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神とはなんでしょう?

『自然』や『生命』に『神』を思う人あれば 現象に『運命』や『意志』を感じ『神』を見る人あり 『ラブラスの魔』のごとき『神』を幻想する人もあり 『集合的無意識』の中に『神』を見いだす人もあり 『神』といってもいろいろあります 『神』とはなんでしょう? 有神論の方は『神とは現象に対してどのような存在なのでしょう?』 無神論の方は『人間はなぜ神を幻想してしまうのでしょう?』 という質問として受け取ってください

みんなの回答

noname#26603
noname#26603
回答No.14

世界を3秒前に創っている意識体. とでも言えばいいのだろうか.

H240S18B73
質問者

補足

レス遅くなって失礼 五分前仮説、懐疑論とかは 直接的にはあんまり関係ないですが 人は神を如何なる存在と見るか というところに通じるヒントがあるかもしれません

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  • fantom
  • ベストアンサー率31% (30/94)
回答No.13

神を幻想してしまうのは、 人の脳は生まれながらに 脳のどこかに神を感じる分野があり、 死のイメージや強い刺激を感じることで、 大きな存在に畏怖する機能が備わっているからでしょう。 (機能が働く閾値に達するには個人差はあると思います) これらは脳の機構が解明されていけば、 いずれ解明できるんじゃないかと思います。 これはなにも人間だけでなくて、 象、イルカ、ゴリラでも神のようなものを おぼろげにも感じているのかもしれません。 人間の知能になって、 ようやく神のイメージを具現化することにできたのでしょう。 もし人間より知能が高い生物がいるなら、 より鮮明な神を思い浮かべられると思います。

H240S18B73
質問者

補足

まさに僕の考えとそっくりそのまま同じです 道連れができたようでうれしいです(笑) ではその『神』の『元型』はどのようなもので どのような役割をもっているのか? 『死』『生命』などの畏怖すべき存在に結びつく 以外ではなにもしていないのか? どんどん潜行していきましょう

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  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.12

#5です。 補足を。 >宗教は『人は何をすべきか、いかにして生きるべきか』 >という『目的』を求めて現象を組み立てる 極めて、一神教的な考え方だと思います。 全知全能な存在を想定するのも、一神教の特徴です。 一神教では、他者を認めません。 他者を認めない以上、なんでもかんでも自分でやらなければならなくなってしまう。 だから、神は全知全能でなければならないのです。 そして、一神教は我々の生活までも(人の役割から人生、運命まで)規定しようとします。(予定説など) 一方、多神教では、それぞれの「現象」を司る神が想定されます。 彼ら/彼女らは、自分の司る「現象」については完璧ですが、それ以外の事となるととんとダメになる。 時には人間に負けることだってある。 全然、全知全能なんかじゃないです。 また、一神教は明確な組織を作って信者を増やしますが、多神教では必ずしも組織を必要としません。(もちろん、神社や神殿を守るための組織などは形成することはありますが) 日本は、近代以降西洋から学問と共に一神教的な考え方も輸入しました。 時には、一神教を国教にしようとさえしました。 その影響からか、宗教や神を巡る議論を聞くと、一神教的な発想の方が多く見受けられます。 もともと、「宗教」なる言葉も明治期に広まった言葉ですし。 神や宗教はもっと地に足のついた、身近なモノのはずだと思うのですが。 >僕は宗教と科学はもっと >根本的なところで違うと思っています 確かに、科学と宗教には明確に違うところは存在します。 しかし、世の中の現象や成り立ちを説明しようとする根っこの部分は同じだと思っています。 科学と宗教の差をあえて挙げれば、「再現性」を見せつけられるかどうかだろうと思います。 科学は論理はどうあれ、その実験を行えば誰がやっても同じ結果になるという「再現性」が求められ、それのみを「回答」として与えます。(※ここでいう「科学」は「狭義の科学(自然科学)」の意味で用いてます)

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
H240S18B73
質問者

補足

僕の考えを簡単に言うと 『自然』を解明しようとするのが『科学』 『倫理』と『自然』の源流を同じところに 見いだそうとするのが『宗教』だという考えです 『自然』に『人格』を見るところから それは始まっているのだと考えています 多神教であろうと神託所のごときものはあり 政(まつりごと)と称すごとく、古には 政治というものは神に意向を伺う事でもありました つまるところ宗教というものは世界を成すものに 『人は何をすべきか』をもとめたワケです

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.11

>『神』とはなんでしょう? :現段階では、人智で解明できない何らかの仕組みが存在することは確かでしょう。 しかし、その何かの仕組み(あるいは力)を神と名づける必要性は無いですね。 自然、宇宙摂理などで十分でしょう。 無論、それらの象徴として神という言葉を代用するにやぶさかではありませんが。 ただ、神という言葉を生み出した時の人間心理として、不可知なものに対する怖れ、あるいは諦めも混在していたように思います。 有神論者というのは、 「人間には不可知な事柄が存在するという事実を認めるということ」から、 「不可知なのだから人間以外の何かの意志である、と比喩的ではなく思い込むこと」への、 偉大なる論理の飛躍を苦も無く行なう人々であるように感じます。 これは、非常に敬虔であるようでいて、ある意味、非常に傲慢な論理ではないかという気がします。 なぜなら、自分たちの存在基盤について不可知のままにしておくことは許されない、という論理が根底にあることにもなるからです。 いずこから来ていずこへ行くのか。 わからなくいいんじゃないでしょうか。 考えてみることは必要かもしれません。 ただ、それはおそらく正解を出すためではないような気がします。 「神としか言いようのないもの」としての不可知的摂理の存在は誰も否定できません。 その力の支配下にあることもまた事実です。 しかし、それはあくまで結果論であって、 今の生を生きる我々が顧みるべきことではあるが、それに運命づけられていたり、あるいは制約を受けたりするものではありません。 そのような無用なベクトルをもたらす存在としての神の捏造は、真の意味での神的真理への冒涜にもなるのではないか、という気すらします。 >人間はなぜ神を幻想してしまうのでしょう? :上に述べたことの繰り返しになってしまいますが、むしろ傲慢だからではないでしょうか。 ただ、傲慢の根本的原因は怖れですから、人生はそれだけ苦に満ちていると感ぜざるを得ない場合が多いということなのでしょう。  

H240S18B73
質問者

補足

遅レス失礼 『神の幻想』があるとしてもそれは相当上層の心理であり 基本的に先天的なものではないという考えでしょうか しかし貴殿も考え致しておられる通り >その何かの仕組み(あるいは力)を神と名づける必要性は無い ですし >不可知なのだから人間以外の何かの意志 などと『意志』を根本原理とする必要性もないでしょう しかしそうしてしまってきた なぜなのか? もしかしたら『我思う故に我あり』と考え 懐疑し得ぬものは『意思』の存在だけだとして むしろ懐疑論的に根本原理に 『意志』を見いだしたのかもしれないですが 諸神話を見ると『神』というのは もっと深層の心理が現出したもの ではないかと考えてしまうのです

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回答No.10

>神の『行為』であったと考えますか? それは捉える人側にあると思いますね神の仕業を「神の意志」と捉え るか「神そのものはからくりそのもの」と捉えるか 例えばガイア理論というものがありますがこれは宇宙は生命体じゃな いか?という理論です。 人間の構造と似ている部分があり生命体と捉えても良いのではないか ?という理論です。 SFでも出てきますがトップをねらえだったかな?生命体とはいえる かどうか判らないような存在がやって来てやつけちゃうという漫画な のですが例えばその存在が何であろうと其れを「神」と捉えるか「神 ではない」と捉えるかの違いだと思いますね。 心理学現象でいうと有名なユング理論の中で曼荼羅模様などの放射線上 なイメージの中心的存在でしょうね人によっても形は違いますが石な どの四角形とかちゃぶ台の円形とか結晶模様など中心から四方八方に 広がる感覚が神だそうです。(そうするとピラミッドも上から見ると 神なのかな?w)

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回答No.9

有神論者です 神は要ると思いますねあのアインシュタインやエジソンすら有神論者です。 神というのは科学でも理論でも”判らない”領域に存在するのが神です。 つまり未知な領域で我々の世界すべてを動かしている何かです。 また我々の科学や世界の認識を統合している存在です。 ビッグバーンの説明で神が一撃を加えたとか物理学者が言っていました があれはなぜビッグバーンが起こってこの世が出来たのか”判らない”と言っているのです。 では判ったら神はいなくなるのか?というとそうではありませんビッ グバーンが起こった理由が解明したらその理由は?こうこうこうでこ うです。 ではその理由は?こうこうこうこうこうです。 ではその理由は?こうこうこうこうこうこうです。 では・・・・・・・・・・・・と∞ループするので神は不死です。 つまり今ある現実は神が創ったからくりなのです。

H240S18B73
質問者

補足

いくつかの神話における創世神は無意志な存在です すなわち『目的』というものがなく『行為』というものがありません 創世のためのシステムであるかのごとく創世をします 創世は『意志』のある神の 『行為』であったと考えますか? それとも神の存在それ自体からくる 『現象』のようなものだと考えますか?

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  • dogendd
  • ベストアンサー率15% (2/13)
回答No.8

価値観みたいなものではないでしょうか。 たとえば昔は天動説をみんな信じていた。神を信じている人達も結局天動説を信じていた。いまは地動説になった。神を信じている人も天動説を唱える人はいないでしょう。エジソンも霊界通信機を晩年に研究していたし、そもそも神がいるならば、神の目的とは何かということが、テーマになってくるような感じがします。どのみち無神論にも目的はあると思いますし。究極的にはそうやって世界が発展していくのかも。

H240S18B73
質問者

補足

>そもそも神がいるならば、神の目的とは何かということが >テーマになってくるような感じがします 『神』をどのような存在として考える故に そうなるのでしょうか? なぜそういう『神』を幻想してしまうのでしょうか? そこが問題です

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noname#69788
noname#69788
回答No.7

神とは、全知全能ですべてのものの創造主だと思います。偶然に地球ができ、生物が存在するなどということはありませんとおもいます。

H240S18B73
質問者

補足

『偶然』という言葉には一般的な 使用においては2つの意味があります 1『必然でない、確率的な現象である』 2『意志によらない、行為によらない現象である』 というような意味です 『偶然に生命が生まれるはずがない』という場合の 『偶然』の意味をすなわち『意志によらずに』と捉え 『生命の誕生は必然だった』という考えではなく 『生命の誕生は意志によった』という考えを とったのはなぜでしょうか?

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  • simakawa
  • ベストアンサー率20% (2834/13884)
回答No.6

居るのでしょう.人間の体の機能を考えたら居るとしか思えません.こんな精巧なすばらしいものを作れるのは神しかいないでしょう. 普段は人の心に存在するものだと思います.でなければ不幸な事故など説明が付きません.

H240S18B73
質問者

補足

殺して食べるという行為を 伴う事で初めてバランスのとれる 生命のデザイナーである神にまた 人間に正義や幸福をもたらす事を 期待できると思うのはなぜでしょう? また彼はどこからなにをどうやって現象に干渉し デザインをしているのでしょうか?

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  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.5

特定の宗教や神は信じてませんが、なんとなく居るような気がしてる日本人てき考えの持ち主です(笑) 人間とは頭でっかちな生き物です。 分からないモノ、得体の知れないモノ、将来への不安、自分たちのルーツetc... 自然現象から運命まで、あらゆる物事に対して、理由や原因を探そうとします。 それを得ることで、安心感や精神の安定を図ろうとするんでしょうね。 科学ですら、宗教と通じるところがあります。 科学とても、あらゆる現象の理由や原因を求める活動です。 宗教と科学の差は、目に見えるモノしか認めないかどうかでしょう。 誰が見ても同じに見えるモノを、真実と認めるのが科学ですから。

H240S18B73
質問者

補足

不可知なものへの恐怖などを克服する為に 『神』を幻想するということはあるかと思います こういう見方をすると科学と宗教 神とプラズマ(笑)に似たようなところを 見いだしてしまうのですが 僕は宗教と科学はもっと 根本的なところで違うと思っています 宗教は『人は何をすべきか、いかにして生きるべきか』 という『目的』を求めて現象を組み立てる 科学は『どのようにして世界は存在するのか、どうなっているのか』 という『原因』を求めて現象を掘り下げる 『目的』もやってることもかなり違っていると思ってます

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