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戦国の騎馬は農耕馬?

myeyesonlyの回答

  • myeyesonly
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回答No.5

こんにちは。 当時の日本の馬はおっしゃるようにサラブレッドじゃなく、小さな馬でした。 多くの武将が普段は農耕用の馬を合戦時には農民兵士と一緒に徴用してたようですが、甲斐、木曽、南部など、xx駒として知られる地域では、牧場が発達し、馬の産地だった関係上、馬は豊富なので合戦用に騎馬を生産する事が行われていたようです。 #農耕用と同種ですが、育て方の違い、訓練などは行われていたみたいです。 また、牧場で騎馬生産に従事する家では、当然、馬を上手に乗る人が兵士として出征しますから、ある程度の騎馬軍団を組織する事も出来たようで、武田信玄などは、少数ではあるけど、強い騎馬隊を実際に持っていたようで、これによる機動で勝利した戦もちらほらとあるようですので、あながち「騎馬軍団などは無かった」ともいえないみたいです。 ちなみに、北条氏康の頃の北条の騎馬兵含有率?は10%程度、武田信玄で8%で、比率では北条の方が勝る事になってるようですので、武田騎馬軍団が有名なのは、量ではなくてやはり質によるものでしょう。 恐らく牧場出身部隊などを独自に将に付けて機動を行ったのではないかと思われます。 また奥羽地域では、雪が半端じゃない事などで独特の戦術が発達し、本州側とは少し違う戦術があった事などがあり、義経が特殊な戦法に長けていたのは、奥羽地域で幼少期を過ごした為である可能性が高いです。 馬が戦場を駆け巡る事の真偽ですが、日本のような平地の少ない地形、田んぼや畑が沢山ある場所では、現在のサラブレッドのような足の長い品種の方が走りにくく、簡単に骨折・放棄されてしまう事になります。 むしろ農耕用の馬をそれなりに調教して使った方が有効だったでしょう。

hirarno36
質問者

お礼

回答ありがとうございました。う~んやはり農耕馬でしたか。たとえドラマや映画とは言え、馬を乗りこなせないと武士役は務まりませんものね。乗りこなせる、調教できれがこそ戦場に行ける。そうですね。 回答して下さったように、ある意味足腰強い農耕馬は日本の国土にマッチしていたのかも。道も相当悪かったようですし、田畑や川を渡ることも馬にさせていたならなおさら納得です。 <武田騎馬軍団が有名なのは、量ではなくてやはり質> まったく存在しないのではないのですね。しかも北条氏の方が量が多かったとは。 奥羽地方や木曽で馬が丈夫に育つのも感じとしてはわかります。勉強になりました。

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