比率についてはよく分かりません。ただ、時代と共に常備兵の比率が高くなっていったのは確かでしょう。秀吉が九州や四国に出兵した頃の羽柴軍はほとんど常備兵で、関ヶ原の頃になると東西両軍とも常備兵となります。 常備兵のいいところは、いつでも、好きなときに、長期間作戦が行えることです。半農兵ですと、農閑期にしか出兵できませんし、田んぼをほったらかしにはできないので、長期間に渡る作戦も行えません。 しかし一方しょせんは金で雇われたにしか過ぎないので士気も練度も低い。どうもこりゃやばいぞとなるとすぐに逃亡兵が続出してしまうんですね。織田軍はそれでしばしば痛い目に遭っています。 織田信長が兵農分離を進めることが出来たのも、「現金が手に入りやすくて、人的資源も豊富だったから」です。一方、地方の大名たちは田舎なので商業による現金収入は少なく、また地縁血縁のしがらみで家臣団の力も強かったのでなかなか思い切った組織改革をすることは出来なかったのです。
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