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鎌倉時代の後半くらいに

先祖が石川県で御家人だったみたいなんですが、その後江戸時代とかは加賀藩とかに参加してたりしますか? 加賀藩とかって、武士の家柄しかなれなかったんですか? 新撰組が好きで、京へ行ってなんやかんやで絡んでないかな~とか思ったんですが・・・加賀藩自体あんまり何もしてないとか書いてありましたけど、京には行ってるみたいです。 鎌倉後半に御家人だからって、ずっと江戸時代まで武士やってる訳じゃないんですかね?

  • 歴史
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回答No.1

つまり、あなたの家が武家かどうか知りたいのですね? 御家人というのは、鎌倉幕府に仕えた武士のことを指します。 ですので、石川県のあたりの統治を任された地元の武士だったのでしょう。 >加賀藩とかって、武士の家柄しかなれなかったんですか? これがよくわからないのですが、 「加賀藩士は武家の家柄しかなれなかったのか」 と読み解くとすれば、そうです。 それも、前田利家が今の名古屋、福井あたりから連れてきた武士がほとんどです。 あなたのご先祖様は、おそらく鎌倉幕府崩壊後、一向宗徒になって、一向一揆に参加されたか、能登あたりへ流れて、農民や商人、貿易商などになられたのではないかなと思います。(能登はとても豊かな土地です) それから、今お住まいの所へ何らかの事情(おそらく明治維新、高度経済成長など)で移られたのでしょう。 >加賀藩自体あんまり何もしてないとか書いてありましたけど、京には行ってるみたいです。 京都には行ってますが、新選組とは絡みがありません。さくっと倒幕派につきました。 新選組と絡んでいてほしいなー、と思う気持ちはわかりますが、新選組に関わった人はほとんどが殺されるか刑死しています。 あなたが存在しているということは、ご先祖様は明治維新を生き延びた方、ということになりますよね? そうすると新選組に関わっていた可能性はものすごく低いです。 新選組の子孫というだけでローカル番組に出られるくらい珍しいです。 自称「新選組の子孫」ってかなりいるんですが、ひいおじいさんが嘘ついて、それがそのまま信仰されてるなんてケースがほとんどなんですよ。

catkyuu
質問者

お礼

なるほど!!鎌倉幕府崩壊後は、多分武士を辞めたのか江戸時代も例え武士だとしても、加賀藩に入ってる可能性も低いかもしれませんね。 多分、鎌倉幕府崩壊後は商人か農民になったかもしれません。ありがとうございました。

その他の回答 (1)

noname#224207
noname#224207
回答No.2

「加賀藩への参加」と言われておられるのはどのようなイメージでしょうか。 新撰組がお好きとのことですが、新撰組のメンバーを徳川家つまり幕府に参加していたとすれば、可能性はあります。 新撰組は幕府の命を受けて京都へ行ったのだから参加しているのは当然じゃあないか、と言われますと、実は身分上はやや違います。 新撰組のメンバーというのは郷士と呼ばれる人達で日常は農作に従事していて、帯刀を許された人達です。 ただし、何か功績があって苗字帯刀を許された庄屋(名主)さん達とは違い先祖代々続いていた人達です。 徳川家=幕府の正式な基準では、武士とはされずに農民即ち百姓として位置付けられていました。 但し、住んでいる土地では習慣的には武士と同様の扱いをされていました。 このような人達は日本中どこにでもいました。 この人達の位置づけは各藩で違っていました。 薩摩藩のように、兵農分離が徹底していなかった藩では、藩士であっても農地を耕していました。 西郷隆盛の銅像が極めて気楽な恰好をしているのはこの為です。 徳川家=幕府は厳格にルールを適用していました。 結果としまして、現在一口に武士と言いますが江戸時代は士と卒に厳然と区分していました。 土佐藩の場合には上士と下士として厳密に区分して取り扱っていました。 寡聞にして加賀前田家がどのように位置付けていたのか知りません。(スミマセン) 明治政府が新たな戸籍上の身分として士族を定めた際に、当初は士のみでしたが、卒であった人達からの運動で卒であった人達も士族とされるようになりました。 結果として、郷士や下士などの人達も士族として登録されました。 勤王方の浪士を取り締まるために、新撰組という新しい組織を作ったのは、幕臣である士や卒では京都奉行所の警察権と本来武士を取り締まる役職の目付の権限とが錯綜してしまうことと、その場で切り捨てることができなくなってしまう、という法令上の問題がありました。 この為に刀の取り扱いに慣れていて武士ではない郷士であった人達が選ばれて組織化されました。 冒頭に分かり難いことを申し上げたのはこの為です。 この臨時雇用の人をどう考えるか、という問題です。 江戸城内で掃除などの雑用をこなしていた人達の身分は町人です。 専任ですから幕府に参加していたとも言えます。 加賀前田家が参勤交代で行列を組む際に、駕籠を担いだり、荷物を運んだりしていた人達は身分としては、百姓か町人です。 旅慣れていて身元もしっかりしていますから常雇いということになります。 そういう意味では立派に加賀藩に参加していたとうことになります。 鎌倉時代の御家人と江戸時代の藩幕制度下での御家人とは、名称は同じですが性格が全く違います。 御家人 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/御家人 江戸時代に入って身分制度が固定化されるまでは、武士とよばれる人達はある意味ではなんでも屋でした。 戦もすれば、畑も耕し、必要あれば商売もしていました。 村人にとっては便利屋のような人達でした。 武士は元農民。農民の勇気と誇りから生まれた生き方。 - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/2133903784637327401 NHK高校講座 | 日本史 | 第8回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の ... www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume008.html 江戸時代以前の村落というのは、税金を取り立てる権利を持った人が複数いるという非常にややこしい状態になっていました。 この為に農民も領主が気に入らなければサッサと他へ引っ越してしまいました。 いわば農耕技術を持った技術屋集団のような性格を持っていました。 このような状況下で御家人だったということであれば、鎌倉幕府から住む土地での支配権を認められていた人だったということになります。 戦国時代という動乱の時代を経て江戸時代の身分制度に武士として潜り込むことができたか否かは分かりません。 加賀藩の初代藩主とされる前田利家も加賀の人ではなく尾張から移ってきた人です。 鎌倉時代から居た人ではありません。 当然連れてきた家臣も他所の地の人達です。 地元の人達をどのように扱ったのかは寡聞にして知りません。 戦国時代には地元の多くの名家が没落させられていますので、何ともよく分かりません。 地元の博物館や資料館にいかれれば郷土史の資料は沢山あるかと思います。 郷土史家の方も沢山おられて、県民向けの郷土史の本や論文を出版されておられるかと思います。 一度お近くの図書館へ問い合わせてみて下さい。 質問者さんも世が世ならば徳川なんか糞くらえだったかもしれません。

catkyuu
質問者

お礼

ありがとうございます >戦国時代という動乱の時代を経て江戸時代の身分制度に武士として潜り込むことができたか否かは分かりません。 この時代に生きてる人にしかわかりませんねぇ~謎はまだまだあるようで・・・ 私が江戸時代に生きてたら、新撰組を憎んでたかもしれないですね!攘夷派だったりして・・・

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