- ベストアンサー
江戸時代の苗字帯刀について
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
幕藩体制化の豪農は、有力豪族が群雄割拠した時代には「武士」だった家系が多いです。 戦に破れて領地へ帰農。その地で土着し、地主・庄屋・名主となります。 江戸時代当初、将軍家から領地を与えられた武将は「藩主」として新天地に赴任します。 まだ領内の治安が安定しない場合、武力か平和裏に支配権を確立するかは各藩で異なります。 土佐藩では「武力で支配権を確立」したので有名ですよね。 平和裏に支配を確立するには、豪農を味方にするのが早いのです。 米の生産高(○○万石)が安定しますからね。 その時の、信頼関係・家柄の尊重が(未来の)苗字帯刀問題に影響します。 江戸中期になると、武士は「戦闘要員から、生産性の無い消費者」(名誉職)となります。 >「豪農」、「藩に多額のお金を納めた」等いくつかの例を知りました その通りで、藩・藩主に対して援助した者は苗字帯刀を許されました。 百姓の次男坊でも、「カネ次第」で武士になれた時代です。 不浄役人(必殺仕置人の主水クラス)だと、案外「農家・町人出身者」が多いのですよ。一応、由緒ある家の養子になりますが。 鎧兜ですが、平和な時代には「武士が質屋の質草」に出しています。 既に「無用の長物」と化していたのでしよう。 (ペリーが来た時、武士が一斉に「質屋で鎧兜を引き出した」記録があります) 苗字帯刀と同時に「元有力武家の家臣、有力郷士(地侍)だった豪農」には、鎧兜を認めている場合があります。 以前、私が赴任していた中部では「元武田家家臣を先祖に持つ庄屋」の住居の一般公開があり「鎧兜」も「苗字帯刀及び鎧兜を許す」書状を展示していました。 四国の某庄屋は、南北朝時代に細川家家臣だった家柄です。 ここにも、江戸時代の鎧兜と一緒に同様の書状が残っています。
その他の回答 (2)
- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
「苗字帯刀鎧兜着用」というのは、初めて見ました。 兜は上士が被るもので上士待遇ですね。 上下着用も上士待遇です。 前の質問で「苗字帯刀うちかけ着用」というのがありましたが、幕末の武士着用の「うちかけ」を見るとなかなか立派で上士用です。 上下着用は旗本、御家人では大体100俵取(100石相当)以上の上士にゆるされるものです。 従い100石取以上の士分待遇という事です。 「鎧着用」ですが常識的には鎧兜着用と同じに思われますが、同じ藩内に両方がある場合は、兜の無い方はいざ鎌倉の節は陣笠をかぶるので、下士待遇と思われます。
お礼
回答ありがとうございます。 一口に苗字帯刀と言っても色んなパターンがあるんですね。 「うちかけ」って女の着物とは限らないんですね(^^;。 古書屋から先祖の地元の郷土史も買ったのですが、 他に「鎧着用」という家は見当たりません。 藩全体となると分かりませんが、 私も聞いたことのない待遇だなと思って質問しました。 とにかくかなり特殊なんでしょうかね。
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
手元の時代考証事典を調べてみましたが、「鎧着用」云々については書いてありませんでした。 しかし、れっきとした武士でも、下士と呼ばれる人たちは、上士にであったら土下座しなければならないとか、雨雪の時でも傘をとらなければならないとか、足駄を履いてはならないとかの制約が山ほど書かれています。 公式には、武士以外には鎧着用まで認められていたとは思えないのですが。郷士でも無理じゃないですか。 例えば武田家の家臣が流れて行って、そこで豪農になったり庄屋になったりしていますが、そういう人たちが、こっそりと持っていたのを、せいぜい「黙認していた」程度ではないでしょうか。 ちなみに、姓や家紋は、農家でもけっこうこっそりと持っていました。表だって姓を唱えなければ処罰はなかったようです。我が家自体は水飲み百姓ですが、江戸時代からの本家、その上の総本家は江戸時代から今の姓を(儀式などの際には半ば公然と)名乗っていたそうです。そんな感じなんじゃないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 実は「苗字帯刀鎧着用」というのはうちの先祖なんです。 先祖は庄屋の分家と聞いていたので、 苗字帯刀鎧着用と書いた文書が出てきて、 私達自身も頭をひねっていたんです。 落武者だったりするんですかね…(^^;。
関連するQ&A
- 孝行者に名字帯刀
1720年頃から江戸幕府では、長寿のお年寄りの血の繋がってる家族、奉公人、養子含めに孝行者として、ご褒美に、銀の他に百姓、町民は名字帯刀を許したとあります。しかし、文献には名字は永代、帯刀は一代切とありますが、実際は代々名字も帯刀も許されたみたいですが、これに関しては本当か、どうかは分かりません それと中には藩に武士として登録された人もいたみたいです 長寿お年寄り本人は、藩主か代官に宴に招待してもらったみたいです なぜ、長寿お年寄りのいる家族にも、ここまで手厚くしたんでしょうか? 因みに、お年寄りが77歳以上になったら、家族が孝行者の対象になるということも読みました
- ベストアンサー
- 歴史
- 鎌倉時代の後半くらいに
先祖が石川県で御家人だったみたいなんですが、その後江戸時代とかは加賀藩とかに参加してたりしますか? 加賀藩とかって、武士の家柄しかなれなかったんですか? 新撰組が好きで、京へ行ってなんやかんやで絡んでないかな~とか思ったんですが・・・加賀藩自体あんまり何もしてないとか書いてありましたけど、京には行ってるみたいです。 鎌倉後半に御家人だからって、ずっと江戸時代まで武士やってる訳じゃないんですかね?
- ベストアンサー
- 歴史
- 江戸時代に名字(姓)を持っていた農民、商人はいましたか?
江戸時代まで名字(姓)が許されたのは、貴族、武士だけだと学校では習いました。一般庶民が名字を持つようになったのは、明治時代からだと思いますが、本当に江戸時代に名字を持っていた農民、商人はいなかったのでしょうか? 一部の有力な農民、商人の中に名字を持つ者はいなかったのでしょうか?もしいたら、それはどういう理由から持つことを許されたのでしょうか? ご教授願えませんか?よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 江戸時代、苗字を持っていなかった人の割合は
江戸時代、公に苗字を名乗れるのは武士や特別に許可された農民だけでした。 しかし、ほとんどの人が苗字を持っていたと思います。 寺社に奉納した石碑などに、農民の名前が刻まれているのを目たことがありますし、 寺の過去帖で、村全員の苗字が載っているのを見たことがあります。 そもそも、名前だけだと、どこの家のものか区別がつきにくいですよね。 明治になって初めて苗字をつけた人がいるらしいですが、 そういう人たちの割合はどれくらいだったのでしょうか? あるいはそれは俗説にすぎないのでしょうか。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 江戸時代の武士の結婚。
江戸時代の武士の結婚。 江戸時代、武士が結婚する場合、家柄が同じであることが条件であったと思うのですが、大名の家臣の場合、家柄が同じであれば、異なる大名の家臣同士の婚姻はあったのでしょうか。 ピラミッドの頂上に近い(つまり、上級の家臣)ほど、同家格の家の数が少なくなってしまいます。 実際はどうなっていたのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 江戸時代の刀の値段について教えてください。
江戸時代の刀、つば、よろいの平均的なお値段について教えてださい。あと、それは武士たちがどのような形で支払ったか、お米であるとか金貨であるとか。というのも知りたいです。武士のお給料はその当時どれくらいでお金で支払われたのでしょうか?長い質問ですが教えていただけますか?宜しくお願いします。
- 締切済み
- その他(趣味・娯楽・エンターテイメント)
お礼
回答ありがとうございます。 幕藩体制により、 それ以前の身分に変化が生じた事例は私も読んだことがあります。 朝倉家の旧臣が金沢城下で薬屋をしていたとかいう話も 聞いたことがありますが、 主水クラスの人々の出身階層については考えたこともありませんでした(^^;。 農民(豪農)に鎧兜が認められた事例は確かに存在するんですね。