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戦国の騎馬は農耕馬?

Scullの回答

  • Scull
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回答No.4

重い鎧をつけた武士を乗せて国産馬が戦場を駆けていたのはたぶん事実でしょう。平安時代から鎌倉時代にかけての事ですが。鵯越の逆落としも「おそらくかなり事実に近い」のでしょう。馬を大事に思った武者が、馬を抱えて降りたという描写がありますから。サラブレッドではそんな事あり得ませんが、国産馬なら不可能ではないでしょう。 この時代の戦争は騎馬武者が二騎敵味方で一騎打ちを行います。武器は弓箭。矢が尽きた場合は互いに「組み討ち」へと移行します。馬上では行えませんから、飛びかかって地面の上で鎧通しなどを使って決着をつける事になります。配下の徒武者は主人の手柄を横取りしない様に、旗や弼、予備の武具などを持って主人の周りに待機する事になります。 武田の騎馬軍団はフィクション。当時の編成では「騎馬のみの部隊」はなく、騎乗した武士にやはり鉄砲、槍、弓箭を備えた徒が随行します。 当時の織田軍が画期的だったのは鉄砲をたくさん運用した事ではなく、通常武田軍の様な「混成部隊」だったものを鉄砲足軽、槍足軽、弓足軽などで編成し足軽大将などに指揮させた事です。これによって部隊ごとに「目的に合わせた配置」が行えます。 長篠の戦いで武田が敗れたのは単に鉄砲どうこうではなく、挟撃にあって袋のネズミになっていたからです。織田軍到着までに落城させられなかったのが敗因といえるでしょう。

hirarno36
質問者

お礼

回答ありがとうございます。ここまで皆さんの意見を読んで、あぁやっぱり、って感じでしたが、初の肯定回答ですね。でも馬を抱えるってよほど大事(貴重)だったのでしょうか。組み討ちに持ち込んで決着を付ける。結局最後はそうしていたのでしょうね。 <武田騎馬軍団はフィクション> やっぱり戦国期の集団戦闘では無理があったのですね。部隊編成的なことを考案したのは織田氏だったんですか。かなり画期的といえますね。 勉強になりました。

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