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戦国の騎馬は農耕馬?

shizumoの回答

  • shizumo
  • ベストアンサー率12% (159/1285)
回答No.7

明治にはいっても日本の騎兵の馬は去勢していませんでした。その結果、気性が荒くまともに隊列も組めず、ロシアから牝馬を放たれると勝手についていくしで世界中の軍隊から「日本はまともな馬を持っていない」と笑われました。モンゴル人ですら、一つのグループのオスは一頭だけをのこして全て去勢しその一頭もたてがみを切らずにすぐわかるようにしました。気性が荒いので滅多に乗ることはありません。 日本の武士は去勢しない気の荒い馬を乗ることを誇りとしていました。 馬自身、相手に乗りかかる武器として使ったわけですが、そのような理由で細かい制御などできるとは思いません。戦場で鉄砲や怒鳴り声がとびかうなか馬は半狂乱になって真っ直ぐ進むだけ、乗り手は大まかな方向に馬を誘導でき、落馬しなければそれで十分だったと思います。 そのようなわけで規制の取れた騎馬軍団などできようもなく、徒歩の足軽と武士の中にちらほら馬に乗った武士がいる程度でした。 逆に農耕馬はおとなしく百姓でも制御できるものでなくてはなりませんから 牝馬が多かったでしょう。しかし、農耕馬をそのまま戦闘馬に使ったかというとこれはないと思います。農耕馬は鍬やろくをつけ人が横について引っ張って誘導し走る事はありませんが、戦闘馬は人が乗り走り回ります。とくに乗用馬の制御に関しては乗り手の脚で誘導ができなければ使い物になりません。これは調教しなくてはだめで「種」そのものを農耕馬から戦闘馬に改良すると言う事は無く同一品種のなかで調教によって戦闘馬をつくったと考えるべきでしょう。日本の馬文化は先に述べたように去勢も知らず、ましてや交配の技術などもありませんでした。

hirarno36
質問者

お礼

回答ありがとうございます。別の視点からの回答勉強になりました。 日本の馬文化は遅れていたのですね。たしかにモンゴルあたりだと遊牧民と重なって優れた技術がありそうですものね。 いわゆる荒馬を乗りこなす、これこそは武士の誉れだったのでしょう。いまで言うフェラーリ(跳ね馬)の大馬力を使いこなす。そんなところでしょうか。おっしゃるとおり、鉄砲の音は馬を制御する上では邪魔なものですね。戦国期では銃声で敵を脅すのも銃の使い道である、と聞いたことがあります。ありがとうございます。

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